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2021年1月の6件の記事

2021年1月31日 (日)

昭和51年/1976年、林真理子が日大芸術学部の文芸学科を卒業する。

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▼昭和51年/1976年、大学1年の林真理子、大丸デパートの作文コンクールで入賞する。

 昭和が始まったばかりの1930年代、大学で小説の書き方を教えようという小さなムーブメントがありました。そのとき「三大創作科」の一角を担ったのが日本大学芸術科です。何か月かまえ、取り上げたことがあります。

 その創作科ブームから幾星霜。戦争に突入し、戦争が終わり、学校制度も変わって高等教育機関がボコボコ群立。学生たちが政治運動に明け暮れるうちに、経済の回復と進展が日本全土を覆ったことで、出版業界も多くの人材を必要とする時代がやってきます。

 この間、日大芸術科は芸術学部と改組しながらしぶとく生きつづけ、演劇学科、映画学科、美術学科、音楽学科などからは、専門の業界に進んで活躍する人材がぞくぞくと現われました。そのなかで、いまいちパッとしないと言われていたのが、文芸学科です。

 すみません。「パッとしないと言われていた」というのは、こちらの想像です。無視してください。

 最近たまたま読んだ『小沢信男さん、あなたはどうやって食ってきましたか』(平成23年/2011年4月・編集グループSURE刊、小沢信男・津野海太郎・黒川創・著)という本に、昭和20年代後半の文芸学科の様子が出てきます。小沢さんは昭和26年/1951年春に、いったん文化学院に入ったもののすぐに退学し、その年の秋に日大芸術学部に入り直した「創作科の生き字引」みたいな方です。

 当時、文芸学科は定年が50人。しかし半年たつころには30人ぐらいに減ってしまうような学科だったそうです。授業料には『江古田文学』をつくるためのお金が「実習費」のかたちで含まれていて、学生は全員、寄稿する機会を与えられていました。事実、小沢さんが物書きとして注目されたのもここに作品を発表したからです。主任教授は神保光太郎で、小沢さんに言わせると、文芸学科の授業はどれに出ても大して面白くなかったようですが、そのなかで最も楽しかったのが瀬沼茂樹さんの授業。熱心に受講するうちに可愛がられ、一時は瀬沼さんの代筆のようなことも任された、ということです。

 と、こうして在学中から勉強の一環として文章を書き、小説の読み方を学ぶうちに働き先が広がっていった幸運な学生もいたことでしょう。しかし大半は、小説家にもならず、出版ジャーナリズムの道にも進まず、一般企業に入ったり家業を継いだり、とくに他の大学の学生と変わらない青春を送ったものと思われます。

 けっきょくのところ日大の文芸学科も、他の一般的な私大に埋没していくことになるんですが、長年続けていると学んだ人の累計も増えていきます。1980年代、ここから思わぬスターが誕生してしまったのは、偶然というか必然というか、文芸学科も長く続けた甲斐があったということでしょう。

 直木賞も無縁ではありません。林真理子さんです。

 林さんの4年先輩にあたる清水正さんは、日大芸術学部の教授になった方ですが、林さんが直木賞を受賞した昭和61年/1986年当時、すでに同校の先生をやっていて、「文芸学科受験生の大半が面接で「林真理子のような小説家になりたい」と受験志望動機を語っていた。」(平成27年/2015年9月・鼎書房刊『現代女性作家読本20 林真理子』所収「「最終便に間に合えば」を読む」)と回想しています。ちなみに清水さんによると、文芸学科出身の三大女流作家は、林真理子、群ようこ、吉本ばなななのだそうです。

 林さんが小説家として注目を浴びるようになった経緯とか、その周辺で巻き起こった暴力的ジャーナリズムの雑然たる嵐について、いまさら振り返るのはやめておきます。ただ、特徴的だったのは、そこに「日大芸術学部の出身」であることが何ひとつ利いていなかった、とは言えるでしょう。

 東京から近いようで遠かった山梨の片隅から、わたしも東京に行きさえすれば、バラ色の大学生活が待っているんだ、と目を輝かせて上京したのはいいものの、とくに素晴らしいキャンパスライフに恵まれたわけではなく、うつ然と4年間の学生生活を終え、そのまま東京で就職先を探したけれど、筆記試験は通るのに面接に行くと不採用につぐ不採用。要はわたしがブスだからなんだ、とシビアな現実に直面し、冴えないバイト生活を送るなか、たまたま知ったコピーライターという仕事に興味を持って、その世界に入っていく……。という林真理子サクセスストーリー序章の流れを見ても、芸術学部や文芸学科に通っていたことは、あまり重要ではありません。

 林さん自身も言っています。とにかく東京の大学に進むのが目的だった。目指すはキラキラ輝く夢の大学生活。ということで、青山学院、成蹊、日大を受け、たまたま一つだけ受かった日大に進んだだけのこと。池袋に下宿し、江古田のキャンパスに通って、芸術学部ということでイメージされるような奇人やら変人やら、あるいは作家になりたくて文芸学科に入ってきた同級生やら、そういう人たちに囲まれて、多少は「のちに小説家になる人」の思い出の片鱗でもあればいいんですけど、林さんにはあまりエピソードが見当たりません。

 唯一、取り上げてもよさそうなのが、大学1年のときに作文コンクールで入賞したことです。大丸デパートがパリに支店を開くことを記念して、若者たちから作文を募集、入賞10人にフランス旅行をプレゼントするという企画があり、林さんも見事入賞しています。しかし、このハナシに付随する林さんの思い出は、ソルボンヌの語学学校に入りたくなってフランス語を勉強したとか、当時海外に行ける若者は稀で、みんなから大層珍しがられたとか、そういうことに終始しています。文才が小説方面に向いた、というハナシではありません。

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2021年1月24日 (日)

平成1年/1989年、新設された近畿大学文芸学部に、後藤明生が教授として就任する。

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▼昭和61年/1986年、近畿大学総長の世耕政隆が、文芸学部構想を後藤明生に語る。

 今週からまた、直木賞のある日常に戻りますが、決定直後のワタクシはだいたい疲労困憊しています。すべてヒトサマのことなのに何で疲れるんでしょうね。前回も、前々回も……。

 ということで一年前の令和2年/2020年1月下旬、自分が何をしていたのか振り返ってみたところ、『本の雑誌』のために坪内祐三さんの年譜をつくっていました。たしかにヘトヘトだった記憶があります。

 坪内さんといえば『昭和にサヨウナラ』(平成28年/2016年4月・扶桑社刊、坪内祐三・著)に入っている「関井光男さんのこと」という一文があります。初出は『en-taxi』の連載「あんなことこんなこと」で、平成26年/2014年3月に亡くなった関井さんのことを回想した文章です。

 関井という人は、もともと自分が知り合ったころは山口昌男さんの腰巾着みたいにひっついて、アカデミズムの権威や先生を馬鹿にしている様子だったのに、どこでどう取り入ったのか近畿大学に職を見つけ、嬉々として「大学の先生」になり果てた……というようなハナシです。小谷野敦さんのブログにも「関井光男と白地社」というエントリーが挙がっています。

 坪内さんの言うように関井さんが無節操な人だったのか、ワタクシもよく知りませんが、「日本の小説教室」の歴史を見ていると、彼の働いた近畿大学文芸学部は、どうしても目に留まります。相変らず直木賞とはあまり関係なさそうです。だけど、今週は近大のことで言ってみます。

 小説の書き方を教える大学として、東にワセダあれば西にキンキあり、と注目を浴びるようになったのは、何といっても現役作家の後藤明生さんが、この大学の文芸学部教授に就任したからでしょう。後藤さん当時57歳。平成1年/1989年4月のことです。

 近畿大学は創設以来、文学に関する学部がなく、それで別に支障もなかったんですが、昭和40年/1965年に父の跡を次いで二代目の総長・理事長になったのが世耕政隆さん。知る人ぞ知る、というか、ワタクシはほとんど存じ上げませんけど、この世耕さんという方がなかなかの文学亡者で、文学に対する夢と希望を培いながら成長し、そのまま大学経営者になった方なんだそうです。自分でも詩を書き、佐藤春夫さんに師事。その後、(いちおう直木賞受賞者の)檀一雄さんがやっていたカタめの雑誌『ポリタイア』の同人に加わりますが、この雑誌は世耕さんがいなかったら刊行されなかった、とも言われます。

 いっぽう後藤さんは、昭和44年/1969年に初めての作品集『私的生活』(新潮社刊)、『笑い地獄』(文藝春秋刊)を時をおかずに刊行するなど、何度も芥川賞候補に挙がる大注目の新進作家として、まわりを傷つけたり傷つけられたりしながら作家生活に乗り出したころ、たまたま酒場で会った檀一雄さんと親しくなるうちに、『ポリタイア』に引っ張り込まれます。世耕さんとはそこで顔を合わせたそうですが、とくに深く付き合うことはありませんでした。

 それから日が経って昭和61年/1986年、いきなり世耕さんから電話がかかってきます。近大に文芸学部をつくろうと思う。ついてはぜひあなたに来てもらいたい、と。

 何でおれなんだよ、と不思議に思いながら世耕さんと会っていろいろと話すうちに、後藤さんの決意も固まり、平成1年/1989年春に同学部が新設されるのに伴って教授に就任した。……という流れです。

 つまり、近大で文芸学部設置に向けて準備が始まったのが昭和61年/1986年ということになります。その当初から、いわゆる学問の世界の先生だけじゃなく、作家や評論家としてじっさいに商業出版で活躍中の人を招く構想で始まった。そこが面白いところです。

 大学で「創作」まで見据えた教育を構築する、というのは1970年代以降に早稲田大学(の一部)が進めてきた方向性です。たとえば後藤さんは昭和54年/1979年から1年間、早稲田の文芸学科で非常勤講師を務めましたが、それなども同校の考える「文芸教育」のひとつの現われだったでしょう。

 しかし、非常勤にしろ講師にしろ、腰かけ感は否めません。職業作家をもっと本腰で大学教育に取り込めば、新たな価値が生まれるに違いない。と、世耕さんが確信していたかどうかはわからないんですが、日本の風土のなかで創作学科が発展していく過程として、80年代なかばにそういう発想が芽生えたのは事実です。その土台に、60年代以降の社会の推移とか、出版界全体における文芸書の低迷感とか、カルチャースクールを中心とした「作家が現場で教える」文化の醸成があったことは無視できないでしょう。

 いや、大学そのものが「権威」から「親しみやすさ」を求められるようになっていた、という時代の変化もあります。そこで後藤さんにやらせてみたい、と目をつけた世耕さんは、やはり慧眼の持ち主というしかありません。えっ、近大の文芸学部? 何だかキワモノ教員を集めた時代のアダ花で終わるんじゃないの。……と、しばらく冷たい世間の目を受けますが、一介の教授だった後藤さんが発奮して、文芸学部の運営にまじで本気を出すようなったからです。

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2021年1月20日 (水)

第164回直木賞(令和2年/2020年下半期)決定の夜に

 個人的なことから始めます。直木賞が決まるたび、その夜に思ったことをつらつら連ねるこのエントリーを、はじめて書いたのは第137回(平成19年/2007年上半期)が決まった平成19年/2007年7月17日の夜。今回でまるまる14年、28回目となります。まあ直木賞の長い歴史を考えたら、まだまだ鼻クソです。

 この14年間、一度も「受賞なし」になったことがなく、毎回毎回、受賞者が出つづけてきました。直木賞は出版関係に力のある賞ですから、ほんのいっときだけ受賞作が世に拡散します。その影響度を考えると、ある程度のレベルを超えた作品だけに授賞するべきだ、ときどきは「受賞なし」の選択もすべきだ、という意見もあるでしょう。おそらく直木賞に過大な期待を向けている人はそう感じるのかもしれません。正直ワタクシはどちらでもいいです。

 さて、いうまでもなく直木賞の歴史は長いです。28回連続なんてまるで序の口、第1回から今回まで164回連続の記録を達成してしまったことがあります。受賞しない落選作が出た、ということです。

 このエントリーを書くたびに思いますが、直木賞は受賞の歴史より、落選の歴史の厚みに支えられています。当落はいつも紙一重、なのに受賞が決定してしまうと、おおむね受賞作にしか注目が集まらなくなるのが文学賞というものです。なかなか他の作品を語る機会もなくなります。なぜだ。なぜなんだ。社会の不条理を突きつけられて、思わず胸が痛いです。

 だけど、胸を痛めている場合じゃありません。しがないとはいえ、せっかくブログをやっているのです。今回も、直木賞の候補作を読むのって面白いなあ、と有頂天にさせてくれた6つの作品と6人の方々に、万感の感謝を捧げます。

 まず第164回の直木賞は、何といってもこの人でしょう。加藤シゲアキさんです。加藤さんの小説はこれまでワタクシも馴染み深く読んできましたが、書き続けていく作者の信念と熱量が詰まった作品ばかり。今回の『オルタネート』も、輪をかけて加藤作品に特有な情熱が充満していて圧倒されました。またいつか、直木賞の候補になることもあるでしょう。ジャニーズファンだけじゃなく、直木賞ファンだって、加藤さんの候補入り、いつでもお待ちしています。

 歴史的に直木賞は「候補がバラエティに富んでいること」がウリですが、長浦京さんのおかげで、今回もそのウリが伊達じゃないことが証明されました。『アンダードッグス』。圧倒的なドライブ感。というと、使い古されたコピーすぎますね。でも、休む間もなく繰り出される怒濤の展開と、20年後パートとのからみ合いには、心が躍りました。直木賞って、こういう派手な風合いには厳しいガンコ者なんですよねー。ガンコ者の頬をバチバチ叩くような小説、また期待しています。

 芦沢央さんの作品をどう読むかは人それぞれです。ワタクシが好きなのは、ミステリータッチのなかに、ほんのちょっぴりユーモアを感じられるところ。『汚れた手をそこで拭かない』に収録された作品も、とても笑える話じゃないけど、角度をずらして見れば喜劇にもなる、という芦沢カラーが美しく映えたものばかりで堪能しました。この路線が直木賞に合っているのかどうかは、よくわかりません。わかりませんけど、芦沢さんにはこれからも直木賞と仲良く付き合っていただけるとうれしいです。

 坂上泉さんの『インビジブル』を読んで、現代にもマッチしながら古風な風格を備えていたのには驚きました。おおげさに言うと「驚愕」です。作中の隅々にまで、社会に対する問題意識が痛いほどに飛び交っている。これはもうほとんど直木賞受賞作でしょう。なので、「もうほとんど直木賞受賞者」の称号を背負って、今後もさまざまなジャンルで重い球を投げつづけてください。直木賞はキャッチャーとして未熟かもしれませんが、そのうち坂上さんの球を受け取れる機会がくるはずです。

 『八月の銀の雪』、これは個人的に深く刺さりました。パッと見ての外観ではわからないところに、重要な価値がひそんでいる。うん、うん、そうだよなあ、と納得と共感が止まりませんでした。伊与原新さんに対しては、感謝のことばしかありません。……と、それで終わるのも寂しいので、あと一言だけ。直木賞とってほしかったなあ。だけどここはぐっとこらえて、未来に訪れるはずの二度目のときに期待を持ち越します。

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2021年1月17日 (日)

第164回直木賞に見るソーシャルディスタンス。

 半年まえの令和2年/2020年7月15日(水)も、直木賞は新型コロナウイルス感染拡大の影響を受けました。

 この日、選考会が行なわれた東京で新規に感染を確認された人が165人。会場では、委員どうしの距離をとったり、アクリル板を設置したりするなど、感染拡大防止の策が施されました。都内ホテルで開かれた受賞者の記者会見も、入場者数が制限され、参集者は会話厳禁。質問者はそのたびにひとりひとり前に出て、みんなと離れた位置で話すことが求められました。飛沫の拡散で感染者を増やさないための対策です。

 以来、半年が経ちます。同じ曜日で比較すると令和3年/2021年1月13日(水)の、東京の新規感染は1433人。収束するどころか、この半年でほぼ10倍です。緊急事態宣言も出されました。

 1月20日に行われる予定の第164回直木賞も、状況は明るくありません。明らかに高齢者たち5人以上が参加する会合です。食事はどうなるのか不明ですが、お茶ぐらいは出るんでしょう。こういう場でクラスターでも発生したら、各所から集中砲火を浴びるのは必至ですから、よりいっそうの厳戒態勢で会議や会見が開かれるものと思われます。

 科学的なエビデンスはよくわかりません。ただ、少なくとも「大勢の人間が、密閉した場所で、距離を保たず声を出しあう」という状況に、多くの日本人が神経質になっているのは間違いありません。その意識の変化が、直木賞を選考する行為に影響を及ぼすことも、容易に想像できるところです。

 ということで、ここに6つの候補作があります。登場するのは、いずれも人間です。彼らが「三つの密」をつくる場面が出てきたとき、読み手の脳内に思わず、「これはダメだ」と危険信号が流れてしまうのも、これまでと違うコロナ禍のなかでの読書体験でしょう。あるいは、みんなで自粛しよう、我慢しようと言っている状況下、そんな場面が出てくる小説が受賞したら、世間から袋叩きにされる可能性も否定できません。

 当然、最も気にかかるのは、どれだけ感染拡大対策がなされているか、ということになります。今回の直木賞は、その点がいちばんの注目ポイントです。

■芦沢央『汚れた手をそこで拭かない』

感染拡大対策:★★★★

 自宅の作業場での夫婦のやりとり。穏やかです。学校の先生がアタフタする状況でも、基本的に一人でいるか、ギャンブル狂の同僚との二人での会話で終わっています。アパートの老夫婦も、はめを外して遠くに外出するわけでもなく、ひっそりと暮らしています。素晴らしい自粛ぶりです。

 料理研究家のサイン会には、多くの人が集まったようですが、感染拡大に対してどういう対策をとったのか、くわしく書いてありません。おそらくマスクは必須だったでしょう。ファンの女性と握手しているのは気になりますが、即座に無防備だと責め立てるわけにもいきません。

 問題は、山奥で映画を撮っていた人たちの、感染に対する認識の甘さです。旅館の閉鎖された一室で、監督、俳優、そのマネージャー、映画プロデューサー4人が、けっこう激しく声を出し合っています。もし誰かひとりでも感染者だったら……。考えるだけで恐怖です。

■西條奈加『心淋し川』

感染拡大対策:★★★★

 近くにドブ川が流れ、衛生的にはかなり難のある江戸の長屋。住む人たちもみんな貧困なので、いったんウイルスに感染したら、重篤な患者が多発してもおかしくありません。

 おそらく住民にはその意識があるのでしょう、家族どうしで集まることはあっても、大勢で密集する機会はおおむね避けています。こういう真っ当な人たちの生活が保障されるような国であってほしいです。

 最後の最後で、町方役人が柳橋の料理屋で会食をもつ様子が出てきます。年長者二人に、若者六人。オジさんたちの言うことに逆らえず、イヤイヤ宴席に連れてこられた若者たちのつらさが、よくわかります。とりあえずこれは回想シーンなので、問題とするのは気にしすぎでしょうが、会食自粛のお触れが出ている現状では、忌避される場面かもしれません。

■伊与原新『八月の銀の雪』

感染拡大対策:★★★

 人としゃべるのが苦手な大学生。というこの設定が、すでに表題作の勝利でしょう。大勢で話し合う場面とは無縁です。

 対して、いきなり満員電車の車内から始まる作品には、ドキッとさせられます。自粛だ在宅だとおカミから言われても、簡単に従えない人たちがこんなにもいるのだ。ひとつの警鐘だと思いますが、途中、40~50人の聴衆を集めたトークイベントが出てくるところは、いただけません。九十九里の砂浜で発掘作業をするのは、仕事ですから仕方ないとして、屋外とはいえ見物客が集まってしまっています。やはり主催者に管理監督責任が問われるでしょう。

 その対策の甘さを挽回するかのように、公園で静かに野鳥を観察する場面、川に繰り出した二人の男女が距離をとって珪藻を採取する場面、広々とした海岸でひとりの男が凧を揚げる場面、と空気のながれのよい野外の話が印象的に描かれます。これで挽回できたと見るかどうかが、ひとつの鍵です。

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2021年1月10日 (日)

平成14年/2002年、文芸編集者の根本昌夫がカルチャースクールなどで小説講座を始める。

20210110

▼平成2年/1990年、福武書店『海燕』の編集長に根本昌夫が就任、誌面をリニューアルする。

 前回の終わりに、角田光代さんの発言を引用しました。そこに出てきた根本昌夫さん。『海燕』編集部にいた人です。もちろん根本さんひとりが角田さんを育てたわけじゃないですけど、根本さんの輝かしい編集者遍歴のなかに角田さんのデビューがあったのは間違いありません。

 それで、うちのブログのテーマが芥川賞だったら、ストレートに根本さんを取り上げるところです。しかし残念ながらこちらの関心は直木賞一択なので、まあ触れないでもいいか、と思っていたところ、半年まえの7月に高山羽根子さんが第163回(令和2年/2020年上半期)芥川賞を受賞。高山さんも根本教室の受講経験者だったので、よりいっそう根本さんの株が上がりました。

 日本の小説教室史を考えたとき、たしかに根本さんを無視するわけにはいかないだろうなあ。と思い直した末、今週は根本さんにご登場願います。

 根本昌夫、昭和28年/1953年福島県生まれ。県内の名門、安積高校を経て早稲田大学に入ると、在学中は『早稲田文学』編集室スタッフとして青春の炎を燃やした、ということです。ちょうど同誌が、新庄嘉章さんを発行名義人とした第7次(昭和44年/1969年2月~昭和50年/1975年1月)、それを平岡篤頼さんたちが受け継いだ第8次(昭和51年/1976年6月~平成9年/1997年4月)を刊行していた時期にあたり、早稲田に文芸科(文芸専修)ができたころでもあります。おそらく根本さんも、創作を教える人・それを学ぶ人の発する熱を感じながら、大学生活を送ったことでしょう。

 卒業後、根本さんが選んだのは文芸編集の世界です。作品社の文芸雑誌『作品』の編集部で働きます。ほんの7か月、計7号を出したところでつぶれてしまいますが、東京新聞の文化部にいた渡辺哲彦さんが、親しかった文芸編集者の寺田博さんといっしょに創刊した雑誌で、創刊の昭和55年/1980年11月段階で根本さんは27歳。まだまだ若造の部類です。

 『作品』って硬派なのに冒険心もあり、面白いことしそうな雑誌だったのになあ、終わってしまって惜しい。という声に包まれるなか、他にお金を出してくれそうな会社を当たるうち、手を挙げてくれたのが福武書店。『作品』という誌名のまま復刊しようとしましたが、譲渡金として法外な金額をふっかけられて泣く泣く断念し、埴谷雄高さんが命名した『海燕』という題名で新たな出発を切ったのが、『作品』休刊から約半年後、昭和57年/1982年1月号からです。発行人として渡辺さん、編集長として寺田さんが残留し、部下だった根本さんも『海燕』に移ります。

 創刊6号目にあたる昭和57年/1982年6月号に載った平岡篤頼さんの「消えた煙突」をはじめとして、掲載作がぞくぞくと芥川賞の候補に残るようになり、いっときは『すばる』よりも『文藝』よりも『群像』よりも数多く同賞の候補に挙げられるなど、またたく間に有力純文芸誌にのし上がります。ただし、のし上がったところでお金が儲かるわけではありません。赤字がかさむなか、創業社長だった福武哲彦さんが亡くなり、社名も「ベネッセコーポレーション」と変更、同社が出版部門から撤退するのに合わせて、平成8年/1996年11月でその誌命を閉じることになります。

 編集長は寺田さんから田村幸久さんへ、そして平成2年/1990年に根本さんへと変わります。大幅に誌面をリニューアルし、コミックやミステリーを採り入れた純文芸誌として、どうにか時代の推移を見極めようともがきましたが、もがきっぷりが露骨すぎて評判はよくなく、刻まれたのは悲しい末路です。

 『海燕』の廃刊を見届けるまえに、福武書店を飛び出した根本さんが、次に編集長になったのが角川書店の『野性時代』でした。いま刊行されている『小説野性時代』とは違って、当時の『野性時代』はチャレンジングというかムチャクチャというか、純文芸誌でもなければ中間小説誌でもない中途半端な位置取りから、ミステリー、ファンタジーと「売れ線」を求めて右往左往。『早稲田文学』平成14年/2002年11月号増刊に載った根本さんの「インタヴュー 終わりと始まり」によると、売れない売れないと言われた福武の『海燕』でも月5000部売れていたのに、『野性時代』は実売2000部。それで赤字が毎月2000万円ぐらい出ていた、というのですから、放漫もいいところです。

 3年はやらせてくれる、という約束だったそうですが、根本さんが手がけてから1年ほどで、もうこんな借金だらけの雑誌やめるよ、と上層部からお達しが降ってきて、平成8年/1996年4月号で休刊。終わらせるために就任したようで、根本さんが貧乏くじを引かされた恰好です。しかし不運といえば不運だけど、1年ももたなかった『作品』、落ち目の『海燕』、死に体の『野性時代』、けっきょく根本昌夫って大した編集者じゃないんじゃないの? と陰口を叩かれたとか何だとか。誰ですか、そんなこと言うのは。弱り目に祟り目、かわいそうな根本さん。

 金を稼いだかどうかで編集者の力量が決まるなら、たしかに根本さんの実績は高くないかもしれません。しかしここで人生一発逆転。雑誌の編集を離れたところで根本さんの力量が一般に注目されることになるのです。この世に「小説教室」というものがあったおかげです。

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2021年1月 3日 (日)

昭和63年/1988年、早稲田大学文芸専修に在学中の角田光代がコバルト・ノベル大賞を受賞。

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▼昭和62年/1987年、早稲田文芸専修の学生が、すばる文学賞の最終選考に残る。

 重松清さんが直木賞を受賞したのは第124回(平成12年/2000年・下半期)、37歳のときです。それからぴったり4年後、第132回(平成16年/2004年・下半期)の直木賞を、同じく37歳で受賞した早稲田の後輩がいます。角田光代さんです。何だか最近のような気もしますが、16年もまえのハナシです。……まあ、最近といえば最近かもしれません。

 80年代後期から90年代、「創作教室」ブームが咲き誇りました。その受講生のなかから、一部の人が作家デビューを果たし、こつこつと商業小説を書きつづけるうちに、これまた一部の人が直木賞の候補に挙がりはじめます。ということで、90年代以降の直木賞に創作教室ががっちり絡み合ってくるのは、自然な流れです。

 たとえば、朝日カルチャーセンターで小説の執筆を始めた篠田節子さんの直木賞受賞が、第117回(平成9年/1997年・上半期)。講談社フェイマススクール出身、宮部みゆきさんは、第105回(平成3年/1991年・上半期)の初候補からえんえん7年かかって第120回(平成10年/1998年・下半期)で受賞しました。

 そのほか、小説教室に関わる候補者のことは、また取り上げる機会もあるでしょう。今週の主役は角田さんです。

 女子高を出た角田さんが選んだ進学先が、文芸専修のある早稲田大学第一文学部です。何となく選んだとか、だれかに誘われて入った、ということではありません。私は小説家になりたいんだ、絶対になるんだ、と作家になる目標をド直球に追いかけ、「小説の書き方を教えてくれる大学」に入るために必死に受験勉強に取り組んで、自覚的に小説教室に飛び込みます。

 角田さんが早稲田に入った頃は、ちょうど先週取り上げた重松さんが卒業した時期にあたる1980年代半ばです。堅くて真面目くさったのばかりが文学じゃないぜ、と言わんばかりに多様な小説や読み物が商業出版ルートに乗って、わさわさあふれ返っている時代です。

 刊行点数はまだまだ右肩上がりで増えつづけ、小説を書きたいと思う人も減少の気配はありません。本はたくさん出るけど、書店には並べておくスペースもなく、けっきょくほとんどの作家は売れずに消えていく。などとも言われましたが、ちなみにその頃、小説を出すとどの程度の部数が刷られていたか。貴重な参考資料『公募ガイド』に紹介されていたので触れておきます。

「新人の場合、イニシャル(初版の発行部数)は1万部から1万5千部、多くて3万部といったところ。純文学のなかには5千、8千部からスタートという例も多い。」(『公募ガイド』平成2年/1990年9月号「特集2 “書き屋”の世界 それぞれの現状、原稿料、プロへの道を探る」より)

 いま現在、新人の小説が1万部刷られるのは稀だと聞きます。日本全体のバブル景気に煽られて商業出版も浮かれ立ち、やはり異常な賑わいを見せていた、と見ていいでしょう。

 ハナシを角田さんに戻します。世間が浮かれ立とうが立つまいが、自分は小説家になりたいのだ、という一心で念願の早稲田に入学。しかし入ってみると、まわりの同級生も先輩も、あまりにたくさんの本を読んでいたので愕然とします。自分は本が好きで、これまで多くの本を読んできたと思っていたのに、何なんだこれは。自分が何も知らない田舎の小娘だった事実を突きつけられてショックを受けた、ということです。

 それでも、小説家になるという思いはくじけません。二年生に上がるときに選んだ専攻は、予定どおり「文芸専修」。小説が書きたくてうずうずしていた角田さんは、先輩の提出した小説を読み、なるほど、作文と小説はこういうふうに違うものなのか、と試行錯誤しながら課題の創作に励みます。課題がなくても書いて書いて、積極的に先生に読んでもらったそうです。

 さあ恐ろしいのは、そこで先生にも褒められて、じゃあどこかの新人賞に挑戦してみるかと、第11回すばる文学賞に応募したところ、あれよあれよと予選を通過し、最終選考まで残ってしまったことです。昭和62年/1987年秋。受賞には至りませんでしたが、集英社の編集者から、あなたはまだ若いので若い人向けの小説も書けるかもしれない、とコバルトの部署を紹介してもらいます。改めて読者を意識して書いてみたところ、これもまたすぐに認められて、昭和63年/1988年春に第11回コバルト・ノベル大賞を受賞。在学中にして、晴れて〈彩河杏〉の名で作家デビューを果たし、その収入をもとにひとり暮らしを始めるのです。

 恐ろしいというか何というか、作家になりたくてなりたくて仕方ない、と夢を抱えながら何年も(あるいは何十年も)小説教室に通っている人にとっては、羨ましい、ないしは恨めしい展開かもしれません。

 おそらく角田さんのような人は、文芸専修に行かなくてもいつか作家として世に出たでしょう。自力で職業作家になれる才能が、世間にいくらでも眠っているというのは不思議なことではありませんが、こういう人が小説の書き方を教わるきっかけに、大学の創作科を選ぶ選択肢がすでに準備されていたのは、出版文化全体を見ても重要だと思います。

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