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2020年11月の5件の記事

2020年11月29日 (日)

昭和61年/1986年、エンタメ系小説教室出身のヒロイン、宮部みゆきが世に出る。

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▼昭和61年/1986年、山村教室一期生の宮部みゆき、オール讀物推理小説新人賞を受賞する。

 先週につづいて講談社フェーマススクールズ(FS)のハナシです。

 昭和59年/1984年、山村正夫さんの「エンタテインメント小説作法」講座が始まりました。このころ、出版界では盛んに「文芸不振」と言われていた……というのは、何週かまえに高橋昌男さんの言葉で確認しましたが、落ち目と見られていたのは純文学ばかりではありません。1950年代以降、隆盛を誇って我が世の春だった中間小説の雑誌も、80年代には早くも下降線をたどりはじめます。短い天下でした。

 いっぽうで出版界全体では、浮き沈みを繰り返しながら市場規模が拡大していきます。1980年代なかば、いっときの「不況」を抜け出すと、そらきた雑誌を出せ、本を出せと、手当たり次第に素材を見つけてきては、印刷に乗せて世間に放っていた時代。なかでも世間の関心を呼ぶのは、芸能人やその周辺のことだ、ということで有象無象のタレント本がわんさか量産されたことを、歴史上の汚点とみるか快挙とみるか。それは人それぞれでしょうけど、事実としてはそういうことです。

 対して、まじめで堅い本が売れたのも、やはりこのころの特徴だったと言われます。その一端が「ニューアカ・ブーム」というものですけど、要するに硬軟おりまぜて、さまざまな種類の本が出て、いまより出版界が潤った時代です。当時の日本人たちが読書好きだったから、というよりも、日本の景気に上昇傾向があったことが、理由の大半かもしれません。

 社会の状況が変われば、当然、文学をとりまく環境も変わります。ここで急激に力を持ったのが小説教室です。そして文学賞です。

 新しい小説誌が創刊されるとなれば、原稿募集の文学賞ができる。実業のほうで儲かった大企業が、文化的な事業にも手を伸ばして、新しい文学賞の後援につく。文学修業を何十年もやっているような社会不適合者じゃなくても、主婦が、芸能人が、小説を書いたら直木賞でも芥川賞でもとれちゃうようになる。ブンガクは限られた人間だけが生み出すものではない、あなたにも才能が眠っているかもしれませんよ、一発当たれば夢の印税生活がすぐそこに……という浅ましいコピーに釣られた人も、多少はいたかもしれません。ともかく市場には一般向けのワープロが売り出され、わたしも小説を書いてみようか、という環境がぐっと身近なものになりました。

 そこから生まれた代表的なヒロインが、宮部みゆきという作家だった。

 ……と言い切ると語弊があるので、やめときますけど、昭和59年/1984年、法律事務所に勤める事務のOLさんが小説教室に通って才能を開花させ、新人賞をとり、本を出し、あれよあれよと人気作家になって、10数年たった平成11年/1999年には、38歳で第120回(平成10年/1998年・下半期)直木賞を受賞。プロの作家としてコンスタントに売れる小説を書き続け、さらに10年後の第140回(平成20年/2008年・下半期)からは、48歳の若さ(?)で直木賞の選考委員に就く。という、はたから見ても恐ろしいぐらいのサクセスな歩みを見せます。

 小説教室と直木賞との関係性の歴史は、けっきょく宮部みゆき一人を生み出したことに尽きるのではないか。と言ってもよく、ここから先、宮部さんのハナシだけすれば事足りるかもしれません。だけど一人の作家にのめり込むガラではないので、ここでは簡単に、当時の講談社FSのことを取り上げるにとどめます。

 『宮部みゆき全一冊』(平成30年/2018年10月・新潮社刊)には本人への長いインタビューが載っていますが、デビューにいたるまでのことも出てきます。講談社FSの「エンタテインメント小説作法」講座は、主任講師が山村正夫さん。ほかにゲスト講師として多岐川恭さんや南原幹雄さんもいたそうです。宮部さんは昭和59年/1984年から1年半通ったけど、受講料が高くて教室には通えなくなった、と言っています。

「――フェーマススクールズには、結局何年ぐらい?

宮部 一年と半年でやめました。月謝が続かなくなっちゃったんです(笑)。毎月一万円と、それとは別に作品を提出する時に印刷代がかかるんですよ。これが意外と高くてね。」(『宮部みゆき全一冊』所収「宮部みゆき作家生活30周年記念超ロングインタビュー 立ち止まって振り返る30年の道のり」より)

 受講しなくなった、と言ってもこのころすでに、講座のなかでも光る存在だったんだろう、とは推測できます。その先に「当時お世話になっていた」人として講談社の編集者・林雄造さんの名前が出てくるのを見ても、新しい書き手として業界人から目を付けられていたんでしょう。何といってもデビュー前から文芸編集者の世話になれる、というのが、講談社FSのいちばんの特長です。

 ちなみに当時の宮部さんのキラめきぶりは、教室のなかでも伝説になったようで、後輩にあたる久保田滋さんも語っています。「弁護士事務所の事務員だった宮部みゆきが受講生の頃は、とにかく着想がユニークで、『この子はどこかが違う』と講師全員が驚いたそうです」(『ダカーポ』平成15年/2003年9月17日号「文壇デビューをめざせ!1か月で小説をモノにする 書き方を実践的に学べる教室で、切磋琢磨する」より)……なんだそうです。

 在学中から小説教室の仲間たちと新人賞に投稿しはじめますが、宮部さんが最終候補に残り出すのが、FSをやめて1年ほど経った昭和61年/1986年から。オール讀物推理小説新人賞と歴史文学賞(佳作)に選ばれるのは、その翌年のことです。順風満帆というか、バツグンな経緯すぎて、呆然とするしかないですけど、ワープロとFSの教室がなければ、宮部さんが専業作家になることもなかった(はず)、と考えると、プロの書き手になりたいと思う人たちが集まる場所、しかも一般の人も気軽に参加できる教室が、1980年なかばに現れたことは、小説教室の歴史にとって大きかったのは間違いありません。

 残念ながら大局的に見ると、1980年代から2020年にいたるまでの文芸出版の歴史は、徐々に規模は縮小、書きたいやつばっかりいて読みたいやつがいない、お先真っ暗な業界、という経緯をたどってしまいます。それでも小説を書くことが職業になるという事実は、いまもまだ変わりません。1980年代。ちょっと遅かったかもしれませんけど、しっかりプロ作家養成機関のかたちを生み出せたのは、講談社FSの大きな功績です。

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2020年11月22日 (日)

昭和55年/1980年、講談社フェーマススクールズ美術学院に「小説作法入門」の講座ができる。

20201122

▼昭和55年/1980年、伊藤桂一、講談社フェーマススクールズで小説作法の講師になる。

 朝日カルチャーも池袋コミカレも、現在まだ残っています。しかしバブル前夜に登場した「三大小説教室」のもうひとつ、講談社フェーマススクールズの小説教室はもはや、この世にありません。

 とくに、ここで5年間「エンタテインメント小説作法」の講座を受け持ち、新人賞をとる作家やプロになる作家をぞくぞくと生み出して、大衆文芸・エンタメ小説に関わる創作指導の歴史に燦然と名を残したのが、山村正夫さんです。フェーマススクールズが閉鎖されたあと、私塾として教室をつづけ、自身が亡くなったあとには、この貴重な灯を消してはなるものかと親交の厚かった森村誠一さんが引き継いで、現在にいたります。

 この講座からはわんさか作家がデビューした、ということもあって、不肖・直木賞もまったく無縁ではいられなくなりました。もはや伝説となった感もある80年代の山村教室について、やはりうちのブログでもおさらいしておこうと思います。

 まずそもそも、講談社フェーマススクールズとは何なのか。というハナシから始めますけど、べつに小説講座のために生まれた会社ではありません。発足の過程は他のカルチャースクールとも違っていて、さかのぼって昭和43年/1968年9月。アメリカの企業「フェーマススクールズ(FS)社」と、日本の出版社「講談社」が技術提携するかたちで、講談社フェーマススクールズが設立されます。

 FS社がアメリカでつくられたのは昭和23年/1948年です。業務の中心は、美術教育を通信制で提供する、というもの。アメリカという国は国土が広く、郵便・配送・物流といった手法を使って、ビジネス相手となる人にモノを届けて商売にする、という発想が伝統的に盛んでした。たとえば雑誌などでも発行のたびに書店で買ってもらうのではなく、定期購読で流通させるのが一般的だとか、カタログで欲しいものを選んでもらう通信販売が古くから当たり前だったとか、そんな巷説も聞いたことがあります。ほんとうかどうかはわかりませんが、あり得そうなハナシです。

 日本の場合、その分野で大規模なビジネスを展開するには、消費者の意識が付いていけていませんでしたが、いっぽうで、ときの講談社社長、野間省一さんはつねづね問題意識を抱えていたそうです。日本でも徐々に雑誌や広告のなかでの、アートの重要性が認識されはじめている。その割にこれを担う人材がうまく育成できているかというと、まだまだ十分とはいえない。美術的なモノを生み出す能力が、きっと日本人のなかにも眠っているだろう。ここはひとつ、アメリカで誕生し、世界各国に展開しているFS社のノウハウを採り入れて、日本でも通信制の美術教育を立ち上げ、全国から腕のあるデザイナーや、グラフィックアートの世界で活躍できる人を発掘し、育てていこうではないか!

 ということで、講談社FSでは、コマーシャルアート・コース、ペインティング・コースを設け、入学希望者には「適性テスト」なるものを受けてもらい、その合格者のみが15万円ナリの受講料を払うことで、一流の通信制美術教育を受けられる、という事業を始めます。

 このビジネスがうまく行ったからか、はたまた通信制だけだと限界があるよねと反省したからか、その経緯はわかりませんけど、昭和50年/1975年7月にいたって同社は通学制の教育にも参入します。場所は四ツ谷駅から歩いてすぐ、新宿区本塩町の「祥平館ビル」。看板には「講談社フェーマススクールズ美術学院」と掲げられました。

 これまで展開してきた通信制では手の届かない部分を通学制で実現する、というのが同学院のいちおうの主旨ですから、開かれた講座は従来の内容に沿って、グラフィックなアートに通ずる絵画や美術などだけです。すでにそのころ、一般にはカルチャースクールが隆盛の途上にあり、時間のある人が家からお出かけしてどこかに何かを学びに行く、という感覚が市民レベルで広がりを見せていましたが、講談社FSの美術学院は、カルチャーセンターの一種というより、プロになることを目指した美術教育に主眼が置かれていました。どちらかというと専門学校に近かったかもしれません。

 ところが、そうこうするあいだに、カルチャーセンターのほうから次々に小説の書き手が出はじめます。小説教室ビッグバンの、重兼芳子芥川賞受賞が、昭和54年/1979年7月のこと。講談社まわりもウカウカしていられません。

 そうか。うちの学校は「美術学院」だけど、講談社の手も入っているんだから、文芸の教室をやってもいいじゃないか。……と思いついた人が偉かったんだと思います。あくまで同校の「実践に役立つ」という特徴を生かしながら、講談社文芸局の第一線で働く編集者たちの協力を得て、「小説作法入門」を開講したのが昭和55年/1980年4月。主任講師として作家の伊藤桂一さん、文芸評論家の武蔵野次郎さんなどにお願いしました。

 「小説作法入門」というのは、系統としては朝日カルチャーの駒田信二さんや久保田正文さんの教室に近く、要は純文芸が念頭に置かれています。その後、講師として参加した澤野久雄さん、進藤純孝さん、八木義徳さん、秋山駿さん、入江隆則さんなどの顔ぶれを見ても、芸術性のある文芸を書きたい人のためのクラスだった、といえばそうなんでしょう。ただ、一様に割り切って考えてはいけないな、と思わされるのは、講師が伊藤桂一さんだったからです。直木賞の受賞者です。

 こういうところに「直木賞はエンタメ小説の文学賞だ」と胸を張って主張できない、直木賞の気持ち悪さが現われているわけですけど、じっさい伊藤教室には、純文芸で行きたいゴリゴリの文学亡者だけじゃなく、時代小説を書きたいとか、エンタメ分野で名を挙げたいと野心をもつ人たちも、けっこう通っていたらしいです。純文芸かどうかは、どうでもいいかもしれません。

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2020年11月15日 (日)

昭和54年/1979年、池袋コミュニティ・カレッジがオープン、都筑道夫の小説作法も開講する。

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▼昭和54年/1979年、池袋の西武百貨店に池袋コミュニティ・カレッジが設立される。

 創作教室が注目されだした1980年前後。いろんな企業が講座をつくりました。すぐに終わったものもあれば長命を保ったものもあります。当然、人気や実績も一様ではなく、それぞれバラツキが出てくるわけですが、とくに花形と目されたのが、下記の「三大小説教室」です。

 ブームの発端となった朝日カルチャーセンター。それと、池袋コミュニティ・カレッジ、講談社フェーマススクールズです。

 ……すみません、「三大うんぬん」と呼ばれていたのがほんとうなのか、確たる証拠もないんですけど、とりあえずひんぱんにメディアに取り上げられ、プロ作家になった出身者も多く、80年代以降の隆昌を支えたという観点で見ると、やはりこの三つは無視できないでしょう。

 朝日カルチャーについては、すでに何週か取り上げました。いわゆる「新聞社・マスコミ系」のひとつです。母体の企業は、古くからいかにも文化に強そうなことを手がけてきたイメージがあり、また宣伝力は爆発的なものを持っています。

 対して、土地や地域という空間的な面からの集客をもくろんだのが「百貨店・鉄道系」と言われる諸企業です。そして、その代表格が西武百貨店に生まれた池袋コミュニティ・カレッジだ、ということになります。

 ごぞんじ、賛否両論、毀誉褒貶、兄弟喧嘩とともにあった西武グループ。「1970年代の日本のカルチャー現象をひとつ語れ」と問われた日本人の、10人中4~5人はおそらく「セゾン文化」を選ぶでしょう。

 いや。2~3人かもしれません。人数はどうでもいいです。ともかく昭和48年/1973年、渋谷パルコの開店に伴って西武劇場(パルコ劇場)を開館させ、昭和50年/1975年には西武池袋店に西武美術館、書店「リブロ」、アート専門書・レコード店「アール・ヴィヴァン」を開業させたときにグループのトップにいたのが、「詩人経営者」でおなじみ、堤清二=辻井喬さんです。その堤さんが次々と手がけた事業のひとつにあったのが、ターミナル駅のそばにカルチャー教室を設けることでした。

 ということで、所沢から池袋に至る埼玉県西域に住まいをもつ老若男女の、うちに秘めた学習意欲をごっそりと掘り起こして収益に転化できたらいいなと、池袋にコミュニティ・カレッジをつくります。開講したのが昭和54年/1979年。朝日カルチャーセンターの始まりが昭和49年/1974年4月ですから、それから5年ほど遅れてのスタートです。

 そもそも小説教室のことだけで大規模カルチャースクールを語るのは無謀だと思います。おそらく西武のコミカレも、もっと広い視点でとらえないといけないんでしょう。そこからどんな人材が育ったか。その観点だけ見ても、かならずしも受講生だけが出身者とは言えません。一時期、コミカレで企画を担当する「中の人」として働き、のちに物書きとして羽ばたいた人に保坂和志さんや岡本敬三さんがいるそうですし(平成22年/2010年9月・朝日新聞出版刊、永江朗・著『セゾン文化は何を夢みた』)、池袋駅近辺の美術館、書店、レコードショップ、その他もろもろの拠点が線となり面となって、そこで働く人や利用する人やただ通り過ぎるだけの人のなかから、有象無象の作家が生まれます。

 要するに、目には見えなくても、場所や建物のたたずまい、地域一帯の全部で他との違いが出るのが「文化」というものだ。と言い出したらそうかもしれません。池袋コミカレにしても、多少はセゾンの色が強みになったことと思います。

 ただ、小説教室に限っていえば、同校にだけ何か特色があったわけではなさそうです。力のある人がたまたま広告か何かで知って入学してくれたおかげで、新人賞をとって世に出る受講生が現われた、という幸運の女神が付いていたことが、特色といえば特色でしょう。たとえば純文芸の実作は、林富士馬さんと尾高修也さんのクラスがありましたが、とくに尾高さんの「小説の作法」講座はバツグンに運に恵まれ、1980年半ばには早くも世間に知られる存在になります。

 というのも、朝日カルチャーの駒田教室から生まれた『まくた』や『蜂』、久保田教室の『よんかい』などと並んで、尾高クラスからは同人誌『こみゅにてぃ』が誕生。そこから芥川賞候補に選ばれた飛鳥ゆうさんと、芥川賞候補三度の(さらには朝日新人文学賞を受賞した)魚住陽子さん、という二大巨頭が出てしまい、「小説教室に通いながら同人誌に参加して世に出る」というコースが当り前のものと見なされる状況を、はっきり確定させたわけです。いや、おれは見なしていないぞ、と反論する人がいるかもしれません。すみません。

 ともかく、ここでも小説教室と文学賞との関係性が、両者それぞれの注目度を高めたことは間違いない、と言っておきたいと思います。小説教室あるところ、かならず文学賞の影がある。……ああ、何と美しい共存関係でしょうか。思わず目頭が熱くなります。

 古く明治から勃興した懸賞小説、時を経て文学新人賞と呼ばれるようになった制度があります。いまは冴えないわたしだけど、受賞してまわりからスゴイねと見直されたい。あわよくばそのまま作家になっちゃいたい。だけど自分にそんな才能があるかどうかがわからないし、人生かけて文学修業するのは、非効率でアホらしい。お金を出して小説教室に通う、という文学賞への近道ができたんだから、それを利用したっていいじゃないのさ。……という発想は、もしかしたら馬鹿にする人もいそうですけど、けっきょく本人が本気で努力しなきゃいけない点では、従来の文学修業とあまり変わりません。

 入口は、オシャレで活気のある百貨店のカルチャー教室。だけど、先へ先へと進んでいけば、蛇も出てくりゃ鬼もいて、最終的には苦難の道が待っている。と考えれば、80年代につぎつぎと敷居の低い入口ができたことを批判する気にはなれません。

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2020年11月 8日 (日)

昭和52年/1977年、井上光晴が佐世保で「文学伝習所」を始める。

20201108

▼昭和49年/1974年、井上光晴、「文学伝習所」の構想を立ち上げる。

 うちのブログもようやく、小説教室と直木賞の縁が強まっていく時代に入りました。長かったです。ここから直木賞がどうカラんでいくのか。無性にわくわくします。しかし1970年代の小説教室ビッグバンにまつわる話題は多種多様です。もう少しこの時代のことに触れないと先に進めません。

 1970年代、昭和50年前後に現れた創作講座には、もうひとつ注目されたものがあります。「文学伝習所」です。

 昭和52年/1977年、ごぞんじ井上光晴さんが、長崎県佐世保の地でたったひとり講壇に立って始めたもので、以来平成4年/1992年5月に井上さんが亡くなるまで全国16か所にまで広がりました。創作をはじめ、文学のさまざまなことを教えて学ぶ学校です。

 ……などと気軽に説明しはじめたのはいいんですけど、少し迷いもあります。これを小説教室の仲間に入れていいんでしょうか。よくわかりませんが、井上さんが、のちに直木賞をとることになる荒野さんの父親なのも事実です。直木賞にとっても親近感のあるゴリゴリな文学者。直木賞とは薄い縁があると信じて、とりあえず取り上げてみます。

 昭和48年/1973年から昭和49年/1974年ごろ。『丸山蘭水楼の遊女たち』を書く準備のために、たびたび長崎に来ていた井上さんが、古くからの親友、河口憲三さんと酒を酌み交わしていたそうです。酔いもまわって、いろいろとハナシが飛び交ううちに、そうだ、佐世保に文学の学校をつくろうぜ、河口が財務と事務、井上が講師、よしこれで決まりだ、と夢が膨らみます。もちろん井上さんは夢で終わらせません。すぐさま二人で佐世保市長の辻一三さんに面会して、市有地2000坪を提供する確約をもらうと、竹内好、橋川文三、大江健三郎、佐多稲子、野間宏、埴谷雄高という錚々たるメンツに「設立委員会」に名前を貸してくれるよう交渉。井上さんが「文学伝習所趣意書」を書いたのは、昭和49年/1974年7月のことで、対外的にその設立を告知します。行動が素早いです。

 ところが、世のなかはカネ・カネ・カネが物をいいます。ちょうど石油ショックで日本経済も小休止。要は資金の調達が思うようにいかず、実現まで茨の道がつづきます。しかし、そこは「やる」と決めたらやる男、井上光晴のエラいところで、立派な施設や大層な講師陣がなくたって、おれが裸一貫、全身全霊をかけて受け持つところから始めてみようと、昭和52年/1977年8月1日、佐世保市内の商店街にあったビルの一室で第一期の開講にこぎつけます。募集定員30名のところ、全国から応募者が引きも切らず、一期生は55名になりました。

 ということで、文学伝習所の特徴をいうと、井上さんがほとんど思いつきのようにひらめいて、知人友人に声をかけて立ち上げた、そうとう個人的な色彩の濃い事業だった、ということになるでしょう。それはそれで「井上光晴ファンが集まるだけの、閉鎖的な空間じゃないか」とか「取り巻き連中が先生に気に入られようとして競い合う空気がイヤだ」とか、いろいろ批判を受けたりもしました。小説教室にはありがちな展開です。

 それまでにあった文学学校は、何だかんだ言って個人というより組織による試みです。文学学校のなかで「創設者」個人の存在が最も鮮明なのは、大阪の小野十三郎さんだと思いますけど、これとて小野さんひとりの理念や文学観よりも、彼を中心とした何人かが協力し合って、みんなの熱意をかたちにしたことが重要です。

 昭和49年/1974年には朝日カルチャーセンターが運営を開始。その後数年で、流行に乗じて生涯教育の機関を立ち上げた柳の下のドジョウたちがウジャウジャ。と、ここらになってくると、もう「組織」というより「ビジネス」です。すべてはお金を払ってくれるお客様のために……といいますか、会場をきれいに保ち、入会金も受講料もわかりやすく最初に掲示する明朗会計。やる気があれば誰でも受けられ、飽きたらさっさと辞めても後腐れのない、合理的で効率的でシステマティックな仕組み。おお、心地よい自由経済の世の中よ。といった感じがします。

 しかし、こういう風潮がどうにも気に食わない感性の人がいて、おかしくありません。文学を組織に組み込んで、いかにも体裁は文学のお勉強をやっているように見えるが、そんなものが文学と名乗れるのか!

 ……などと、井上さんが直接、文学学校やカルチャー教室を批判しているわけじゃありませんが、文学伝習所の設立に関する、井上さんのさまざまな発言を見ると、少なくともその源に、現状に対する問題意識があったことはたしかでしょう。

 たとえば設立趣意書には、文学の商業主義からの離脱が謳われています。

「他者の自由をよころび、不幸を感じとるところ。それこそ文学の根底における優しさでしょう。しかし文学もまた商業主義の頽廃と風化から免れてはおらず、如何に生くべきかという言葉より恥部のみをくすぐる読物におし流されているような現状です。文学とは何か。それは人生における真実とは何か、という問いにかさなり、また、人間のよりゆたかな自由への道を切りひらく方法ともいえます。

文学とは何か。その問いを手放さず、問うて問うて問いつくす場所。文学伝習所を創立する意味はまさにそこにおかれています。」(昭和52年/1977年10月・構想社刊、井上光晴・著『反随筆』所収「「文学伝習所」趣意書」より)

 1970年代は、商売のための小説がそれまで以上に隆盛した時代です。ということは、商売で小説を書く裾野が広がった、ということはプロ作家をどんどん見つけてこなきゃいけない、ということは小説を書くことを職業にしても後ろ指を差されなくなった、ということは小説教室の需要増大につながります。

 いや、これに抗おう、抗わせてくれ、と反発を持った作家のひとりが、井上さんです。文学伝習所は、そういう土壌のなかで生まれ、パッパラピーと浮かれゆく1980年代に突入していきます。どう考えても、苦難の道を歩むことしか想像できません。たったひとりでやりつづける孤独な闘い。がんばれ、光晴。

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2020年11月 1日 (日)

昭和55年/1980年、直木賞を受賞した阿刀田高に、小説教室の仕事が持ち込まれる。

20201101

▼昭和55年/1980年、阿刀田高、直木賞受賞の翌年に「日経文化教室」の講師になる。

 今週は珍しく直木賞の話題から行きます。

 時代は第81回(昭和54年/1979年・上半期)の直後です。さんざん繰り返してきましたけど、このとき重兼芳子さんが芥川賞をとったことで、小説教室の文化に一気に注目と称賛と批判が集まりました。

 しかも同じタイミングで直木賞を受賞した田中小実昌さんが、たまたま朝日カルチャーセンターの現代ギリシャ語講座を受講していたおかげで、70年代から火がついたカルチャーセンターの隆盛に、直木賞の話題もほんの少し乗っからせてもらった……というのも、すでに触れたとおりです。

 しかし、第81回の直木賞はもうひとり受賞者がいます。小説教室に当たったスポットライトの余波は、田中さんよりもこちらの受賞者の方面に広がった、と言っていいでしょう。阿刀田高さんです。

 阿刀田さんというと、何でしょうか。キッチリしていて不穏げな印象がなく、人あたりもよければ声もいい。……というのは別としても、あらゆる分野の本を読みあさる読書好きだったのは間違いありません。こういう人が、ほんの少しのヒラメキと小手先だけの文章技術を手にすれば、何か深みのありそうに見える短篇小説ぐらい書けそうだ、いかにも「小説の書き方」を上手に教えてくれそうな類いの作家だし、直木賞までもらってしまったんだからネームバリューも遜色ない……と思われたのかどうなのか、先生、ひとつ流行りの小説教室で講師でもやっていただけませんか、と日本経済新聞社に頼まれて、阿刀田さんは創作の先生になってしまいます。直木賞をとった翌年、昭和55年/1980年4月のことです。

 日経が「伊勢丹友の会クローバーサークル」と称する、いわゆる百貨店の会員組織と連携して、新宿の伊勢丹会館で「日経文化教室」というものを始めます。そのなかのひとつとして阿刀田さんが担当したのが「小説の作法と手法」。受講料は3か月計10回でおひとり1万5000円ナリ。直木賞をとったばかりの話題の受賞者から直接手ほどきが受けられる出血大サービスだ。ということでおそらく好評を博し、阿刀田さんも忙しい時期にせっせと講義を務め、4年ほどつづいたそうです。

 そもそも阿刀田さん自身、自分の小説づくりはアイデア探しから始まるんだとか、最初に小説を書こうと思ったとき、是が非でも訴えたいモチーフがなく、モチーフなしでも謎とその解明で成立するミステリーを選んだんだとか、そういうことをサラッと言う方です。後年『アイデアを捜せ』(平成8年/1996年3月・文藝春秋刊)という小説作法のような本も出していますが、文学好きが使うような小難しい理論を語らず、アイデアの発想とその肉付けの課程を説明することに徹しています。何より阿刀田さんが好んで使う「(小説)工房」という言葉からして、技術で小説をこしらえている感じが漂っています。

 と、それが意図的なのかどうかはわかりませんが、阿刀田さんは魂の作家というより技巧の作家なのはたしかでしょう。「小説の書き方を教える」。いかにも無理スジのような日経からの依頼を、けっきょく引き受けることになったとき、自身ではこのように納得したようです。

「もちろん、小説の書き方は、書く当人が自分で努力して会得するものだ。私もそう思う。知識の累積を割って崩して伝授する場合とは異るから、教えられない部分がたしかにあるだろう。しかし、そんなことを言うならば、絵画だって音楽だってスポーツだって、みんなそれはある。教えられない部分もあるが、教えられる部分もある、というのが妥当なところだろう。せめてその教えられる部分についてだけでも教える場があってもいいのではないか。さらに教えられない部分が歴として存在していることを教えることだって小説教室の一つの機能ではなかろうか。あまり小賢しいことを考えるのも面倒になり、私はこの仕事をお引受けした。」(『別冊文藝春秋』158号[昭和57年/1982年1月] 阿刀田高「小説学教授法」より)

 開講は毎週月曜の真っ昼間。となると、やはり受講生は主婦か退職後のひまな老人が多く、ここから世に出た作家をあまり見かけたことがありません。ただ、昭和57年/1982年下期に第61回オール讀物新人賞を受けた竹田真砂子さんは、日経の阿刀田教室で学んだ人らしいです。その後もプロ作家として長く書き続けているこういう人を、ひとりでも出せれば十分でしょう。

 どうして阿刀田さんに依頼しようと思ったのか。日経側からの証言をまだ発見できていないので、事情はわかりませんが、作家の仕事のひとつに創作指導というものがある、と社会に認識されたのも1980年代に訪れたダイナミックな変化でした。やがて「一生食っていこうと思うなら、作家をめざすな、作家養成の講師をめざせ」と冗談まじりに言われるまでになったのは、ご存じのとおりです。

 さかのぼって1930年代、昭和のはじめに文化学院、明治大、日大芸術科で創作教育が取り入れられたときにも、そこにお金のやりとりが生まれました。菊池寛さんは文化学院の文学部長に就きますが、小説を教えて学べる環境を整えれば多くの作家に収入の道を確保できるぞ、という肚もあったでしょう。けっきょく菊池さんの文芸教育は大してうまくいかず、「アイデアはいいけど誰かの助けがないと継続できない」という菊池さんの特徴が、もろに露わになります。それが時を経て、大学ではなく企業のカルチャーセンターが勢いをもったことで、いよいよできあがったのが、創作指導で小説家にお金が入る、という仕組みです。文筆業者にとっては大きくダイナミックな変化だった、と言っていいでしょう。

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