平成1年/1989年、新設された近畿大学文芸学部に、後藤明生が教授として就任する。

▼昭和61年/1986年、近畿大学総長の世耕政隆が、文芸学部構想を後藤明生に語る。
今週からまた、直木賞のある日常に戻りますが、決定直後のワタクシはだいたい疲労困憊しています。すべてヒトサマのことなのに何で疲れるんでしょうね。前回も、前々回も……。
ということで一年前の令和2年/2020年1月下旬、自分が何をしていたのか振り返ってみたところ、『本の雑誌』のために坪内祐三さんの年譜をつくっていました。たしかにヘトヘトだった記憶があります。
坪内さんといえば『昭和にサヨウナラ』(平成28年/2016年4月・扶桑社刊、坪内祐三・著)に入っている「関井光男さんのこと」という一文があります。初出は『en-taxi』の連載「あんなことこんなこと」で、平成26年/2014年3月に亡くなった関井さんのことを回想した文章です。
関井という人は、もともと自分が知り合ったころは山口昌男さんの腰巾着みたいにひっついて、アカデミズムの権威や先生を馬鹿にしている様子だったのに、どこでどう取り入ったのか近畿大学に職を見つけ、嬉々として「大学の先生」になり果てた……というようなハナシです。小谷野敦さんのブログにも「関井光男と白地社」というエントリーが挙がっています。
坪内さんの言うように関井さんが無節操な人だったのか、ワタクシもよく知りませんが、「日本の小説教室」の歴史を見ていると、彼の働いた近畿大学文芸学部は、どうしても目に留まります。相変らず直木賞とはあまり関係なさそうです。だけど、今週は近大のことで言ってみます。
小説の書き方を教える大学として、東にワセダあれば西にキンキあり、と注目を浴びるようになったのは、何といっても現役作家の後藤明生さんが、この大学の文芸学部教授に就任したからでしょう。後藤さん当時57歳。平成1年/1989年4月のことです。
近畿大学は創設以来、文学に関する学部がなく、それで別に支障もなかったんですが、昭和40年/1965年に父の跡を次いで二代目の総長・理事長になったのが世耕政隆さん。知る人ぞ知る、というか、ワタクシはほとんど存じ上げませんけど、この世耕さんという方がなかなかの文学亡者で、文学に対する夢と希望を培いながら成長し、そのまま大学経営者になった方なんだそうです。自分でも詩を書き、佐藤春夫さんに師事。その後、(いちおう直木賞受賞者の)檀一雄さんがやっていたカタめの雑誌『ポリタイア』の同人に加わりますが、この雑誌は世耕さんがいなかったら刊行されなかった、とも言われます。
いっぽう後藤さんは、昭和44年/1969年に初めての作品集『私的生活』(新潮社刊)、『笑い地獄』(文藝春秋刊)を時をおかずに刊行するなど、何度も芥川賞候補に挙がる大注目の新進作家として、まわりを傷つけたり傷つけられたりしながら作家生活に乗り出したころ、たまたま酒場で会った檀一雄さんと親しくなるうちに、『ポリタイア』に引っ張り込まれます。世耕さんとはそこで顔を合わせたそうですが、とくに深く付き合うことはありませんでした。
それから日が経って昭和61年/1986年、いきなり世耕さんから電話がかかってきます。近大に文芸学部をつくろうと思う。ついてはぜひあなたに来てもらいたい、と。
何でおれなんだよ、と不思議に思いながら世耕さんと会っていろいろと話すうちに、後藤さんの決意も固まり、平成1年/1989年春に同学部が新設されるのに伴って教授に就任した。……という流れです。
つまり、近大で文芸学部設置に向けて準備が始まったのが昭和61年/1986年ということになります。その当初から、いわゆる学問の世界の先生だけじゃなく、作家や評論家としてじっさいに商業出版で活躍中の人を招く構想で始まった。そこが面白いところです。
大学で「創作」まで見据えた教育を構築する、というのは1970年代以降に早稲田大学(の一部)が進めてきた方向性です。たとえば後藤さんは昭和54年/1979年から1年間、早稲田の文芸学科で非常勤講師を務めましたが、それなども同校の考える「文芸教育」のひとつの現われだったでしょう。
しかし、非常勤にしろ講師にしろ、腰かけ感は否めません。職業作家をもっと本腰で大学教育に取り込めば、新たな価値が生まれるに違いない。と、世耕さんが確信していたかどうかはわからないんですが、日本の風土のなかで創作学科が発展していく過程として、80年代なかばにそういう発想が芽生えたのは事実です。その土台に、60年代以降の社会の推移とか、出版界全体における文芸書の低迷感とか、カルチャースクールを中心とした「作家が現場で教える」文化の醸成があったことは無視できないでしょう。
いや、大学そのものが「権威」から「親しみやすさ」を求められるようになっていた、という時代の変化もあります。そこで後藤さんにやらせてみたい、と目をつけた世耕さんは、やはり慧眼の持ち主というしかありません。えっ、近大の文芸学部? 何だかキワモノ教員を集めた時代のアダ花で終わるんじゃないの。……と、しばらく冷たい世間の目を受けますが、一介の教授だった後藤さんが発奮して、文芸学部の運営にまじで本気を出すようなったからです。
○
▼平成5年/1993年、後藤明生、文芸学部長として積極的に働く。
近大で教えるようになって1年、後藤さんは住まいを大阪市に移し、平成5年/1993年春からは同学部長に就任。大学院に文芸学研究科を開設するために全力を尽くし、平成6年/1994年春にはその研究科長の肩書きも加わります。ガチガチの本腰です。
東京を中心に活動している作家や評論家に積極的に声をかけ、外から新しい風を入れようと努めたのも、後藤さんの特徴でしょう。そのあいだ自分でも小説を書き、また教壇に立ち続けて、平成11年/1999年7月2日、肺癌のせいでヨロヨロになったからだを押して「文芸学部の10年」座談会に出席。翌日に再入院すると、1か月後の8月2日に亡くなります(平成16年/2004年4月・柳原出版刊、後藤明生・著『日本近代文学との戦い――後藤明生遺稿集』所収 乾口達司作成「略年譜」)。後藤さんが人生最後に心血をそそいだのが、文芸学部での教育だったわけです。
10年のあいだには、後藤さんの考えもいろいろ変わったでしょうけど、教授となって3年少しの平成4年/1992年4月11日におこなわれた「文学教育の現場から」という座談会があります。初出は『群像』同年11月号、のちに平成29年/2017年5月・つかだま書房刊『アミダクジ式ゴトウメイセイ【対談篇】』に収録されましたが、対談相手は三浦清宏さんです。自身、アメリカの創作学科に留学経験があり、芥川賞をとってからは人に創作を教えたこともあるという、純文芸文壇きっての「小説教室」エリートです。
この対談によると、最初の4年間は文部省の監督下にあって、学部を新設するときに申請したカリキュラムどおりに運営しなければならず、じっさい後藤さんは創作を教えていたわけじゃなかったんだとか。
ただ、後藤さんには「文学は教えることができる」という信念がありました。文学の原理原則を、自分の培ってきた文学観に照らして講義やゼミを重ねます。根本にあったのが、後藤さんが「千円札文学論」と呼んでいるものです。
「僕の場合、(引用者中略)「千円札文学論」ですが、それを使って小説というものをいろんな意味で千円札にたとえているのです。
一つは、読むことと書くことは裏表だ。もう一つは、素材と方法、あるいはテーマとスタイルは裏表だ。だから、読む書くの方でいうと、読まないで小説を書くことはあり得ない。小説を読まないで小説を書いた人はいないんじゃないかということです。これを証明してみせるというか、文学史的にはっきりさせる。」(「文学教育の現場から」より)
創作を教えるといっても、何も書きかたを懇切丁寧に伝えればいいというもんじゃない。同時に、過去の小説の読みかたを教えることができなければ意味がない。……単純なことのような気もします。でもほとんどの「小説教室」の根幹は、そこにあるんでしょう。
実作家を現場に入れることで、その文学のウラオモテをしっかりと根付かせることができたのか。判断する任にないので、ここでは何とも言えませんが、この路線を続けていった末にいつか直木賞の場に登場するような人が出てくることを期待しています。
| 固定リンク
「小説教室と直木賞」カテゴリの記事
- 平成29年/2017年、川越宗一、メールでの小説添削講座を受講する。(2021.05.30)
- 平成11年/1999年、山村正夫の急逝で、森村誠一が小説講座を受け継ぐ。(2021.05.23)
- 平成27年/2015年、書店を運営する天狼院が、小説家養成ゼミを始める。(2021.05.16)
- 平成25年/2013年、石田衣良から小説指導が受けられる、ということが特典の「ノベリスタ大賞」始まる。(2021.05.09)
- 平成15年/2003年、大塚英志が『キャラクター小説の作り方』を刊行する。(2021.05.02)
コメント