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2021年1月31日 (日)

昭和51年/1976年、林真理子が日大芸術学部の文芸学科を卒業する。

20210131

▼昭和51年/1976年、大学1年の林真理子、大丸デパートの作文コンクールで入賞する。

 昭和が始まったばかりの1930年代、大学で小説の書き方を教えようという小さなムーブメントがありました。そのとき「三大創作科」の一角を担ったのが日本大学芸術科です。何か月かまえ、取り上げたことがあります。

 その創作科ブームから幾星霜。戦争に突入し、戦争が終わり、学校制度も変わって高等教育機関がボコボコ群立。学生たちが政治運動に明け暮れるうちに、経済の回復と進展が日本全土を覆ったことで、出版業界も多くの人材を必要とする時代がやってきます。

 この間、日大芸術科は芸術学部と改組しながらしぶとく生きつづけ、演劇学科、映画学科、美術学科、音楽学科などからは、専門の業界に進んで活躍する人材がぞくぞくと現われました。そのなかで、いまいちパッとしないと言われていたのが、文芸学科です。

 すみません。「パッとしないと言われていた」というのは、こちらの想像です。無視してください。

 最近たまたま読んだ『小沢信男さん、あなたはどうやって食ってきましたか』(平成23年/2011年4月・編集グループSURE刊、小沢信男・津野海太郎・黒川創・著)という本に、昭和20年代後半の文芸学科の様子が出てきます。小沢さんは昭和26年/1951年春に、いったん文化学院に入ったもののすぐに退学し、その年の秋に日大芸術学部に入り直した「創作科の生き字引」みたいな方です。

 当時、文芸学科は定年が50人。しかし半年たつころには30人ぐらいに減ってしまうような学科だったそうです。授業料には『江古田文学』をつくるためのお金が「実習費」のかたちで含まれていて、学生は全員、寄稿する機会を与えられていました。事実、小沢さんが物書きとして注目されたのもここに作品を発表したからです。主任教授は神保光太郎で、小沢さんに言わせると、文芸学科の授業はどれに出ても大して面白くなかったようですが、そのなかで最も楽しかったのが瀬沼茂樹さんの授業。熱心に受講するうちに可愛がられ、一時は瀬沼さんの代筆のようなことも任された、ということです。

 と、こうして在学中から勉強の一環として文章を書き、小説の読み方を学ぶうちに働き先が広がっていった幸運な学生もいたことでしょう。しかし大半は、小説家にもならず、出版ジャーナリズムの道にも進まず、一般企業に入ったり家業を継いだり、とくに他の大学の学生と変わらない青春を送ったものと思われます。

 けっきょくのところ日大の文芸学科も、他の一般的な私大に埋没していくことになるんですが、長年続けていると学んだ人の累計も増えていきます。1980年代、ここから思わぬスターが誕生してしまったのは、偶然というか必然というか、文芸学科も長く続けた甲斐があったということでしょう。

 直木賞も無縁ではありません。林真理子さんです。

 林さんの4年先輩にあたる清水正さんは、日大芸術学部の教授になった方ですが、林さんが直木賞を受賞した昭和61年/1986年当時、すでに同校の先生をやっていて、「文芸学科受験生の大半が面接で「林真理子のような小説家になりたい」と受験志望動機を語っていた。」(平成27年/2015年9月・鼎書房刊『現代女性作家読本20 林真理子』所収「「最終便に間に合えば」を読む」)と回想しています。ちなみに清水さんによると、文芸学科出身の三大女流作家は、林真理子、群ようこ、吉本ばなななのだそうです。

 林さんが小説家として注目を浴びるようになった経緯とか、その周辺で巻き起こった暴力的ジャーナリズムの雑然たる嵐について、いまさら振り返るのはやめておきます。ただ、特徴的だったのは、そこに「日大芸術学部の出身」であることが何ひとつ利いていなかった、とは言えるでしょう。

 東京から近いようで遠かった山梨の片隅から、わたしも東京に行きさえすれば、バラ色の大学生活が待っているんだ、と目を輝かせて上京したのはいいものの、とくに素晴らしいキャンパスライフに恵まれたわけではなく、うつ然と4年間の学生生活を終え、そのまま東京で就職先を探したけれど、筆記試験は通るのに面接に行くと不採用につぐ不採用。要はわたしがブスだからなんだ、とシビアな現実に直面し、冴えないバイト生活を送るなか、たまたま知ったコピーライターという仕事に興味を持って、その世界に入っていく……。という林真理子サクセスストーリー序章の流れを見ても、芸術学部や文芸学科に通っていたことは、あまり重要ではありません。

 林さん自身も言っています。とにかく東京の大学に進むのが目的だった。目指すはキラキラ輝く夢の大学生活。ということで、青山学院、成蹊、日大を受け、たまたま一つだけ受かった日大に進んだだけのこと。池袋に下宿し、江古田のキャンパスに通って、芸術学部ということでイメージされるような奇人やら変人やら、あるいは作家になりたくて文芸学科に入ってきた同級生やら、そういう人たちに囲まれて、多少は「のちに小説家になる人」の思い出の片鱗でもあればいいんですけど、林さんにはあまりエピソードが見当たりません。

 唯一、取り上げてもよさそうなのが、大学1年のときに作文コンクールで入賞したことです。大丸デパートがパリに支店を開くことを記念して、若者たちから作文を募集、入賞10人にフランス旅行をプレゼントするという企画があり、林さんも見事入賞しています。しかし、このハナシに付随する林さんの思い出は、ソルボンヌの語学学校に入りたくなってフランス語を勉強したとか、当時海外に行ける若者は稀で、みんなから大層珍しがられたとか、そういうことに終始しています。文才が小説方面に向いた、というハナシではありません。

          ○

▼昭和61年/1986年、林真理子の直木賞受賞で、担当教授のもとに電話がたくさんかかってくる。

 子供の頃から作文が得意で、何度か賞をもらったこともあり、読書が大好きで自分も作家になれたらいいなあと思いながら成長。しかも入った先が日大芸術学部の文芸学科ですから、小説を書いて発表するにはこのうえない環境です。しかし、林さんはそこで作家になろうとは考えませんでした。

 もともと「作家」は憧れではあったけど、あまりに遠い存在で、自分がなれるなんて発想は抱けなかった。出版状況が変化して、だれでもかれでも作家を目指す風潮は、私が学生の頃にはなかった……ということのようです。林さんが学生だった1970年代、ほんとうにそんな風潮が日本になかったかどうかは別として、少なくとも林さんの眼中に入っていなかったのはたしかなんでしょう。

 林さんのまわりに、作家になりたいと一生懸命勉強していた同級生も何人かと思います。もしひとりもいなかったら、それこそ日大文芸学科の存在価値が大きく揺らぎますので、多少は作家を目指した学生がいたはずです。しかしそんななかで職業作家になり得たのは、けっきょく大学時代に創作を手を出さなかった林さんだけです。

 えーっ。なんであんな人が作家になれて、あまつさえ直木賞までとれちゃうのか。世のなか狂っている。……と泣き叫んだ人もいたそうです。

「なんでも三年前に、私が直木賞を受賞した際、担当教授のところに電話がいっぱいきたそうだ。

「私は学生時代、ずっと林さんより勉強もできたし文才もあった。それなのに、どうして、どうして」

といった内容だったという。

そりゃ、そうだろうなぁ。同人誌をつくっているような連中には近寄ったこともないし、在学中ものを書いたこともない。」(平成2年/1990年6月・文藝春秋刊、林真理子・著『ウフフのお話』「春来たりなば」より ―引用原文は平成5年/1993年4月・文藝春秋/文春文庫を使用)

 昔の同級生がマスコミの人気者になって、きらびやな舞台に立った姿が悔しくなり、わざわざかつての学校の先生に泣き言めいた電話をかけるほうが狂っている、と思いますが、ともかく林さんは「同人誌をつくっているような連中には近寄ったこともない」と書いています。

 創作教育が実益に結びつくことの難しさが、よくわかりますが、大学を卒業して社会に揉まれること数年。壁にぶち当たり、泣きながら自力で稼げる能力を切り開くうちに、エッセイ、小説と幅をひろげて直木賞をとりました。大学で小説の書き方を学んだことが礎になった、とは口が裂けても言えませんけど、その大学生活による影響がゼロだった、と言い切れないのもまた人生です。ほとんど効果がないように見える薄いつながり……それこそ小説教室と直木賞の関係性なのかもしれません。

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