昭和60年/1985年、かつての作家志望者たちが集まって『全国作品コンテスト公募ガイド』を刊行する。
▼昭和62年/1987年、『公募ガイド』が月刊化、みるみる部数を伸ばす。
狂気と欲望が渦巻くなかで、徐々に破滅へと向かう1980年代。……いや、破滅かどうかはわかりませんが、とりあえずパチンと泡がはじけるまで、文芸出版の世界も、ひたひたと着実に出版点数および出版部数を膨張させていきます。
一般的に80年代は、プロとアマの垣根がぶち壊され、どんな素人でも一夜にして注目を浴びることができる、などと言われました。意地とか根性はダサいことだと嘲笑され、マスを相手にした市場では、一定の品質を保った商品を効率よく供給できる生産者としての作家や編集者が生き残る、とも言われました。
その影響を受けながら一気に群立したのが、小説教室と、高額賞金のものを含めた公募の小説賞です。いい時代だったなあと陶酔するか、悪い時代だったぜと唾棄するか。立場によって時代観はそれぞれでしょう。以来40年。いまもまだ、当時の残滓が尾を引いて残っているのは間違いありません。
ということで、80年代の小説教室と密接に関係したもののなかで、いまも元気に残っている媒体があります。『公募ガイド』です。
何週かまえに少しだけ触れました。子供の頃から作家になるのが夢だった。という人たちに、大きく門戸をひらいたのがカルチャースクールや専門学校を起源とする小説教室でしたが、そういう人たちの夢をいま一歩具現化させたのが、出版社、企業、地方自治体などがぞくぞくとつくった公募の小説賞です。
そんな社会の動きを見極めて、ダイヤ情報株式会社が、公称1万部で『季刊 全国作品コンテスト公募ガイド』を刊行したのが、昭和60年/1985年のこと。発行人は川崎政視さん、編集人は白戸修さん、広告担当は吉田秀三さんです。1年で4号を出すあいだに社名も「ダイヤ情報出版株式会社」と、出版の二文字を入れて改称、これはビジネスになるぞと手ごたえをつかんだ同社は、昭和61年/1986年12月10日売りの昭和62年/1987年新年号から誌名を『公募ガイド』と変え、月刊化に踏み切ります。すると、これが大当たりしました。
文芸誌に目を通さず、『公募ガイド』を見て小説を応募するやつが後を絶たない、ああ、おかしな世の中になっちまったなあ、というテイストの記事は、これまでたくさん書かれてきたと思います。たとえば、斎藤美奈子さんの「OL「作家になりたい症候群」の不気味」もそのひとつです。『諸君!』平成9年/1997年5月号に掲載されています。
『公募ガイド』のこともけっこう詳しく紹介された文献です。文芸誌や小説誌がおよそ1万部から十数万部、しかも凋落傾向にあるところ、『公募ガイド』は逆にどんどん部数を伸ばして、創刊12年で公称23万部。創刊のころからスタッフとして働いてきた同社取締役本部長の川原和博さんに取材して、あまりオシャレとは言い難い体裁をしたこの雑誌が、どんな方針で編集され、どんなふうに読まれているのか、斎藤さん流のイヤミったらしい文章で解説されています。
同誌が創刊したころの裏バナシにも触れられています。さすが斎藤さんの筆は鋭いです。
「川原さんの話で唯一なるほどと思ったのは「公募ガイド」は挫折した作家志望者らが集まって作った雑誌である、という創刊秘話だった。そうか、スタッフじたいが「作家になりたい症候群」のOBだったのか……。文芸業界を体のいい就職先のようにみなす独特の発想は、もしかしたらそこから来ているのかもしれない。」(「OL「作家になりたい症候群」の不気味」より)
『公募ガイド』は、べつに文章や小説のための専門誌ではなく、絵本、イラスト、写真、工芸、あるいはミス・コンテストを含めた「公募」全般を取り扱っている、というのが建前です。それでも、作家になれなかった作家志望者たちがつくったのだ、というのはたしかに面白い経緯だと思います。作家になりたい、だけどなれない……という怨念のパワーがどれほど凄まじいか。それがまたひとつの社会現象の一助になったわけですから、人生の挫折も馬鹿にしたものではありません。
ともかくダイヤ情報社の面々の、時代をとらえる感覚は冴えていた、と言っておきたいと思います。傾向と対策、投資と成果を、冷静にドライに分析することをよしとする潮流が、たしかに一般にはありました。作家になりたいという思いが小説教室を過熱させ、夢を与える切符が公募の小説賞として散りばめられたとき、それをまとめた情報として届ける『公募ガイド』が出てくる。自然といえば自然のことだったでしょう。
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▼昭和63年/1988年、小説教室に通う薄井ゆうじ、『公募ガイド』で確認して新人賞の狙いを定める。
『公募ガイド』が生まれた80年代半ばは、もう社会的に小説教室はかなりの存在感を占めていました。ページをめくっていても、それに関する話題がチラチラと出てきます。
「公募に関するQ&A大特集」(第8号・昭和62年/1987年4月刊)では、小説教室に触れたQが取り上げられています。「小説募集の要項などに、略歴付記とあるが何らかの意味で選考に関わりがあるのか。また各種カルチャーセンターや文芸教室で学んだ略歴は有利なのか」というものです。はい、選考する人はまずはその応募者にどの程度の話題性がありそうかで選びますので、略歴は重要です、といった答えなら面白かったんですけど、もちろんそんなことはなく、平穏な回答が書いてあります。
ちなみに、小説教室については、「現実には芥川賞の重兼芳子を筆頭に、カルチャー出身の女性がふえてきており、基礎的勉強は必要だ。」だそうです。要するに、何もわからないんだったらとりあえず行っとけば? ということなんでしょう。
同誌にはだいたい毎号、何かの新人賞をとった数名が大きな顔写真つきで紹介されていますが、昭和63年/1988年12月号では第51回小説現代新人賞の薄井ゆうじさんが登場しています。池袋コミュニティ・カレッジの都筑道夫さんの「エンタテイメント作法」講座を受講、のちにプロ作家になったひとりです。
「作家になるなら、新人賞をとって正面玄関から入りたいと思い、どこに応募したらいいかと都筑先生に相談すると、「小説現代」がいいのではないかとアドバイスをいただいた。
歴代の受賞者と選考委員を「公募ガイド」などで確かめ、小説現代新人賞ひとつにしぼって応募をはじめた。とるなら、この賞しかないと。」(『公募ガイド』昭和63年/1988年12月号「SERIES 賞&顔」より)
教室、小説賞、公募ガイドの、この美しい三位一体がはっきりと表現された記事です。
第34回江戸川乱歩賞を受賞した坂本光一さん(のちに太田俊明の名義で再デビュー)も、「賞金100万円小説を狙え!」特集でインタビューを受けています。坂本=太田さん自身は、まったくの独学で小説を書いたらしいですけど、「新人の作家の方たちと集まって話しをすることがあるんですが、カルチャースクールに通っていた人たちが意外と多いんです」(平成1年/1989年9月号)とあります。「意外と」というところに、小説は誰かに教わって書けるものではない、という旧来の文学イメージが世間にまだ残っていたことを感じさせますが、80年代の終わりの段階で、もはや小説教室の出身者は「意外と多い」という印象にまで拡大していた、とも取れるでしょう。
と、ひとりひとりのハナシに触れていたらキリがありません。この辺でやめときます。
ただ、最後に直木賞に関連する人のことを、ひとつだけ。このころの『公募ガイド』には、のちの直木賞受賞者も何人か取材を受けています。まだ文藝春秋に勤めていた中村彰彦さんとか、フェミナ賞をとった井上荒野さんとか、さあ作家としてデビューした、これからどうやって書いていこうか、という不安とやる気の見える言葉が載っています。なかでも何よりの注目は、第1回日本推理サスペンス大賞優秀賞を受賞した乃南アサさんです(昭和63年/1988年11月号)。
何が注目かといえば、「私もこの「公募ガイド」の読者でした。」と語っているからです。一冊のなかに詰まったチャンスの多さに力を得て、とにかくひとつ小説を書き上げる、ということを成し遂げたのだと言い、「「抽選」を待つのでは無く、獲得する意志が必要だと思います。」と、作家になりたいと思う人たちにエールを送っています。そういう言葉を読んで、じゃあおれもわたしも、と小説を書き出す人のうち、9割9分はモノにならず挫折するのかもしれませんが、だれか一人ぐらいは新しい作家として現れることもある。そう考えると、こういう誌面づくりもアリだと思います。
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