平成9年/1997年、重松清が早稲田大学で「エンターテインメント文芸」の授業を担当する。
▼昭和58年/1983年、重松清が『早稲田文学』の学生編集員となる。
1980年代半ば、文芸のドテッ腹に風穴を開けてやるぜ、という異常な情熱をカラまわりさせていた雑誌があります。『早稲田文学』(第八次)です。
すみません、「カラまわり」かどうかは評価が分かれるでしょう。芯を食っていようが、時代をリードしていようが、基本『早稲田文学』のすることがカラまわりに見えてしまうのは、こちらの目が節穴なだけの可能性があります。別にこの表現に悪意はありません。
平岡篤頼さんが編集長格に座り、その下に団塊の世代と言われる、当時はまだ若手だった作家や評論家たちが編集委員として名を連ね、出版界全体を覆うにぎやかな状況にも煽られて、毎月、誌面を展開していました。平岡さんは文芸科教授の立場にあり、そのなかから何人かの新人が商業出版の世界に飛び出すなど、ワセダの創作教室が脚光を浴びていた時代です。
いっぽう直木賞にとっても、第八次の『早稲田文学』界隈はかなり深い縁があります。
いや、そもそも早稲田と文芸界はいつの時代でも縁があるじゃないか、その時期に限ったことではないだろ、と言われれば返す言葉もありません。ただ、直木賞を受賞すると『オール讀物』にかならず書かせられる受賞記念の自伝エッセイというものがあり、そこに第八次『早稲田文学』との濃厚な関わりを書いた受賞者がいる。となれば、見過ごすわけにはいきません。
重松清さんです。昭和56年/1981年、早稲田大学教育学部に入学。大学3年のときに、偶然『早稲田文学』学生編集員募集の貼り紙を見かけると、それまで興味もなかったワセブンに運命の出会いを感じたものか、応募したところ首尾よく受かり、以来、無給の編集員として同誌の編集に携わります。『オール讀物』平成13年/2001年3月号に載った自伝エッセイ「「早稲田文学」のこと」によれば、初めて編集を手伝ったのは、昭和58年/1983年7月の寺山修司追悼号だったそうです。
そこで編集委員を務めていた中上健次さんをはじめ、重松さんにとっては10歳20歳年上に当たる、カタギのようなカタギでないようなお兄サマがたと濃密な時間を過ごします。別に小説の書き方を教わったわけではありませんけど、そういうなかから、田舎から出てきた何者でもない青年が、急速に文芸に目覚め、のちに物を書く職業を選ぶことになったのだ、ということです。
昭和60年/1985年に大学を卒業し、中上さんの紹介で入社したのが(『毎日新聞』平成10年/1998年8月6日)出版社の角川書店。『野性時代』配属となって小説誌の編集者としてスタートを切りますが、1年ほどで退社してしまいます。以後、フリーライターをやりながら、塾の講師で生計を立てる生活に入ったころ、昭和62年/1987年に小説を書き始めました。
きっかけは「直木賞」です。
「がら空きの京王線の電車の網棚に写真週刊誌が置いてあった。金もなかったからパッと手に取って開いたら、ちょうど山田詠美さんが直木賞をおとりになったときで、山田さんの隣でかつての同僚がワーッと盛り上がっている写真が出ていた(インタビュアーのあなたもいなかったっけ?)すごくはなばしく見えて……。ほんの二年前まで一緒に働いていたわけですから、「どこだろう、あそこの酒場かなあ」なんて呟きながら、「何やってんだろう、俺」って……。」(『オール讀物』平成13年/2001年3月号「直木賞受賞インタビュー いつだってテーマは人とのつながり」より ―インタビュー・構成:編集部)
それが重松さんに火をつけて「一発逆転してやりたい!」という野望を持ちながら小説を書き出すきっかけのひとつになった、と語っています。そうしてみると、写真週刊誌も、直木賞のバカみたいな報道も、多少は後世に新しい作家を生む役に立ったのかもしれません。
『文學界』をはじめ、三つの文芸誌に原稿を応募したそうで、そこでサラッと受賞していたら、すぐに作家重松清が誕生して、ひいては小説教室との関わりもなかった可能性があります。しかし、人生の妙といいますか、なかなかライター業では食っていけない過酷な現実をまえに、一発逆転への遠い道のりを歩いていた昭和63年/1988年、『早稲田文学』編集室から「チーフ」の肩書きで戻ってこないかというハナシが舞い込みます。重松さんは再び、ワセダの人となるわけです。
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