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2020年12月の4件の記事

2020年12月27日 (日)

平成9年/1997年、重松清が早稲田大学で「エンターテインメント文芸」の授業を担当する。

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▼昭和58年/1983年、重松清が『早稲田文学』の学生編集員となる。

 1980年代半ば、文芸のドテッ腹に風穴を開けてやるぜ、という異常な情熱をカラまわりさせていた雑誌があります。『早稲田文学』(第八次)です。

 すみません、「カラまわり」かどうかは評価が分かれるでしょう。芯を食っていようが、時代をリードしていようが、基本『早稲田文学』のすることがカラまわりに見えてしまうのは、こちらの目が節穴なだけの可能性があります。別にこの表現に悪意はありません。

 平岡篤頼さんが編集長格に座り、その下に団塊の世代と言われる、当時はまだ若手だった作家や評論家たちが編集委員として名を連ね、出版界全体を覆うにぎやかな状況にも煽られて、毎月、誌面を展開していました。平岡さんは文芸科教授の立場にあり、そのなかから何人かの新人が商業出版の世界に飛び出すなど、ワセダの創作教室が脚光を浴びていた時代です。

 いっぽう直木賞にとっても、第八次の『早稲田文学』界隈はかなり深い縁があります。

 いや、そもそも早稲田と文芸界はいつの時代でも縁があるじゃないか、その時期に限ったことではないだろ、と言われれば返す言葉もありません。ただ、直木賞を受賞すると『オール讀物』にかならず書かせられる受賞記念の自伝エッセイというものがあり、そこに第八次『早稲田文学』との濃厚な関わりを書いた受賞者がいる。となれば、見過ごすわけにはいきません。

 重松清さんです。昭和56年/1981年、早稲田大学教育学部に入学。大学3年のときに、偶然『早稲田文学』学生編集員募集の貼り紙を見かけると、それまで興味もなかったワセブンに運命の出会いを感じたものか、応募したところ首尾よく受かり、以来、無給の編集員として同誌の編集に携わります。『オール讀物』平成13年/2001年3月号に載った自伝エッセイ「「早稲田文学」のこと」によれば、初めて編集を手伝ったのは、昭和58年/1983年7月の寺山修司追悼号だったそうです。

 そこで編集委員を務めていた中上健次さんをはじめ、重松さんにとっては10歳20歳年上に当たる、カタギのようなカタギでないようなお兄サマがたと濃密な時間を過ごします。別に小説の書き方を教わったわけではありませんけど、そういうなかから、田舎から出てきた何者でもない青年が、急速に文芸に目覚め、のちに物を書く職業を選ぶことになったのだ、ということです。

 昭和60年/1985年に大学を卒業し、中上さんの紹介で入社したのが(『毎日新聞』平成10年/1998年8月6日)出版社の角川書店。『野性時代』配属となって小説誌の編集者としてスタートを切りますが、1年ほどで退社してしまいます。以後、フリーライターをやりながら、塾の講師で生計を立てる生活に入ったころ、昭和62年/1987年に小説を書き始めました。

 きっかけは「直木賞」です。

「がら空きの京王線の電車の網棚に写真週刊誌が置いてあった。金もなかったからパッと手に取って開いたら、ちょうど山田詠美さんが直木賞をおとりになったときで、山田さんの隣でかつての同僚がワーッと盛り上がっている写真が出ていた(インタビュアーのあなたもいなかったっけ?)すごくはなばしく見えて……。ほんの二年前まで一緒に働いていたわけですから、「どこだろう、あそこの酒場かなあ」なんて呟きながら、「何やってんだろう、俺」って……。」(『オール讀物』平成13年/2001年3月号「直木賞受賞インタビュー いつだってテーマは人とのつながり」より ―インタビュー・構成:編集部)

 それが重松さんに火をつけて「一発逆転してやりたい!」という野望を持ちながら小説を書き出すきっかけのひとつになった、と語っています。そうしてみると、写真週刊誌も、直木賞のバカみたいな報道も、多少は後世に新しい作家を生む役に立ったのかもしれません。

 『文學界』をはじめ、三つの文芸誌に原稿を応募したそうで、そこでサラッと受賞していたら、すぐに作家重松清が誕生して、ひいては小説教室との関わりもなかった可能性があります。しかし、人生の妙といいますか、なかなかライター業では食っていけない過酷な現実をまえに、一発逆転への遠い道のりを歩いていた昭和63年/1988年、『早稲田文学』編集室から「チーフ」の肩書きで戻ってこないかというハナシが舞い込みます。重松さんは再び、ワセダの人となるわけです。

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2020年12月20日 (日)

昭和63年/1988年、三田誠広が早稲田大学文芸科で「小説創作」演習を始める。

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▼昭和53年/1978年~昭和56年/1981年、『早稲田文学』から見延典子、三石由起子、田中りえが世に出る。

 今週も小説教室と直木賞とのハナシをつづけますが、そのまえに少し別の話題を差し込みます。12月18日に発表された第164回(令和2年/2020年下半期)の直木賞候補のことです。

 何といっても坂上泉さんがいます。会社に勤めながら天狼院の〈小説家養成ゼミ〉に通い、その間に書き上げた原稿で松本清張賞を受賞、今回、二作目にして直木賞の候補に挙がりました。2020年ともなると、小説教室と直木賞は切っても切り離せない、両者が並立して当たり前の時代になったということを、リアルタイムで実感できる恰好の候補発表だったと言えるでしょう。

 ……それともうひとつ、完全にうちのブログの目線なんですが、直木賞がようやく加藤シゲアキさんを候補に残した、というのも嬉しいニュースです。

 うちのブログが「芸能人と直木賞」のテーマでやっていたとき、加藤さんを取り上げたことがあります。平成28年/2016年3月の「加藤シゲアキは言った、「いつかは直木賞を取れるように頑張りたい」。」。いまから5年くらいまえです。

 加藤さんのようなチャレンジングな作家を、直木賞は積極的に候補に挙げていったほうがいい。と、そのときもワタクシは本心から思っていましたし、いまも思っています。文藝春秋の社員だって、それなりに世間の声に敏感に暮らしていますから、芸能人を候補にすることで、自分の会社や賞がどういう意見を食らうのか、メリットもデメリットも考えたことでしょう。それでもなお、候補に挙げる判断をしたという事実が、純粋にうれしいです。

 というのも直木賞は、本が売れる・売れないの前に、これから先も書いていってくれそうな作家たちに奮起の力を与えることも、大きな役割のひとつだからです。個人的には、だれが直木賞をとるのかにほとんど興味はありませんが、加藤さんには「直木賞候補になった!」というこの風を応援と受け取ってもらって、これからも小説を書き続けていってほしいと願います。

 すみません、完全にハナシが逸れました。いちおう、いまのテーマに戻って「小説教室」につなげてみます。

 文芸出版の世界で「芸能人の書く小説」と「小説教室」には共通点があります。一気に爆発したのが、ともに1980年代だったという点です。たまたま時期が重なった、と言ってしまえばそれまでですけど、いや、文芸を商業的に扱う企業のなかに、書き手の幅を広げることがビジネスの裾野を広げることにつながる、という考えが浸透したところに、芸能人小説、小説教室、この二つの隆盛が現れたことは間違いありません。

 ここに文学賞(直木賞)を組み合わせてみたとき、浮かび上がってくる人がいます。うつみ宮土理さんです。広く顔とキャラクターを知られるタレント業をしていた頃から駒田信二さんに師事し、朝日カルチャーセンターの駒田教室に参加、創作作法を学びながら同人誌の『まくた』に作品を発表して頭角を現わすと、いっときは文芸誌、読み物小説誌、婦人雑誌などに小説をたくさん発表しました。1990年代、「直木賞を目指している」と公言して、直木賞の盛り上がりに側面から寄与してくれた……といったようなことは、これも5年くらいまえのエントリー「うつみ宮土理は言った、「目標は直木賞をとること」」に書いてしまいました。いまさら同じハナシを繰り返すのはやめておきます。

 ともかく、小説教室の歴史を見ると、1970年代に大きく花開いたカルチャースクールの文化が80年代もそのまま順調に発達した、というのがおよその流れです。ただ、もうひとつ、この時期からジャーナリズム(主にゴシップジャーナリズム)を賑わせはじめた小説教室関係の話題があります。大学教育です。

 馬鹿いえ、大学なんかで文学を教えられるかよ。小説の創作作法なんて教育できるわけないだろ。……というハナシが盛り上がったのは、もう少しまえ、1960年代のことでした。アメリカの大学では創作教育が盛んだ。それに比べて日本は……みたいな、よくある欧米崇拝志向の渦に巻き込まれ、けっきょくその後、しばらく日本の大学では小説の書き方を授業に取り入れる動きは活発化しませんでしたが、そのなかで早稲田大学だけが、ひとり気を吐きます。

 昭和43年/1968年に第一文学部、昭和45年/1970年に第二文学部にそれぞれ文芸専修(文芸科)を設け、そこで学んだ荒川洋治さんがH氏賞を受賞したのが昭和51年/1976年。中島梓さんが群像新人文学賞評論部門に当選したのが昭和52年/1977年、同じく栗本薫名義での江戸川乱歩賞受賞が昭和53年/1978年。文学賞という制度のなかで大きく注目を浴びる存在になります。

 つづいて見延典子さんが『早稲田文学』誌上に登場すると、それを読んだ講談社の編集者が「この逸材、うちでもらったあ!」と手を挙げて、昭和53年/1978年の秋に『もう頬づえはつかない』を刊行。昭和54年/1979年にかけてベストセラー街道を驀進します。昭和56年/1981年には、文芸科の人ではないですけど三石由起子さんが「ダイアモンドは傷つかない」を『早稲田文学』4月号に発表、つづいて同年6月号には田中小実昌さんの娘で、文芸科に通った田中りえさんの「おやすみなさい、と男たちへ」が掲載され、次々に講談社が本にして売り出す騒ぎに。一気に「早稲田の文芸科」に好奇の目が注がれることになりました。

 そこからわかるのは、みんなだいたい、若い女の子が何かした、という話題が大好きなのだ。ということかもしれません。しかしその裏に、「話題になるのはイイことだ」「有名になれてうらやましい」という価値観が1970年代~80年代の日本を覆っていたことは間違いなく、文芸出版をにぎわせた芸能人小説も、ワセダ女子の台頭も、その現象の一種だったと見て取れます。

 社会が動けば、当然、大学の文学部もそれに合わせて変革していかなければなりません。

 いや、早稲田大学がどんな改革を志したのか、まったくワタクシには手に負えそうにない壮大な(?)テーマなんですけど、少なくともこのころ、第八次を数えていた『早稲田文学』は、時代に合わせた変化を目論み、試行錯誤しました。

 文芸科の教授、平岡篤頼さんが編集長格になって第八次を復刊させたのが昭和51年/1976年6月。昭和56年/1981年にがらりと編集委員を入れ替えたあと、何度か出入りを経るうちに、昭和59年/1984年1月号からは荒川洋治(当時34歳、以下同)、鈴木貞美(36歳)、立松和平(36歳)、中上健次(37歳)、福島泰樹(40歳)、三田誠広(35歳)という面々が編集委員会を構成します。鈴木、立松、中上、福島、三田の5人が出席した「新年号座談会 今年に賭ける」には、とにかく新しいことをやっていかなくちゃいけない、という各々の意見が出ていて、80年代の、ワサワサと賑わいだけあって、とらえどころのない空虚な文学状況に、いろいろ問題意識をもっていたのだな、とわかります。

 この年から募集を始めた〈早稲田文学新人賞〉なども、時代に合わせた変革のひとつ、と言っていいでしょう。原稿を「賞」というかたちで募るのは、80年代にはすでに文化として定着していたからです。そして、この30代なかばのワセダの士から、小説教室で名を挙げる人が出てくるのも、80年代から90年代にかけての、見過ごせない動きのひとつです。

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2020年12月13日 (日)

昭和60年/1985年、かつての作家志望者たちが集まって『全国作品コンテスト公募ガイド』を刊行する。

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▼昭和62年/1987年、『公募ガイド』が月刊化、みるみる部数を伸ばす。

 狂気と欲望が渦巻くなかで、徐々に破滅へと向かう1980年代。……いや、破滅かどうかはわかりませんが、とりあえずパチンと泡がはじけるまで、文芸出版の世界も、ひたひたと着実に出版点数および出版部数を膨張させていきます。

 一般的に80年代は、プロとアマの垣根がぶち壊され、どんな素人でも一夜にして注目を浴びることができる、などと言われました。意地とか根性はダサいことだと嘲笑され、マスを相手にした市場では、一定の品質を保った商品を効率よく供給できる生産者としての作家や編集者が生き残る、とも言われました。

 その影響を受けながら一気に群立したのが、小説教室と、高額賞金のものを含めた公募の小説賞です。いい時代だったなあと陶酔するか、悪い時代だったぜと唾棄するか。立場によって時代観はそれぞれでしょう。以来40年。いまもまだ、当時の残滓が尾を引いて残っているのは間違いありません。

 ということで、80年代の小説教室と密接に関係したもののなかで、いまも元気に残っている媒体があります。『公募ガイド』です。

 何週かまえに少しだけ触れました。子供の頃から作家になるのが夢だった。という人たちに、大きく門戸をひらいたのがカルチャースクールや専門学校を起源とする小説教室でしたが、そういう人たちの夢をいま一歩具現化させたのが、出版社、企業、地方自治体などがぞくぞくとつくった公募の小説賞です。

 そんな社会の動きを見極めて、ダイヤ情報株式会社が、公称1万部で『季刊 全国作品コンテスト公募ガイド』を刊行したのが、昭和60年/1985年のこと。発行人は川崎政視さん、編集人は白戸修さん、広告担当は吉田秀三さんです。1年で4号を出すあいだに社名も「ダイヤ情報出版株式会社」と、出版の二文字を入れて改称、これはビジネスになるぞと手ごたえをつかんだ同社は、昭和61年/1986年12月10日売りの昭和62年/1987年新年号から誌名を『公募ガイド』と変え、月刊化に踏み切ります。すると、これが大当たりしました。

 文芸誌に目を通さず、『公募ガイド』を見て小説を応募するやつが後を絶たない、ああ、おかしな世の中になっちまったなあ、というテイストの記事は、これまでたくさん書かれてきたと思います。たとえば、斎藤美奈子さんの「OL「作家になりたい症候群」の不気味」もそのひとつです。『諸君!』平成9年/1997年5月号に掲載されています。

 『公募ガイド』のこともけっこう詳しく紹介された文献です。文芸誌や小説誌がおよそ1万部から十数万部、しかも凋落傾向にあるところ、『公募ガイド』は逆にどんどん部数を伸ばして、創刊12年で公称23万部。創刊のころからスタッフとして働いてきた同社取締役本部長の川原和博さんに取材して、あまりオシャレとは言い難い体裁をしたこの雑誌が、どんな方針で編集され、どんなふうに読まれているのか、斎藤さん流のイヤミったらしい文章で解説されています。

 同誌が創刊したころの裏バナシにも触れられています。さすが斎藤さんの筆は鋭いです。

「川原さんの話で唯一なるほどと思ったのは「公募ガイド」は挫折した作家志望者らが集まって作った雑誌である、という創刊秘話だった。そうか、スタッフじたいが「作家になりたい症候群」のOBだったのか……。文芸業界を体のいい就職先のようにみなす独特の発想は、もしかしたらそこから来ているのかもしれない。」(「OL「作家になりたい症候群」の不気味」より)

 『公募ガイド』は、べつに文章や小説のための専門誌ではなく、絵本、イラスト、写真、工芸、あるいはミス・コンテストを含めた「公募」全般を取り扱っている、というのが建前です。それでも、作家になれなかった作家志望者たちがつくったのだ、というのはたしかに面白い経緯だと思います。作家になりたい、だけどなれない……という怨念のパワーがどれほど凄まじいか。それがまたひとつの社会現象の一助になったわけですから、人生の挫折も馬鹿にしたものではありません。

 ともかくダイヤ情報社の面々の、時代をとらえる感覚は冴えていた、と言っておきたいと思います。傾向と対策、投資と成果を、冷静にドライに分析することをよしとする潮流が、たしかに一般にはありました。作家になりたいという思いが小説教室を過熱させ、夢を与える切符が公募の小説賞として散りばめられたとき、それをまとめた情報として届ける『公募ガイド』が出てくる。自然といえば自然のことだったでしょう。

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2020年12月 6日 (日)

昭和49年/1974年、日本ジャーナリスト専門学校が文芸創作科を開設する。

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▼昭和48年/1973年、みき書房の一事業として「ルポライター養成講座」が開講される。

 1970年代に生まれたもので、すでに消え失せたものはたくさんあります。講談社フェーマススクールズの、四谷にあった通学制教室もそうですし、文芸創作の分野では、日本ジャーナリスト専門学校もそのひとつです。

 この教育機関は「ジャナ専」「ジャナ専」と呼ばれてきたので、うちのブログでもそれを継承します。ワタクシ自身は何の縁もゆかりもありませんが、「直木賞のすべて」のイベントをずっと主催してくださった文芸評論家の大多和伴彦さんが、いっときこの学校で講師を務めていたらしく、何度か当時のハナシを聞いたことがあります。それはそれとして、つい10年ほど前の平成22年/2010年、入学志望者の減少で経営的に立ち行かなくなって閉校しましたが、1970年代に生まれたときから出版文芸とは近い距離にあり、文芸創作をひとつの科目に据えていた学校です。「小説教室」の歴史のなかでも、やはり触れずに済ませるわけにはいきません。

 それで、まずは成り立ちからです。前身は昭和48年/1973年4月、四谷にあった雑居ビルの一室で始まった「ルポライター養成講座」にさかのぼります。このとき中心となって運営ないし講義を受け持ったのが、青地晨さんほか、松浦総三、丸山邦男、茶本繁正、猪野健治、上野昂志、山下諭一、島野一といったジャーナリスティックな物書きの面々。反権力志向といいますか、社会の闇をペンで暴いてやるぜといったタイプの、触れるとヤケドしそうな人たちです。

 ただ、青地さんたちが経営していたというより、同じ「みすずビル」にあった出版社のみき書房が、事業のひとつとして興した講座らしく、お金の算段は同社が担っていたのだ、とも伝えられます。みき書房というのは何なのか。くわしいことは、誰かくわしい方に解説してほしいですが、昭和47年/1972年11月に創業し、昭和49年/1974年10月に株式会社となった小出版社で、はじめの頃は『季刊翻訳』という雑誌を出したり、『所得格差年報』を刊行したり、少し堅めのものを世に送り出していました。株式会社となった辺りで社長に就いたのが文化人類学者の島澄(きよし)さん、編集代表が元毎日新聞の記者で骨董にやたらと詳しい佐々木芳人さん、というところからも、シブめの本が多かったのかもしれません。

 ルポライター養成講座が開設されたのも、ちょうどみき書房が法人格になる前夜のことです。企業経営のなかで、社会のためになることと、お金を稼げることの両側面を想定して、このようなスクールを出発させたのだろうと想像できます。

 翌昭和49年/1974年には「日本ジャーナリスト専門学校」とモノモノしい名前を立てて、「編集者養成科」「文芸創作科」も加えて開校。始まった頃の第一期生には、やがて『原発ジプシー』(昭和54年/1979年10月・現代書館刊)を書くことになる堀江邦夫さんがいたそうですが、そのころの雰囲気を教えてくれるのが、同じくジャナ専第一期生だった石原俊介さんが主人公のノンフィクション『黒幕 巨大企業とマスコミがすがった「裏社会の案内人」』(平成26年/2014年11月・小学館刊)です。伊藤博敏さんの著作です。

 1970年代に確立された「雑誌ジャーナリズム」という出版文化。そこに、時代の申し子のように設立されたジャナ専の存在を、伊藤さんは端的にまとめてくれています。

(引用者注:1960年代末から70年代はじめごろの雑誌業界に)社会への情報発信を願う規格外の若者が群れた。団塊世代の全共闘くずれを筆頭に、大学中退者や企業のドロップアウト組、新聞や業界紙からの転職組が、コネを頼りに、フリーの記者として出入り、やがて専属記者の職を得て、ルポライターやノンフィクション作家としての腕を磨いた。マスコミ志願者たちの“けもの道”であり、何の資格も要らない。名刺1枚でライターを名乗れた。

(引用者中略)

ジャナ専では、文章の書き方、ルポルタージュの企画と取材、コラムの書き方、インタビューの方法などが教えられたが、そんなものが実際に役立つわけではなく、むしろ在野のジャーナリズムを知る場であり、そこで生き抜くコツを教えてもらい、講師を起点にマスコミに人脈を築く場だった。」(『黒幕』「第1章 「黒幕」の誕生」より)

 「そんなものが実際に役立つわけではなく」と、きっぱり断言しているところが、すがすがしいです。技術や知識うんぬんの前に、何より人脈、生き方・働き方をまぢかで体感できるところに、このスクールも大きな特徴があったんでしょう。ちなみに同書によると、初期のころのチラシには、江國滋、大河内昭爾、小堺昭三、藤田信勝、山下諭一、吉村昭といった講師陣が並んでいたそうです。

 昭和53年/1978年には、当時の専修学校制度に合わせて「日本ジャーナリスト専門学院」と改称し、昼間・夜間の二部制を敷きます。昭和54年/1979年に高田馬場に校舎移転。昭和57年/1982年には、学校法人情報学園が設立されて、ふたたび「日本ジャーナリスト専門学校」と名前を変えます。このころには、もう社会全体が浮かれはじめていたのか、事情はいろいろあるでしょうけど、入学希望者もぐんぐんと増え、高田馬場の5階建てビルだけでは学生を収容しきれなくなって、近くのマンションの一室を借り、さらに近くのビルの二フロアを独占賃貸し……とむくむく拡大したとのことです(『技術と人間』昭和58年/1983年12月号 山下恭弘「専門学校の実像――日本ジャーナリスト専門学校の場合」)。

 ここに堂々「文芸創作科」もありました。6か月コース・1年コース、昼間部・夜間部、それから通信教育学部にも。いったい何百人、何千人の生徒がここで小説の書き方を教わったのでしょう。よくわかりません。そしてまた、出身者の実績も不明です。

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