« 平成9年/1997年、重松清が早稲田大学で「エンターテインメント文芸」の授業を担当する。 | トップページ | 平成14年/2002年、文芸編集者の根本昌夫がカルチャースクールなどで小説講座を始める。 »

2021年1月 3日 (日)

昭和63年/1988年、早稲田大学文芸専修に在学中の角田光代がコバルト・ノベル大賞を受賞。

20210103

▼昭和62年/1987年、早稲田文芸専修の学生が、すばる文学賞の最終選考に残る。

 重松清さんが直木賞を受賞したのは第124回(平成12年/2000年・下半期)、37歳のときです。それからぴったり4年後、第132回(平成16年/2004年・下半期)の直木賞を、同じく37歳で受賞した早稲田の後輩がいます。角田光代さんです。何だか最近のような気もしますが、16年もまえのハナシです。……まあ、最近といえば最近かもしれません。

 80年代後期から90年代、「創作教室」ブームが咲き誇りました。その受講生のなかから、一部の人が作家デビューを果たし、こつこつと商業小説を書きつづけるうちに、これまた一部の人が直木賞の候補に挙がりはじめます。ということで、90年代以降の直木賞に創作教室ががっちり絡み合ってくるのは、自然な流れです。

 たとえば、朝日カルチャーセンターで小説の執筆を始めた篠田節子さんの直木賞受賞が、第117回(平成9年/1997年・上半期)。講談社フェイマススクール出身、宮部みゆきさんは、第105回(平成3年/1991年・上半期)の初候補からえんえん7年かかって第120回(平成10年/1998年・下半期)で受賞しました。

 そのほか、小説教室に関わる候補者のことは、また取り上げる機会もあるでしょう。今週の主役は角田さんです。

 女子高を出た角田さんが選んだ進学先が、文芸専修のある早稲田大学第一文学部です。何となく選んだとか、だれかに誘われて入った、ということではありません。私は小説家になりたいんだ、絶対になるんだ、と作家になる目標をド直球に追いかけ、「小説の書き方を教えてくれる大学」に入るために必死に受験勉強に取り組んで、自覚的に小説教室に飛び込みます。

 角田さんが早稲田に入った頃は、ちょうど先週取り上げた重松さんが卒業した時期にあたる1980年代半ばです。堅くて真面目くさったのばかりが文学じゃないぜ、と言わんばかりに多様な小説や読み物が商業出版ルートに乗って、わさわさあふれ返っている時代です。

 刊行点数はまだまだ右肩上がりで増えつづけ、小説を書きたいと思う人も減少の気配はありません。本はたくさん出るけど、書店には並べておくスペースもなく、けっきょくほとんどの作家は売れずに消えていく。などとも言われましたが、ちなみにその頃、小説を出すとどの程度の部数が刷られていたか。貴重な参考資料『公募ガイド』に紹介されていたので触れておきます。

「新人の場合、イニシャル(初版の発行部数)は1万部から1万5千部、多くて3万部といったところ。純文学のなかには5千、8千部からスタートという例も多い。」(『公募ガイド』平成2年/1990年9月号「特集2 “書き屋”の世界 それぞれの現状、原稿料、プロへの道を探る」より)

 いま現在、新人の小説が1万部刷られるのは稀だと聞きます。日本全体のバブル景気に煽られて商業出版も浮かれ立ち、やはり異常な賑わいを見せていた、と見ていいでしょう。

 ハナシを角田さんに戻します。世間が浮かれ立とうが立つまいが、自分は小説家になりたいのだ、という一心で念願の早稲田に入学。しかし入ってみると、まわりの同級生も先輩も、あまりにたくさんの本を読んでいたので愕然とします。自分は本が好きで、これまで多くの本を読んできたと思っていたのに、何なんだこれは。自分が何も知らない田舎の小娘だった事実を突きつけられてショックを受けた、ということです。

 それでも、小説家になるという思いはくじけません。二年生に上がるときに選んだ専攻は、予定どおり「文芸専修」。小説が書きたくてうずうずしていた角田さんは、先輩の提出した小説を読み、なるほど、作文と小説はこういうふうに違うものなのか、と試行錯誤しながら課題の創作に励みます。課題がなくても書いて書いて、積極的に先生に読んでもらったそうです。

 さあ恐ろしいのは、そこで先生にも褒められて、じゃあどこかの新人賞に挑戦してみるかと、第11回すばる文学賞に応募したところ、あれよあれよと予選を通過し、最終選考まで残ってしまったことです。昭和62年/1987年秋。受賞には至りませんでしたが、集英社の編集者から、あなたはまだ若いので若い人向けの小説も書けるかもしれない、とコバルトの部署を紹介してもらいます。改めて読者を意識して書いてみたところ、これもまたすぐに認められて、昭和63年/1988年春に第11回コバルト・ノベル大賞を受賞。在学中にして、晴れて〈彩河杏〉の名で作家デビューを果たし、その収入をもとにひとり暮らしを始めるのです。

 恐ろしいというか何というか、作家になりたくてなりたくて仕方ない、と夢を抱えながら何年も(あるいは何十年も)小説教室に通っている人にとっては、羨ましい、ないしは恨めしい展開かもしれません。

 おそらく角田さんのような人は、文芸専修に行かなくてもいつか作家として世に出たでしょう。自力で職業作家になれる才能が、世間にいくらでも眠っているというのは不思議なことではありませんが、こういう人が小説の書き方を教わるきっかけに、大学の創作科を選ぶ選択肢がすでに準備されていたのは、出版文化全体を見ても重要だと思います。

          ○

▼平成2年/1990年、大学を卒業して1年後に、角田光代が『海燕』で再デビュー。

 角田さんのたどった道のりは、小説教室に関係する作家デビューのなかでも特殊には違いありません。ただ特例とはいえ、一例ではあります。もう少しつづけます。

 大学の文芸専修に在学中に集英社のコバルト部門でデビューした角田さんは、しかし大学を卒業する平成1年/1989年春の直前に、お払い箱になったそうです。

 と、創作を学ぶ大学に進んだところから、コバルトでデビューしたけどこれが自分の書きたいものなのかと悩み、『海燕』という純文学の雑誌の新人賞で再デビュー、芥川賞の候補になりながらもそのつど落選し、『別冊文藝春秋』に連載した『空中庭園』が転機となって、直木賞の候補にもなり……といったこのあたりの流れは、角田さんの『希望という名のアナログ日記』(令和1年/2019年11月・小学館刊)の巻頭「〈希望〉を書く」(初出『日経ウーマン』平成26年/2014年6月号~8月号)に、固有名詞を省きながらいろいろ書かれています。

 けっきょく、小説教室で学べることはごく一部のことでしかない、おおよそ大事なことは本を読み、旅をし、誰かと話し、日常生活を送るなかで自分自身で気がついて作家として成長するしかない、という当たり前すぎることがわかる一冊です。

 当たり前すぎるんですけど、ここは無理やり小説教室に結びつけないと終われませんので、角田さんの経験した「第二の小説教室」とも言うべき環境に触れておきます。

 大学卒業後、アルバイトしながら食いつなぎ、1年後に(たった1年で)受賞したのが海燕文学新人賞です。そこで出会った編集者とのやりとりは、角田さんにとっては、大学に入ったときを勝るほどの衝撃だった、と言います。

 あなた、△△は読んだことある? じゃあ、□□は? ○○は? ふうん、全然読んでないんですね、よくそれで作家になりたいと思いましたね。とか何とか言われて、文芸編集者のバックボーンにある無尽蔵な読書量にとにかく圧倒されたそうです。

 受賞第一作も、書き直し書き直しの連発を食らい、小説を書くことについて「小説教室」と呼んでもいいほど多くを学びます。角田さんの3年まえに同じ新人賞を受賞した先輩、吉本ばななさん(対談当時の表記「よしもとばなな」)との対談に、そのあたりの話題が出てきます。

角田 あと、「海燕」では原稿に指摘を受けても根気よく直し続けていくことを学んだので、「絶対に一行たりとも直さない」と話す作家の方を見ると格好いいなと思うこともあるんですが、私たちがいたのはそういうことを言えるような場所ではありませんでしたね。

よしもと たしかにそういう話を聞くと、うらやましいなあ、とは思います。でも「海燕」には作家を確実に育てるという空気がありました。

(引用者中略)

角田 私は「十年書き続けたら大丈夫」と副編集長だった根本昌夫さんに励まされ続けて、自分に「十年やればいいんだ」と言い聞かせているうちに、気がつけば二十年が経っていました(笑)。」(平成27年/2015年5月・中央公論新社刊、角田光代・著『世界は終わりそうにない』所収「対談 書く女の孤独の先へ」より ―初出『新潮』平成26年/2014年1月号)

 文芸誌・小説誌を「小説教室」と呼ぶのは拡大解釈も甚だしいので、やめておきますが、角田さんの直木賞受賞までに『海燕』編集者による教育を経験したのは間違いありません。

|

« 平成9年/1997年、重松清が早稲田大学で「エンターテインメント文芸」の授業を担当する。 | トップページ | 平成14年/2002年、文芸編集者の根本昌夫がカルチャースクールなどで小説講座を始める。 »

小説教室と直木賞」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 平成9年/1997年、重松清が早稲田大学で「エンターテインメント文芸」の授業を担当する。 | トップページ | 平成14年/2002年、文芸編集者の根本昌夫がカルチャースクールなどで小説講座を始める。 »