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2020年12月20日 (日)

昭和63年/1988年、三田誠広が早稲田大学文芸科で「小説創作」演習を始める。

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▼昭和53年/1978年~昭和56年/1981年、『早稲田文学』から見延典子、三石由起子、田中りえが世に出る。

 今週も小説教室と直木賞とのハナシをつづけますが、そのまえに少し別の話題を差し込みます。12月18日に発表された第164回(令和2年/2020年下半期)の直木賞候補のことです。

 何といっても坂上泉さんがいます。会社に勤めながら天狼院の〈小説家養成ゼミ〉に通い、その間に書き上げた原稿で松本清張賞を受賞、今回、二作目にして直木賞の候補に挙がりました。2020年ともなると、小説教室と直木賞は切っても切り離せない、両者が並立して当たり前の時代になったということを、リアルタイムで実感できる恰好の候補発表だったと言えるでしょう。

 ……それともうひとつ、完全にうちのブログの目線なんですが、直木賞がようやく加藤シゲアキさんを候補に残した、というのも嬉しいニュースです。

 うちのブログが「芸能人と直木賞」のテーマでやっていたとき、加藤さんを取り上げたことがあります。平成28年/2016年3月の「加藤シゲアキは言った、「いつかは直木賞を取れるように頑張りたい」。」。いまから5年くらいまえです。

 加藤さんのようなチャレンジングな作家を、直木賞は積極的に候補に挙げていったほうがいい。と、そのときもワタクシは本心から思っていましたし、いまも思っています。文藝春秋の社員だって、それなりに世間の声に敏感に暮らしていますから、芸能人を候補にすることで、自分の会社や賞がどういう意見を食らうのか、メリットもデメリットも考えたことでしょう。それでもなお、候補に挙げる判断をしたという事実が、純粋にうれしいです。

 というのも直木賞は、本が売れる・売れないの前に、これから先も書いていってくれそうな作家たちに奮起の力を与えることも、大きな役割のひとつだからです。個人的には、だれが直木賞をとるのかにほとんど興味はありませんが、加藤さんには「直木賞候補になった!」というこの風を応援と受け取ってもらって、これからも小説を書き続けていってほしいと願います。

 すみません、完全にハナシが逸れました。いちおう、いまのテーマに戻って「小説教室」につなげてみます。

 文芸出版の世界で「芸能人の書く小説」と「小説教室」には共通点があります。一気に爆発したのが、ともに1980年代だったという点です。たまたま時期が重なった、と言ってしまえばそれまでですけど、いや、文芸を商業的に扱う企業のなかに、書き手の幅を広げることがビジネスの裾野を広げることにつながる、という考えが浸透したところに、芸能人小説、小説教室、この二つの隆盛が現れたことは間違いありません。

 ここに文学賞(直木賞)を組み合わせてみたとき、浮かび上がってくる人がいます。うつみ宮土理さんです。広く顔とキャラクターを知られるタレント業をしていた頃から駒田信二さんに師事し、朝日カルチャーセンターの駒田教室に参加、創作作法を学びながら同人誌の『まくた』に作品を発表して頭角を現わすと、いっときは文芸誌、読み物小説誌、婦人雑誌などに小説をたくさん発表しました。1990年代、「直木賞を目指している」と公言して、直木賞の盛り上がりに側面から寄与してくれた……といったようなことは、これも5年くらいまえのエントリー「うつみ宮土理は言った、「目標は直木賞をとること」」に書いてしまいました。いまさら同じハナシを繰り返すのはやめておきます。

 ともかく、小説教室の歴史を見ると、1970年代に大きく花開いたカルチャースクールの文化が80年代もそのまま順調に発達した、というのがおよその流れです。ただ、もうひとつ、この時期からジャーナリズム(主にゴシップジャーナリズム)を賑わせはじめた小説教室関係の話題があります。大学教育です。

 馬鹿いえ、大学なんかで文学を教えられるかよ。小説の創作作法なんて教育できるわけないだろ。……というハナシが盛り上がったのは、もう少しまえ、1960年代のことでした。アメリカの大学では創作教育が盛んだ。それに比べて日本は……みたいな、よくある欧米崇拝志向の渦に巻き込まれ、けっきょくその後、しばらく日本の大学では小説の書き方を授業に取り入れる動きは活発化しませんでしたが、そのなかで早稲田大学だけが、ひとり気を吐きます。

 昭和43年/1968年に第一文学部、昭和45年/1970年に第二文学部にそれぞれ文芸専修(文芸科)を設け、そこで学んだ荒川洋治さんがH氏賞を受賞したのが昭和51年/1976年。中島梓さんが群像新人文学賞評論部門に当選したのが昭和52年/1977年、同じく栗本薫名義での江戸川乱歩賞受賞が昭和53年/1978年。文学賞という制度のなかで大きく注目を浴びる存在になります。

 つづいて見延典子さんが『早稲田文学』誌上に登場すると、それを読んだ講談社の編集者が「この逸材、うちでもらったあ!」と手を挙げて、昭和53年/1978年の秋に『もう頬づえはつかない』を刊行。昭和54年/1979年にかけてベストセラー街道を驀進します。昭和56年/1981年には、文芸科の人ではないですけど三石由起子さんが「ダイアモンドは傷つかない」を『早稲田文学』4月号に発表、つづいて同年6月号には田中小実昌さんの娘で、文芸科に通った田中りえさんの「おやすみなさい、と男たちへ」が掲載され、次々に講談社が本にして売り出す騒ぎに。一気に「早稲田の文芸科」に好奇の目が注がれることになりました。

 そこからわかるのは、みんなだいたい、若い女の子が何かした、という話題が大好きなのだ。ということかもしれません。しかしその裏に、「話題になるのはイイことだ」「有名になれてうらやましい」という価値観が1970年代~80年代の日本を覆っていたことは間違いなく、文芸出版をにぎわせた芸能人小説も、ワセダ女子の台頭も、その現象の一種だったと見て取れます。

 社会が動けば、当然、大学の文学部もそれに合わせて変革していかなければなりません。

 いや、早稲田大学がどんな改革を志したのか、まったくワタクシには手に負えそうにない壮大な(?)テーマなんですけど、少なくともこのころ、第八次を数えていた『早稲田文学』は、時代に合わせた変化を目論み、試行錯誤しました。

 文芸科の教授、平岡篤頼さんが編集長格になって第八次を復刊させたのが昭和51年/1976年6月。昭和56年/1981年にがらりと編集委員を入れ替えたあと、何度か出入りを経るうちに、昭和59年/1984年1月号からは荒川洋治(当時34歳、以下同)、鈴木貞美(36歳)、立松和平(36歳)、中上健次(37歳)、福島泰樹(40歳)、三田誠広(35歳)という面々が編集委員会を構成します。鈴木、立松、中上、福島、三田の5人が出席した「新年号座談会 今年に賭ける」には、とにかく新しいことをやっていかなくちゃいけない、という各々の意見が出ていて、80年代の、ワサワサと賑わいだけあって、とらえどころのない空虚な文学状況に、いろいろ問題意識をもっていたのだな、とわかります。

 この年から募集を始めた〈早稲田文学新人賞〉なども、時代に合わせた変革のひとつ、と言っていいでしょう。原稿を「賞」というかたちで募るのは、80年代にはすでに文化として定着していたからです。そして、この30代なかばのワセダの士から、小説教室で名を挙げる人が出てくるのも、80年代から90年代にかけての、見過ごせない動きのひとつです。

          ○

▼平成5年/1993年、三田誠広の演習を受講した高林杳子、引間徹が文芸誌の新人賞を受賞。

 早稲田大学の文学部を出た三田誠広さんが芥川賞を受賞したのが、卒業から4年後の昭和52年/1977年7月、第77回のときでした。

 戦後生まれ作家の若い世代の旗手として、いっとき持てはやされたりしましたが、順調に年を重ねて、『早稲田文学』の編集委員を務めたあと、昭和63年/1988年から文芸科で「小説創作」演習を担当。受講生のなかから新人賞をとる人がポツポツと出てくるうちに、講義の内容をまとめた『天気の好い日は小説を書こう W大学文芸科創作教室』(平成6年/1994年11月・朝日ソノラマ刊)を出したところ、これがなかなかの評判となり、『深くておいしい小説の書き方 W大学文芸科創作教室』(平成7年/1995年11月・朝日ソノラマ刊)、『書く前に読もう超明解文学史 W大学文芸科創作教室』(平成8年/1996年9月・朝日ソノラマ刊)と2冊続きます。『AERA』平成9年/1997年6月16日号によると、この三部作は6万部ほどの売り上げだった、ということなので、そこまでのベストセラーではありませんが、文学解説の本としてはけっこうな好セールスです。

 何でもわかりやすく、ぶっちゃけて本音を言う、という体裁が三田さんの特徴のひとつです。創作を教えるに当たって、三田さんはこんな目標を立てた、と言っています。

「始めた時に、何人か私の弟子と言える人を出したいというふうに思っていました。まあ、芥川賞作家を一人出したら辞めようかと思っているんですが、まだ出ないですね。(引用者中略)

それから新人賞をとったらですね、受賞者の言葉というのが雑誌に掲載されます。そこに一言、「学生時代に三田先生にお世話になりました」(笑)というふうに書いとけと、みんなに言ってあったんです。これ、冗談で言ったつもりだったんですが、高林(引用者注:平成5年/1993年第76回文學界新人賞を受賞した高林杳子)さんは「文學界」にちゃんと書いてくれました。

引間(引用者注:平成5年/1993年第17回すばる文学賞を受賞した引間徹)というやつは一言もいわない。インタビューされても、W大の文芸科だということすら言わない。まあ、それでいいんですがね。本当に資質のある人は誰かに教えられるというよりも、自分の力で伸びていくものです。」(『天気の好い日は小説を書こう W大学文芸科創作教室』より)

 引用が三田さんの創作教育とは何の関係もない箇所で、すみません。とりあえず、三田教室から着実に新人賞の受賞者が出ていた、ということを示したくて、ここを取り上げてみました。

 昭和63年/1988年、三田さんが最初に教えた年に、学生のなかにいたのが引間徹さんだそうです。文學界新人賞の高林杳子さん、それから上記の本で「すごい美人」だと言われた教え子が、第21回すばる新人賞(平成9年/1997年)の清水博子さん。さらに同賞の第24回(平成12年/2000年)大久秀憲さんや、第25回(平成13年/2001年)大泉芽衣子さんも、三田さんの小説創作クラス出身だそうです。もっといるかもしれません。

 何だよけっきょく後が続かなかった連中ばっかりじゃないか、とツッコみたくなる人もいるでしょうけど、ここは堪えてください。新人賞でデビューしてからの後の活躍まで、小説教室に責任を負わせるのは、やはり荷が重すぎます。カルチャースクールだけでなく、大学の創作クラスからも、なるほど新人賞への道すじがあるんだ。と、90年代に知らしめたことだけで、早稲田文芸科の意義はあったものと思います。

 いやまあ、意義があったかどうかは、たしかによくわかりませんが、歴史的事実としては、何人かの若者がここを通って新人賞を受けた。そのことに間違いはありません。

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