昭和49年/1974年、日本ジャーナリスト専門学校が文芸創作科を開設する。
▼昭和48年/1973年、みき書房の一事業として「ルポライター養成講座」が開講される。
1970年代に生まれたもので、すでに消え失せたものはたくさんあります。講談社フェーマススクールズの、四谷にあった通学制教室もそうですし、文芸創作の分野では、日本ジャーナリスト専門学校もそのひとつです。
この教育機関は「ジャナ専」「ジャナ専」と呼ばれてきたので、うちのブログでもそれを継承します。ワタクシ自身は何の縁もゆかりもありませんが、「直木賞のすべて」のイベントをずっと主催してくださった文芸評論家の大多和伴彦さんが、いっときこの学校で講師を務めていたらしく、何度か当時のハナシを聞いたことがあります。それはそれとして、つい10年ほど前の平成22年/2010年、入学志望者の減少で経営的に立ち行かなくなって閉校しましたが、1970年代に生まれたときから出版文芸とは近い距離にあり、文芸創作をひとつの科目に据えていた学校です。「小説教室」の歴史のなかでも、やはり触れずに済ませるわけにはいきません。
それで、まずは成り立ちからです。前身は昭和48年/1973年4月、四谷にあった雑居ビルの一室で始まった「ルポライター養成講座」にさかのぼります。このとき中心となって運営ないし講義を受け持ったのが、青地晨さんほか、松浦総三、丸山邦男、茶本繁正、猪野健治、上野昂志、山下諭一、島野一といったジャーナリスティックな物書きの面々。反権力志向といいますか、社会の闇をペンで暴いてやるぜといったタイプの、触れるとヤケドしそうな人たちです。
ただ、青地さんたちが経営していたというより、同じ「みすずビル」にあった出版社のみき書房が、事業のひとつとして興した講座らしく、お金の算段は同社が担っていたのだ、とも伝えられます。みき書房というのは何なのか。くわしいことは、誰かくわしい方に解説してほしいですが、昭和47年/1972年11月に創業し、昭和49年/1974年10月に株式会社となった小出版社で、はじめの頃は『季刊翻訳』という雑誌を出したり、『所得格差年報』を刊行したり、少し堅めのものを世に送り出していました。株式会社となった辺りで社長に就いたのが文化人類学者の島澄(きよし)さん、編集代表が元毎日新聞の記者で骨董にやたらと詳しい佐々木芳人さん、というところからも、シブめの本が多かったのかもしれません。
ルポライター養成講座が開設されたのも、ちょうどみき書房が法人格になる前夜のことです。企業経営のなかで、社会のためになることと、お金を稼げることの両側面を想定して、このようなスクールを出発させたのだろうと想像できます。
翌昭和49年/1974年には「日本ジャーナリスト専門学校」とモノモノしい名前を立てて、「編集者養成科」「文芸創作科」も加えて開校。始まった頃の第一期生には、やがて『原発ジプシー』(昭和54年/1979年10月・現代書館刊)を書くことになる堀江邦夫さんがいたそうですが、そのころの雰囲気を教えてくれるのが、同じくジャナ専第一期生だった石原俊介さんが主人公のノンフィクション『黒幕 巨大企業とマスコミがすがった「裏社会の案内人」』(平成26年/2014年11月・小学館刊)です。伊藤博敏さんの著作です。
1970年代に確立された「雑誌ジャーナリズム」という出版文化。そこに、時代の申し子のように設立されたジャナ専の存在を、伊藤さんは端的にまとめてくれています。
「(引用者注:1960年代末から70年代はじめごろの雑誌業界に)社会への情報発信を願う規格外の若者が群れた。団塊世代の全共闘くずれを筆頭に、大学中退者や企業のドロップアウト組、新聞や業界紙からの転職組が、コネを頼りに、フリーの記者として出入り、やがて専属記者の職を得て、ルポライターやノンフィクション作家としての腕を磨いた。マスコミ志願者たちの“けもの道”であり、何の資格も要らない。名刺1枚でライターを名乗れた。
(引用者中略)
ジャナ専では、文章の書き方、ルポルタージュの企画と取材、コラムの書き方、インタビューの方法などが教えられたが、そんなものが実際に役立つわけではなく、むしろ在野のジャーナリズムを知る場であり、そこで生き抜くコツを教えてもらい、講師を起点にマスコミに人脈を築く場だった。」(『黒幕』「第1章 「黒幕」の誕生」より)
「そんなものが実際に役立つわけではなく」と、きっぱり断言しているところが、すがすがしいです。技術や知識うんぬんの前に、何より人脈、生き方・働き方をまぢかで体感できるところに、このスクールも大きな特徴があったんでしょう。ちなみに同書によると、初期のころのチラシには、江國滋、大河内昭爾、小堺昭三、藤田信勝、山下諭一、吉村昭といった講師陣が並んでいたそうです。
昭和53年/1978年には、当時の専修学校制度に合わせて「日本ジャーナリスト専門学院」と改称し、昼間・夜間の二部制を敷きます。昭和54年/1979年に高田馬場に校舎移転。昭和57年/1982年には、学校法人情報学園が設立されて、ふたたび「日本ジャーナリスト専門学校」と名前を変えます。このころには、もう社会全体が浮かれはじめていたのか、事情はいろいろあるでしょうけど、入学希望者もぐんぐんと増え、高田馬場の5階建てビルだけでは学生を収容しきれなくなって、近くのマンションの一室を借り、さらに近くのビルの二フロアを独占賃貸し……とむくむく拡大したとのことです(『技術と人間』昭和58年/1983年12月号 山下恭弘「専門学校の実像――日本ジャーナリスト専門学校の場合」)。
ここに堂々「文芸創作科」もありました。6か月コース・1年コース、昼間部・夜間部、それから通信教育学部にも。いったい何百人、何千人の生徒がここで小説の書き方を教わったのでしょう。よくわかりません。そしてまた、出身者の実績も不明です。
○
▼昭和54年/1979年、『芥川賞の研究――芥川賞のウラオモテ』が刊行される。
直木賞のことをいろいろと調べる人間にとって、最も馴染みのあるジャナ専の成果といえば、『芥川賞の研究――芥川賞のウラオモテ』(昭和54年/1979年8月・日本ジャーナリスト専門学院出版部刊、みき書房発売)の一冊を出したこと。これに尽きるでしょう。
この一冊にジャナ専の講師や生徒の、誰と誰が具体的に関わったのかは、これからの調査の課題としまして、刊行のそもそものきっかけが同学院の文芸創作科にあったことが、「あとがき」からうかがえます。
芥川賞最高潮の盛り上がり時代、とも言われた1970年代後半。村上龍から池田満寿夫と来て高城修三・宮本輝で「軌道修正」した、という昭和51年/1976年上半期~昭和52年/1977年下半期。大いに各メディアを騒がせました。これはべつに、そのころの文芸に力があったわけではなく、ジャナ専の経営が成り立つ風土として前段で挙げたような、出版と雑誌ジャーナリズムの成熟(ないし爛熟)が背景にあったからだ、と見るのが自然でしょう。新聞から雑誌から、ラジオからテレビから、多くの情報が世間に拡散するなかで、受け取る側もわが事の問題として感情を揺り動かしたり、一喜一憂したりするのが習慣化した時代、芥川賞にまつわる賛否もよくジャーナリズムをにぎわせ、それに応じて受賞作もよく売れました。
それで、『芥川賞の研究』の「あとがき」です。
「当学院で、文芸創作科の学生を中心に、芥川賞受賞作の読書会や資料集めが始まったにもその頃のことである。読書会の方は、議論百出、収拾のつかぬ有様であったが、資料の方は徐々に集まった。その資料を読むと下手な議論より、実に様々なことがわかった。」(『芥川賞の研究』「あとがき」より)
この文章の署名は「日本ジャーナリスト専門学院 芥川賞研究会」。本を編集したのは、同学院出版部の滝厚夫さんと小幡登規江さんだそうです。
果たして文芸創作を学ぶために、古今の芥川賞受賞作を読んで議論する読書会なんて、意味があるのだろうか。……と、小説教室をながめるうえにおいても、つい考えさせられる一文ではありますが、文学賞の資料集めが楽しいことだけは、ワタクシにもわかります。
とりあえずジャナ専の文芸創作科を出たことを、経歴に書かなければいけない義務はありません。もしかして、その後活躍した作家のなかに出身者がいるかもしれず、うかつなことは言えませんが、同時代の教室なのに、カルチャースクールや講談社FSに比べて、小説家の輩出にあまり寄与しなかった(ように見える)のがジャナ専です。小説家が世に出る、という意味では、ルポライターやノンフィクションライターとは違って、公募の新人賞(文学賞)の文化が栄えましたので、人脈とかそういうものがあまり活用できない土壌だった、ということも、もしかしたら影響したのかもしれません。
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