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2021年1月17日 (日)

第164回直木賞に見るソーシャルディスタンス。

 半年まえの令和2年/2020年7月15日(水)も、直木賞は新型コロナウイルス感染拡大の影響を受けました。

 この日、選考会が行なわれた東京で新規に感染を確認された人が165人。会場では、委員どうしの距離をとったり、アクリル板を設置したりするなど、感染拡大防止の策が施されました。都内ホテルで開かれた受賞者の記者会見も、入場者数が制限され、参集者は会話厳禁。質問者はそのたびにひとりひとり前に出て、みんなと離れた位置で話すことが求められました。飛沫の拡散で感染者を増やさないための対策です。

 以来、半年が経ちます。同じ曜日で比較すると令和3年/2021年1月13日(水)の、東京の新規感染は1433人。収束するどころか、この半年でほぼ10倍です。緊急事態宣言も出されました。

 1月20日に行われる予定の第164回直木賞も、状況は明るくありません。明らかに高齢者たち5人以上が参加する会合です。食事はどうなるのか不明ですが、お茶ぐらいは出るんでしょう。こういう場でクラスターでも発生したら、各所から集中砲火を浴びるのは必至ですから、よりいっそうの厳戒態勢で会議や会見が開かれるものと思われます。

 科学的なエビデンスはよくわかりません。ただ、少なくとも「大勢の人間が、密閉した場所で、距離を保たず声を出しあう」という状況に、多くの日本人が神経質になっているのは間違いありません。その意識の変化が、直木賞を選考する行為に影響を及ぼすことも、容易に想像できるところです。

 ということで、ここに6つの候補作があります。登場するのは、いずれも人間です。彼らが「三つの密」をつくる場面が出てきたとき、読み手の脳内に思わず、「これはダメだ」と危険信号が流れてしまうのも、これまでと違うコロナ禍のなかでの読書体験でしょう。あるいは、みんなで自粛しよう、我慢しようと言っている状況下、そんな場面が出てくる小説が受賞したら、世間から袋叩きにされる可能性も否定できません。

 当然、最も気にかかるのは、どれだけ感染拡大対策がなされているか、ということになります。今回の直木賞は、その点がいちばんの注目ポイントです。

■芦沢央『汚れた手をそこで拭かない』

感染拡大対策:★★★★

 自宅の作業場での夫婦のやりとり。穏やかです。学校の先生がアタフタする状況でも、基本的に一人でいるか、ギャンブル狂の同僚との二人での会話で終わっています。アパートの老夫婦も、はめを外して遠くに外出するわけでもなく、ひっそりと暮らしています。素晴らしい自粛ぶりです。

 料理研究家のサイン会には、多くの人が集まったようですが、感染拡大に対してどういう対策をとったのか、くわしく書いてありません。おそらくマスクは必須だったでしょう。ファンの女性と握手しているのは気になりますが、即座に無防備だと責め立てるわけにもいきません。

 問題は、山奥で映画を撮っていた人たちの、感染に対する認識の甘さです。旅館の閉鎖された一室で、監督、俳優、そのマネージャー、映画プロデューサー4人が、けっこう激しく声を出し合っています。もし誰かひとりでも感染者だったら……。考えるだけで恐怖です。

■西條奈加『心淋し川』

感染拡大対策:★★★★

 近くにドブ川が流れ、衛生的にはかなり難のある江戸の長屋。住む人たちもみんな貧困なので、いったんウイルスに感染したら、重篤な患者が多発してもおかしくありません。

 おそらく住民にはその意識があるのでしょう、家族どうしで集まることはあっても、大勢で密集する機会はおおむね避けています。こういう真っ当な人たちの生活が保障されるような国であってほしいです。

 最後の最後で、町方役人が柳橋の料理屋で会食をもつ様子が出てきます。年長者二人に、若者六人。オジさんたちの言うことに逆らえず、イヤイヤ宴席に連れてこられた若者たちのつらさが、よくわかります。とりあえずこれは回想シーンなので、問題とするのは気にしすぎでしょうが、会食自粛のお触れが出ている現状では、忌避される場面かもしれません。

■伊与原新『八月の銀の雪』

感染拡大対策:★★★

 人としゃべるのが苦手な大学生。というこの設定が、すでに表題作の勝利でしょう。大勢で話し合う場面とは無縁です。

 対して、いきなり満員電車の車内から始まる作品には、ドキッとさせられます。自粛だ在宅だとおカミから言われても、簡単に従えない人たちがこんなにもいるのだ。ひとつの警鐘だと思いますが、途中、40~50人の聴衆を集めたトークイベントが出てくるところは、いただけません。九十九里の砂浜で発掘作業をするのは、仕事ですから仕方ないとして、屋外とはいえ見物客が集まってしまっています。やはり主催者に管理監督責任が問われるでしょう。

 その対策の甘さを挽回するかのように、公園で静かに野鳥を観察する場面、川に繰り出した二人の男女が距離をとって珪藻を採取する場面、広々とした海岸でひとりの男が凧を揚げる場面、と空気のながれのよい野外の話が印象的に描かれます。これで挽回できたと見るかどうかが、ひとつの鍵です。

           ○

■長浦京『アンダードッグス』

感染拡大対策:★★★

 ウイルスに国境はありません。何の対策もせずに国を超えて移動する人には、世論が黙っていません。激しく叩かれます。

 本書の救いは、香港に渡った日本人が、そこに滞在しているときの話に終始するところです。長距離のひんぱんな移動は控えるのがマナーだ、ということでしょう。

 おおよそ野外の壮絶なアクションがメインです。感染するとかしないとか、それどころじゃないでしょうが、コバ、ジャービス、イラリ、林のグループが今後を相談し合うときに、ステーキレストランの個室にこもったのは、批判の的になるでしょう。あろうことかビール、ワインまで飲んでいます。また、五人目の男ニッシムが顔を見せた会合も、ロック・バーの個室です。

 自分たちは大丈夫、という慢心は、とくに慎まなければなりません。

■坂上泉『インビジブル』

感染拡大対策:★★

 東京だけじゃなく大阪も深刻なコロナ禍です。医療体制の逼迫を回避するために、官民一丸となって三密の機会を減らさなければなりません。

 しかし人間どうし顔を突き合せないと進まないのが、警察の仕事です。リモートでの在宅勤務に切り替えることもできず、大阪市警視庁の東署には、自然と刑事たちが出勤しています。ひとたび殺人事件が発生すれば、大会議場に捜査本部が置かれ、刑事たちが詰めかける。まぎれもなくクラスターの温床です。

 しかも捜査のために、これだけあちこち出歩いていたら、確実に感染は拡大します。緊急事態に権力がどんな行動をとるのか、庶民はいつも見ています。気をつけましょう。

■加藤シゲアキ『オルタネート』

感染拡大対策:

 もはや人間の交流は直接の対面ではなく、アプリを介して行われる。……その設定がコロナ時代を鮮やかに切り取っていることに、並々ならぬ作者の力量を感じます。

 残念ながらその設定を貫徹できず、人間たちがじっさいに集まり、騒ぐ場面がいくつも出てきます。いくら政府が緊急事態宣言を発令しても、若者にはなかなか受け入れられない実態がよく現われています。調理部のミーティング、バスケ部の遠征など、とくに部活はクラスターを起こす確率が高いと言われています。危険です。

 ミュージシャン限定のシェアハウスでは、みんなでピザを食べながら5人の若者が唾を飛ばし合いながら飲み食い。外部からたくさんの人が訪れる文化祭も、いつもどおりに開催。バンドの演奏するステージの前には、多くの観衆が集まっていた、ということです。若者の危機意識を喚起することの難しさを、ひしひしと感じます。

           ○

 小説は、だれがいつ、どんなふうに読むのも自由です。

 直木賞の選考委員たちがどういう判断をくだすかはわかりませんが、その読み方が絶対の正解ということはありません。反面、だれかがネットで書いている読み方のほうが正解、ということもありません。すべてが自由です。

 1月20日(水)、何か重大な局面でも迎えないかぎり、東京都心にある密閉された個室で、直木賞の選考会がひらかれるはずです。受賞者次第では大変な騒ぎになるでしょうが、だれに受賞が決まろうが、ワタクシ自身は慎重に騒ごうかと思います。

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