昭和55年/1980年、直木賞を受賞した阿刀田高に、小説教室の仕事が持ち込まれる。

▼昭和55年/1980年、阿刀田高、直木賞受賞の翌年に「日経文化教室」の講師になる。
今週は珍しく直木賞の話題から行きます。
時代は第81回(昭和54年/1979年・上半期)の直後です。さんざん繰り返してきましたけど、このとき重兼芳子さんが芥川賞をとったことで、小説教室の文化に一気に注目と称賛と批判が集まりました。
しかも同じタイミングで直木賞を受賞した田中小実昌さんが、たまたま朝日カルチャーセンターの現代ギリシャ語講座を受講していたおかげで、70年代から火がついたカルチャーセンターの隆盛に、直木賞の話題もほんの少し乗っからせてもらった……というのも、すでに触れたとおりです。
しかし、第81回の直木賞はもうひとり受賞者がいます。小説教室に当たったスポットライトの余波は、田中さんよりもこちらの受賞者の方面に広がった、と言っていいでしょう。阿刀田高さんです。
阿刀田さんというと、何でしょうか。キッチリしていて不穏げな印象がなく、人あたりもよければ声もいい。……というのは別としても、あらゆる分野の本を読みあさる読書好きだったのは間違いありません。こういう人が、ほんの少しのヒラメキと小手先だけの文章技術を手にすれば、何か深みのありそうに見える短篇小説ぐらい書けそうだ、いかにも「小説の書き方」を上手に教えてくれそうな類いの作家だし、直木賞までもらってしまったんだからネームバリューも遜色ない……と思われたのかどうなのか、先生、ひとつ流行りの小説教室で講師でもやっていただけませんか、と日本経済新聞社に頼まれて、阿刀田さんは創作の先生になってしまいます。直木賞をとった翌年、昭和55年/1980年4月のことです。
日経が「伊勢丹友の会クローバーサークル」と称する、いわゆる百貨店の会員組織と連携して、新宿の伊勢丹会館で「日経文化教室」というものを始めます。そのなかのひとつとして阿刀田さんが担当したのが「小説の作法と手法」。受講料は3か月計10回でおひとり1万5000円ナリ。直木賞をとったばかりの話題の受賞者から直接手ほどきが受けられる出血大サービスだ。ということでおそらく好評を博し、阿刀田さんも忙しい時期にせっせと講義を務め、4年ほどつづいたそうです。
そもそも阿刀田さん自身、自分の小説づくりはアイデア探しから始まるんだとか、最初に小説を書こうと思ったとき、是が非でも訴えたいモチーフがなく、モチーフなしでも謎とその解明で成立するミステリーを選んだんだとか、そういうことをサラッと言う方です。後年『アイデアを捜せ』(平成8年/1996年3月・文藝春秋刊)という小説作法のような本も出していますが、文学好きが使うような小難しい理論を語らず、アイデアの発想とその肉付けの課程を説明することに徹しています。何より阿刀田さんが好んで使う「(小説)工房」という言葉からして、技術で小説をこしらえている感じが漂っています。
と、それが意図的なのかどうかはわかりませんが、阿刀田さんは魂の作家というより技巧の作家なのはたしかでしょう。「小説の書き方を教える」。いかにも無理スジのような日経からの依頼を、けっきょく引き受けることになったとき、自身ではこのように納得したようです。
「もちろん、小説の書き方は、書く当人が自分で努力して会得するものだ。私もそう思う。知識の累積を割って崩して伝授する場合とは異るから、教えられない部分がたしかにあるだろう。しかし、そんなことを言うならば、絵画だって音楽だってスポーツだって、みんなそれはある。教えられない部分もあるが、教えられる部分もある、というのが妥当なところだろう。せめてその教えられる部分についてだけでも教える場があってもいいのではないか。さらに教えられない部分が歴として存在していることを教えることだって小説教室の一つの機能ではなかろうか。あまり小賢しいことを考えるのも面倒になり、私はこの仕事をお引受けした。」(『別冊文藝春秋』158号[昭和57年/1982年1月] 阿刀田高「小説学教授法」より)
開講は毎週月曜の真っ昼間。となると、やはり受講生は主婦か退職後のひまな老人が多く、ここから世に出た作家をあまり見かけたことがありません。ただ、昭和57年/1982年下期に第61回オール讀物新人賞を受けた竹田真砂子さんは、日経の阿刀田教室で学んだ人らしいです。その後もプロ作家として長く書き続けているこういう人を、ひとりでも出せれば十分でしょう。
どうして阿刀田さんに依頼しようと思ったのか。日経側からの証言をまだ発見できていないので、事情はわかりませんが、作家の仕事のひとつに創作指導というものがある、と社会に認識されたのも1980年代に訪れたダイナミックな変化でした。やがて「一生食っていこうと思うなら、作家をめざすな、作家養成の講師をめざせ」と冗談まじりに言われるまでになったのは、ご存じのとおりです。
さかのぼって1930年代、昭和のはじめに文化学院、明治大、日大芸術科で創作教育が取り入れられたときにも、そこにお金のやりとりが生まれました。菊池寛さんは文化学院の文学部長に就きますが、小説を教えて学べる環境を整えれば多くの作家に収入の道を確保できるぞ、という肚もあったでしょう。けっきょく菊池さんの文芸教育は大してうまくいかず、「アイデアはいいけど誰かの助けがないと継続できない」という菊池さんの特徴が、もろに露わになります。それが時を経て、大学ではなく企業のカルチャーセンターが勢いをもったことで、いよいよできあがったのが、創作指導で小説家にお金が入る、という仕組みです。文筆業者にとっては大きくダイナミックな変化だった、と言っていいでしょう。
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▼昭和56年/1981年、主婦たち、そしてプロ作家を目指す受講生が小説教室を支える。
1980年の前後で、小説教室は急速に増大します。この時期の小説教室の特徴を挙げると、とにかく「主婦たちのもの」という印象があったことです。
いかにもジャーナリズムの飛びつきそうな画一的な見方ですが、実態として平日の昼間に開催されるものが多く、定職をもたずに家にいる主婦層が、生徒の半数以上を占めたことは間違いありません。授業と合わせて、終わったあとには懇親会が開かれるのがお決まりで、そういう場面では講師に酒をそそぎながら愚痴をこぼし、ときには色目を使う主婦たち、こんなの新手のホストクラブじゃねえか、とか、男の講師にとってはチヤホヤしてくれる女性に囲まれてお金ももらえる、天国みたいなキャバクラですね、とか、いろんな茶々が入ります。これぞ週刊誌の王道、ゲス・オブ・ザ・ゲスな記事が跋扈します。
阿刀田さんも週刊誌で取り上げられたことがあります。『週刊文春』昭和58年/1983年11月17日号のイーデス・ハンソンさんとの対談で、日経文化教室のハナシが交わされましたが、さすがは穏当で無難な阿刀田高の面目躍如といった感じで、刺激的な発言は見られません。むしろ、こういうものは一般読者に対する書き手からの利益還元でもある、日本の小説界はそういう純粋で熱烈な読者たちに支えられてきたことを改めて感じたほうがいい、といまひとつの小説教室の意義を語っています。たしかにそのとおりかもしれません。「限られたものたちだけの文芸」というイメージを壊していくのが、1970年代からの文芸界のトレンドです。
いっぽうでカルチャーセンターを主婦たちの「井戸端会議」に見立てたのが『週刊朝日』です。昭和56年/1981年9月4日号では〈西〉の署名をもつライターが、朝日カルチャーセンターと西武百貨店の西武コミュニティー・カレッジを取材し、どんな人たちがどんな思いで習いに来ているのかをまとめました。
西武のコミカレというと、朝日に続けそして追い越せ、とばかりに創作講座では俄かに存在感を増していた百貨店系カルチャーセンターの雄です。また後日くわしく取り上げる機会もあると思いますが、他の陶芸、ヨガダンス、創作絵本、料理教室などと並んで、人気の講座として挙げられたのが小説の創作。朝日も西武も定員満杯で、ほとんどのクラスは新規の募集をしていないほどだ、と紹介されます。
取材を受けたのは、西武で「エンタテインメント作法」講座を教えていた都筑道夫さんです。ブームに乗って入ってきたような、あまり真剣味のない受講生も多いんですよ、まったく困ったもんでねえ……と、記事ではそんな切り口でのコメントが採用されていますが、受講者のうち「三分の一がプロを目指す“本格派”だそうだ」という貴重な情報も添えられています。
この『週刊朝日』の記事は、殿方よ、こんな主婦たちが跋扈していて、ね、辟易するでしょ、というテイストで書かれているので、週刊誌特有のゲスさから逸脱することはできず、プロを目指す本格派のほうは深く注目されていません。残念です。80年代、小説教室が一気に市民権を得たのは、主婦たちのおかげなのは言うまでもありませんが、同時に、一般には馬鹿にされがちな「小説の書き方を学ぶ」機会を得て、果敢に足を踏み出すプロ作家志望者がたくさんいました。彼らこそが小説教室の文化を広げる原動力になったことは、やはり書き落とすわけにはいかないでしょう。
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