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2020年11月22日 (日)

昭和55年/1980年、講談社フェーマススクールズ美術学院に「小説作法入門」の講座ができる。

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▼昭和55年/1980年、伊藤桂一、講談社フェーマススクールズで小説作法の講師になる。

 朝日カルチャーも池袋コミカレも、現在まだ残っています。しかしバブル前夜に登場した「三大小説教室」のもうひとつ、講談社フェーマススクールズの小説教室はもはや、この世にありません。

 とくに、ここで5年間「エンタテインメント小説作法」の講座を受け持ち、新人賞をとる作家やプロになる作家をぞくぞくと生み出して、大衆文芸・エンタメ小説に関わる創作指導の歴史に燦然と名を残したのが、山村正夫さんです。フェーマススクールズが閉鎖されたあと、私塾として教室をつづけ、自身が亡くなったあとには、この貴重な灯を消してはなるものかと親交の厚かった森村誠一さんが引き継いで、現在にいたります。

 この講座からはわんさか作家がデビューした、ということもあって、不肖・直木賞もまったく無縁ではいられなくなりました。もはや伝説となった感もある80年代の山村教室について、やはりうちのブログでもおさらいしておこうと思います。

 まずそもそも、講談社フェーマススクールズとは何なのか。というハナシから始めますけど、べつに小説講座のために生まれた会社ではありません。発足の過程は他のカルチャースクールとも違っていて、さかのぼって昭和43年/1968年9月。アメリカの企業「フェーマススクールズ(FS)社」と、日本の出版社「講談社」が技術提携するかたちで、講談社フェーマススクールズが設立されます。

 FS社がアメリカでつくられたのは昭和23年/1948年です。業務の中心は、美術教育を通信制で提供する、というもの。アメリカという国は国土が広く、郵便・配送・物流といった手法を使って、ビジネス相手となる人にモノを届けて商売にする、という発想が伝統的に盛んでした。たとえば雑誌などでも発行のたびに書店で買ってもらうのではなく、定期購読で流通させるのが一般的だとか、カタログで欲しいものを選んでもらう通信販売が古くから当たり前だったとか、そんな巷説も聞いたことがあります。ほんとうかどうかはわかりませんが、あり得そうなハナシです。

 日本の場合、その分野で大規模なビジネスを展開するには、消費者の意識が付いていけていませんでしたが、いっぽうで、ときの講談社社長、野間省一さんはつねづね問題意識を抱えていたそうです。日本でも徐々に雑誌や広告のなかでの、アートの重要性が認識されはじめている。その割にこれを担う人材がうまく育成できているかというと、まだまだ十分とはいえない。美術的なモノを生み出す能力が、きっと日本人のなかにも眠っているだろう。ここはひとつ、アメリカで誕生し、世界各国に展開しているFS社のノウハウを採り入れて、日本でも通信制の美術教育を立ち上げ、全国から腕のあるデザイナーや、グラフィックアートの世界で活躍できる人を発掘し、育てていこうではないか!

 ということで、講談社FSでは、コマーシャルアート・コース、ペインティング・コースを設け、入学希望者には「適性テスト」なるものを受けてもらい、その合格者のみが15万円ナリの受講料を払うことで、一流の通信制美術教育を受けられる、という事業を始めます。

 このビジネスがうまく行ったからか、はたまた通信制だけだと限界があるよねと反省したからか、その経緯はわかりませんけど、昭和50年/1975年7月にいたって同社は通学制の教育にも参入します。場所は四ツ谷駅から歩いてすぐ、新宿区本塩町の「祥平館ビル」。看板には「講談社フェーマススクールズ美術学院」と掲げられました。

 これまで展開してきた通信制では手の届かない部分を通学制で実現する、というのが同学院のいちおうの主旨ですから、開かれた講座は従来の内容に沿って、グラフィックなアートに通ずる絵画や美術などだけです。すでにそのころ、一般にはカルチャースクールが隆盛の途上にあり、時間のある人が家からお出かけしてどこかに何かを学びに行く、という感覚が市民レベルで広がりを見せていましたが、講談社FSの美術学院は、カルチャーセンターの一種というより、プロになることを目指した美術教育に主眼が置かれていました。どちらかというと専門学校に近かったかもしれません。

 ところが、そうこうするあいだに、カルチャーセンターのほうから次々に小説の書き手が出はじめます。小説教室ビッグバンの、重兼芳子芥川賞受賞が、昭和54年/1979年7月のこと。講談社まわりもウカウカしていられません。

 そうか。うちの学校は「美術学院」だけど、講談社の手も入っているんだから、文芸の教室をやってもいいじゃないか。……と思いついた人が偉かったんだと思います。あくまで同校の「実践に役立つ」という特徴を生かしながら、講談社文芸局の第一線で働く編集者たちの協力を得て、「小説作法入門」を開講したのが昭和55年/1980年4月。主任講師として作家の伊藤桂一さん、文芸評論家の武蔵野次郎さんなどにお願いしました。

 「小説作法入門」というのは、系統としては朝日カルチャーの駒田信二さんや久保田正文さんの教室に近く、要は純文芸が念頭に置かれています。その後、講師として参加した澤野久雄さん、進藤純孝さん、八木義徳さん、秋山駿さん、入江隆則さんなどの顔ぶれを見ても、芸術性のある文芸を書きたい人のためのクラスだった、といえばそうなんでしょう。ただ、一様に割り切って考えてはいけないな、と思わされるのは、講師が伊藤桂一さんだったからです。直木賞の受賞者です。

 こういうところに「直木賞はエンタメ小説の文学賞だ」と胸を張って主張できない、直木賞の気持ち悪さが現われているわけですけど、じっさい伊藤教室には、純文芸で行きたいゴリゴリの文学亡者だけじゃなく、時代小説を書きたいとか、エンタメ分野で名を挙げたいと野心をもつ人たちも、けっこう通っていたらしいです。純文芸かどうかは、どうでもいいかもしれません。

          ○

▼昭和59年/1984年、山村正夫の「エンタテインメント小説作法」講座が始まる。

 現実問題、伊藤教室が始まったころは、まだ小説教室もジャンルごとに細分化されていません。

 『現代』の昭和59年/1984年5月号に載った学院の広告では、伊藤さんに教わった受講生が「作家への道を模索中の人に、これほどぴったりの小説教室はほかにはないと思っている。」とコメントを寄せています。発言のヌシは長谷圭剛さん。第6回エンタテインメント大賞を受賞した人です。創作指導はのちに、それぞれジャンルごとに分化していきますが、とりあえずこの段階では、小説を書きたいんだ、書き方を学びたいんだ、という受講生の熱が、ちまたの小説教室にマグマのように煮えたぎっていた時期だったんでしょう。

 なかでも講談社FSは、とくにプロになりたい、とにかく世に出たい、という意欲ある受講生が多かったのが特徴だと言われています。伊藤さんもそれを認めています。

「この講談社の講座は、世に出たい一心で集まっている人ばかりで、講師は、百枚二百枚という作品を、しっかり読まされることになり、少々読取料をもらっても、たいそうな負担にはなった。小説好き、人の面倒をみることが好き、読むことを苦にしない性格――といった人たちでないとつとまらない。もと編集者をやった経験のある人が、講師向きということになる。私も十数年編集者仕事をつとめてきたし、小説勉強をしている人たちが、少しずつ(時には飛躍的に)上達してゆくのをみるのは、たのしみだった。」(平成9年/1997年4月・講談社刊、伊藤桂一・著『文章作法 小説の書き方』「はじめに」より)

 上記の文章によれば、とにかく同校の小説教室は、伊藤教室だけじゃなく他の講師のクラスも、押すな押すなの大盛況。反対に、もともと主体だった美術教育のクラスは不人気つづきだったそうです。恥ずかしがるそぶりを見せずに「プロの作家を目指すための小説教室だ!」と言い切ったことも功を奏したに違いありません。学校の名前も、昭和57年/1982年には「美術」の2文字が消えて「講談社フェーマススクールズ四谷学院」と変わり、小説、童話、絵本、シナリオと、このあたりの分野のプロを養成するかなりユニークな方向に足を踏み出します。

 同校の強みといえば、何といっても親会社の講談社のツテでしょう。名のある作家や評論家と長く付き合ってきたことがここで活かされ、主任講師のほかに、渡辺淳一、豊田穣、杉森久英、綱淵謙譲、胡桃沢耕史、津本陽、そのほか数多くの人をゲスト講師として創作指導の場に招き入れます。人気が出てきたとなったら、少し角度を変えた講座も追加で開設。「小説作法」のほかに「小説入門」という講座も開き、小川和佑さん、森瑤子さん、山村正夫さんといった人たちが講師に就きました。

 というところで、出ました、山村さんです。

 講談社FSの成り立ちとか、どうでもいいハナシをしているうちに長くなってきたので、山村教室のことは翌週以降にまわしますが、おそらく山村さんがはじめて同校の教壇に立ったのが昭和58年/1983年。その翌年、昭和59年/1984年4月から「エンタテインメント小説作法」という新しい講座が正式にスタートします。

 ここに通い出したひとりが、作家になりたいと思いを秘めていた関口芙沙恵さんです。おそるおそる授業に出てみたところ、山村さんは開口一番「この中から必ず何人かのプロ作家を出してみせる」と宣言した、と言います(平成10年/1998年11月・KSS出版刊、山村正夫・著『わが懐旧のイタ・セクスアリス 小説作法・小説教室』所収 関口芙沙恵「四谷の夜は遠いけれど」)。

 そしてじっさいに、第一期生からのちにプロとなったのが、新津きよみさん、関口芙沙恵さん、石塚京介さん、宮部みゆきさん……。開講3~4年で早くも結果がオモテに現われ、「山村伝説」もまた幕を切って落とします。

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