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2020年11月 8日 (日)

昭和52年/1977年、井上光晴が佐世保で「文学伝習所」を始める。

20201108

▼昭和49年/1974年、井上光晴、「文学伝習所」の構想を立ち上げる。

 うちのブログもようやく、小説教室と直木賞の縁が強まっていく時代に入りました。長かったです。ここから直木賞がどうカラんでいくのか。無性にわくわくします。しかし1970年代の小説教室ビッグバンにまつわる話題は多種多様です。もう少しこの時代のことに触れないと先に進めません。

 1970年代、昭和50年前後に現れた創作講座には、もうひとつ注目されたものがあります。「文学伝習所」です。

 昭和52年/1977年、ごぞんじ井上光晴さんが、長崎県佐世保の地でたったひとり講壇に立って始めたもので、以来平成4年/1992年5月に井上さんが亡くなるまで全国16か所にまで広がりました。創作をはじめ、文学のさまざまなことを教えて学ぶ学校です。

 ……などと気軽に説明しはじめたのはいいんですけど、少し迷いもあります。これを小説教室の仲間に入れていいんでしょうか。よくわかりませんが、井上さんが、のちに直木賞をとることになる荒野さんの父親なのも事実です。直木賞にとっても親近感のあるゴリゴリな文学者。直木賞とは薄い縁があると信じて、とりあえず取り上げてみます。

 昭和48年/1973年から昭和49年/1974年ごろ。『丸山蘭水楼の遊女たち』を書く準備のために、たびたび長崎に来ていた井上さんが、古くからの親友、河口憲三さんと酒を酌み交わしていたそうです。酔いもまわって、いろいろとハナシが飛び交ううちに、そうだ、佐世保に文学の学校をつくろうぜ、河口が財務と事務、井上が講師、よしこれで決まりだ、と夢が膨らみます。もちろん井上さんは夢で終わらせません。すぐさま二人で佐世保市長の辻一三さんに面会して、市有地2000坪を提供する確約をもらうと、竹内好、橋川文三、大江健三郎、佐多稲子、野間宏、埴谷雄高という錚々たるメンツに「設立委員会」に名前を貸してくれるよう交渉。井上さんが「文学伝習所趣意書」を書いたのは、昭和49年/1974年7月のことで、対外的にその設立を告知します。行動が素早いです。

 ところが、世のなかはカネ・カネ・カネが物をいいます。ちょうど石油ショックで日本経済も小休止。要は資金の調達が思うようにいかず、実現まで茨の道がつづきます。しかし、そこは「やる」と決めたらやる男、井上光晴のエラいところで、立派な施設や大層な講師陣がなくたって、おれが裸一貫、全身全霊をかけて受け持つところから始めてみようと、昭和52年/1977年8月1日、佐世保市内の商店街にあったビルの一室で第一期の開講にこぎつけます。募集定員30名のところ、全国から応募者が引きも切らず、一期生は55名になりました。

 ということで、文学伝習所の特徴をいうと、井上さんがほとんど思いつきのようにひらめいて、知人友人に声をかけて立ち上げた、そうとう個人的な色彩の濃い事業だった、ということになるでしょう。それはそれで「井上光晴ファンが集まるだけの、閉鎖的な空間じゃないか」とか「取り巻き連中が先生に気に入られようとして競い合う空気がイヤだ」とか、いろいろ批判を受けたりもしました。小説教室にはありがちな展開です。

 それまでにあった文学学校は、何だかんだ言って個人というより組織による試みです。文学学校のなかで「創設者」個人の存在が最も鮮明なのは、大阪の小野十三郎さんだと思いますけど、これとて小野さんひとりの理念や文学観よりも、彼を中心とした何人かが協力し合って、みんなの熱意をかたちにしたことが重要です。

 昭和49年/1974年には朝日カルチャーセンターが運営を開始。その後数年で、流行に乗じて生涯教育の機関を立ち上げた柳の下のドジョウたちがウジャウジャ。と、ここらになってくると、もう「組織」というより「ビジネス」です。すべてはお金を払ってくれるお客様のために……といいますか、会場をきれいに保ち、入会金も受講料もわかりやすく最初に掲示する明朗会計。やる気があれば誰でも受けられ、飽きたらさっさと辞めても後腐れのない、合理的で効率的でシステマティックな仕組み。おお、心地よい自由経済の世の中よ。といった感じがします。

 しかし、こういう風潮がどうにも気に食わない感性の人がいて、おかしくありません。文学を組織に組み込んで、いかにも体裁は文学のお勉強をやっているように見えるが、そんなものが文学と名乗れるのか!

 ……などと、井上さんが直接、文学学校やカルチャー教室を批判しているわけじゃありませんが、文学伝習所の設立に関する、井上さんのさまざまな発言を見ると、少なくともその源に、現状に対する問題意識があったことはたしかでしょう。

 たとえば設立趣意書には、文学の商業主義からの離脱が謳われています。

「他者の自由をよころび、不幸を感じとるところ。それこそ文学の根底における優しさでしょう。しかし文学もまた商業主義の頽廃と風化から免れてはおらず、如何に生くべきかという言葉より恥部のみをくすぐる読物におし流されているような現状です。文学とは何か。それは人生における真実とは何か、という問いにかさなり、また、人間のよりゆたかな自由への道を切りひらく方法ともいえます。

文学とは何か。その問いを手放さず、問うて問うて問いつくす場所。文学伝習所を創立する意味はまさにそこにおかれています。」(昭和52年/1977年10月・構想社刊、井上光晴・著『反随筆』所収「「文学伝習所」趣意書」より)

 1970年代は、商売のための小説がそれまで以上に隆盛した時代です。ということは、商売で小説を書く裾野が広がった、ということはプロ作家をどんどん見つけてこなきゃいけない、ということは小説を書くことを職業にしても後ろ指を差されなくなった、ということは小説教室の需要増大につながります。

 いや、これに抗おう、抗わせてくれ、と反発を持った作家のひとりが、井上さんです。文学伝習所は、そういう土壌のなかで生まれ、パッパラピーと浮かれゆく1980年代に突入していきます。どう考えても、苦難の道を歩むことしか想像できません。たったひとりでやりつづける孤独な闘い。がんばれ、光晴。

          ○

▼昭和54年/1979年以降、文学伝習所が全国各地に拡散していく。

 文学伝習所とカルチャー教室。果たしてどちらが、プロの作家をめざす人たちの役に立ったか。と言えば、断然、後者だろうと思います。

 文学伝習所でも小説の書き方を学べたそうです。「嘘つき」とか「血」などの題で創作実習の課題が出され、講評を受ける機会がふんだんに設けられます。井上さんもとにかくこの仕事は真剣でしたから、テーマの決め方、文章の書き方、登場人物の描き分け、会話文の重要さ、と何から何までと言っていいほど丹念に、我流の創作作法を語って語って、語り尽くします。あまりに井上さんが熱心すぎるので、「なぜ井上さんは、こんなに僕たちに創作上の秘密を洗いざらいぶちまけてしまうんですか」と生徒のなかから疑問が上がったそうです(脇川直彦「文学伝習所に参加して」)。

 たぶん文学の作品をつくるのは、何かの成果や結果ではないんでしょう。毎日の生活、実感、経験、そういったものが文学の礎だとすれば、この礎を日々磨いていく過程のひとつひとつが文学行動なのだと言えますし、創作の指導というのが人間の教育そのものに通じるのは、何となく理解できます。まあ、面倒くさいです。

 それでも私は文学に触れたい、創作を続けていきたい、という変り者はどんな時代にもいます。結果として文学伝習所が何か潮流を生んだり、お金や名誉に転換されたりすることはありませんでしたが、佐世保から小さく始まって昭和54年/1979年に前橋と山形に分校ができると、筑豊、佐賀、徳島、木曾、新潟、旭川、札幌、函館などなど、各地に拡散。井上さんはそれぞれの土地に足を運んで、講義を行い、小説をみんなで合評し、宴会となれば裸おどりのひとつも舞って場をわかせます。

 べつに作家を養成する目的があったわけじゃありません。『読売新聞』の文化部記者だった中田浩二さんの回想に、「つまるところ、表現とは生き方なのだ。自分の生き方を離れて、表現の技術だけが一人立ちして歩くわけではない」という言葉が紹介されていますが(『THIS IS 読売』平成7年/1995年3月号「文壇随想 素顔の作家たち―井上光晴―」)、その技術以前のところを大切にしたのが文学伝習所です。河口憲三さんの妻で、あんたが伝習所の一号生だと勝手に井上さんに決められた雅子さんも、こう証言しています。

「単なる創作教室じゃないんです。生き方や社会を根底から考え尽くす場でした。革命というか、せめて変革の狼煙(のろし)を辺境から上げたかったんでしょう」(『西日本新聞』平成19年/2007年1月4日「狼煙はあがらず 井上光晴文学伝習所の記録〈1〉」より ―署名:岩田直仁)

 こうなってくると、やっぱり小説教室の歴史のなかに、伝習所を置くのは無理があったかもしれません。

 しかし、大量消費型の商業に乗るにしろ、それに反発するにしろ、けっきょくこの時代にどちらも「創作を教えて学ぶ」場所をつくります。別の方向をむきながら、でも一面で共通の展開を見せた、というところが、1970年半ばの面白さでしょう。

 四の五の言っても始まらない。人に何かを伝えたいときには、直接、顔と顔を突き合せるのがいちばんだ。という発想が共有されていたところに、小説教室は発展の道を歩みはじめます。

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