« 昭和40年/1965年、ユネスコの成人教育国際委員会が「生涯教育」を提唱する。 | トップページ | 昭和54年/1979年、重兼芳子の芥川賞受賞が、小説教室の歴史を変える。 »

2020年10月 4日 (日)

昭和34年/1959年、志水辰夫が高知文学学校に入学、メキメキ注目される。

2020100460

▼昭和32年/1957年、東京、大阪、京都に次いで高知で文学学校が設立される。

 直木賞のハナシをするはずのブログなので、ここらで一週、直木賞の候補者を取り上げておこうと思います。志水辰夫さんです。

 都合3度、直木賞の候補に挙がった方ですが、受賞はしていません。ただ、このレベルの人になると、受賞しているとかしていないとか、ほとんど関係ないでしょう。第163回(令和2年/2020年・上半期)の馳星周さんもそうでしたけど、長く文芸出版の世界で活動して、直木賞を大いに盛り上げてくれた功績だけで、並の受賞者をはるかに上回る「直木賞の関係者だ」と断言していいと思います。

 それで志水さんですが、昭和56年/1981年に『飢えて狼』(講談社刊)で作家デビューしたのが44歳のとき。まもなく講談社肝いりの吉川英治文学新人賞で2度ほど候補になったりしましたが、6冊目の小説『背いて故郷』(講談社刊)がはじめて直木賞の候補に残ります。第94回(昭和60年/1985年・下半期)のときです。

 結果、直木賞落選が3度、吉川新人賞は落選2度、山本周五郎賞は落選1度、……と文芸三社のエンタメ系新人賞は、揃いも揃って受賞させることができず、アホヅラをさらしてしまいます。これには世の読書好きたちも大激怒して、志水辰夫を落としておいて何が文芸三社だ、文春、新潮、講談社みんな頭まるめて出直してこい、と批判の声が巻き起こった、などという逸話まで生み出しました。いや、生み出してないかもしれません。

 ともかく、志水さんの文学的履歴をたどってみると、始まりは少し古くて、昭和30年代なかば、1960年ごろまでさかのぼります。20歳そこそこ、ナマイキなひよっこ青年だった志水さんが、小説づくりの魅力にハマったのは当時、高知で産声をあげたばかりの高知文学学校に入ってからのことです。

 この学校はいまでも頑張って続いています。何が頑張っているのか、というと、昭和32年/1957年に開校した頃からずっと、何かの大組織や企業の後ろ盾があるわけでもなく、「文学にお熱を上げる一般市民」という立場の人たちによって運営されつづけているからです。

 日本の文学学校の勃興は、うちのブログでも簡単に触れてきました。昭和28年/1953年暮に東京で日本文学学校が開校。翌昭和29年/1954年7月に大阪文学学校がスタート。もうひとつ、昭和30年/1955年には京都文学教室が発足。と、既成の概念をだれか上の人たちから押しつけられるのではなく、社会のなかで一人ひとり働く人たちの、草の根の情熱が集結したところから(集結させようという思いから)それぞれの大都市圏で始まります。

 そのうち京都の文学教室の立ち上げに参加した高校教師が、教職員組合に所属していた藤本幹吉さんです。その藤本さんがたまたま高知市の堀詰にある「葉牡丹」という居酒屋で飲んでいたとき、うちの街でも文学を盛り上げていかなきゃいけないよなあ、そうだよなあ、と熱心に語り合ったのが山川久三さん、そして中央公民館の館長をしていた西村時衛さんで、酒席での勢いそのままにがんがんと準備を進めると、昭和32年/1957年11月1日、文学学校の開校にまでこぎつけます。場所は市立中央公民館、木曜・土曜の週2日18時30分から21時まで、6か月を一期とするカリキュラムです。

 定員を100名としたところ、第1期にはそれを超える申し込みが殺到して、けっきょく入学者は140名に膨らんだ、というのですから驚きです。そのすべての人が「小説を書きたい!」と思っていたわけではないでしょうが、「本科」と呼ばれる文学の批評・鑑賞・創作全般を学習する課程を終えた人たちのなかで、わたしはもっと創作がしたいんです、お願いします、と行き場のないパッションを抱えた有志たちが6か月ごとの「研究科」を発足。荒木修さんとか、土佐文雄(藤本幹吉のペンネーム)さんとか、岡林清水さんとか、そういう先生のもとで小説の執筆に向き合います。

 ところで、文学学校というのは何のためにあるんでしょうか。何を為したら成功と言えるんでしょうか。

 そもそも、成功だの失敗だの、そういう価値観で物事をとらえないところに文学活動の魅力がひそんでいる気はします。そうは言っても、ある程度の規模で、お金を集めて、継続的に何かをつづけるには、ときに人の目で見てわかる「成功」が求められてしまうのですから、まったく生きづらい世の中です。高知の文校もやはり、世間からそういう価値観を突き付けられて闘ってきたことが、だいたい10年ごとに出される記念誌にも書かれています。

「私たちは、はじめから文学学校は流行作家を養成するところではないといってきた。もしも文学学校がそんな場所であったとしたら、高知文学学校はこうして十周年を迎えることなしにつぶれていたにちがいない。私たちは「文学学校はタレントを何人出したか」という問いに対しては、これを心ないものとしてしりぞけたが、しかし、私たちは、高知に埋もれている新しい文学の才能を掘り出すことを期待していないわけではない。それは、あくまでも、文学の根底に通じるオーソドックスな作業を通じておのずと生まれいずるものだ、という考えに立ってのことである。」(昭和42年/1967年10月刊『文学高知 高知文学学校十周年記念』所収 西村時衛「刊行にあたって」より)

 プロの作家をたくさん養成することを誇りにしない。むしろ、誰も世に出ていないのに10年、20年と長くつづくことに、文学学校のよさがあるのだ。……というのは、けっして強がりや負け惜しみではないでしょう。ブランドとか、早急な結果とか、経済の繁栄とか、そういうものに一層の価値があるとする社会に、いや、ほんとにそうですかと疑義を持つ。そうだそうだ、たしかに末永く続いていってほしいものだと思います。だけど同時に、こういうことを言っている「文学学校」という組織が苦戦を強いられ、衰退の一途をたどるのも、よくわかります。

          ○

▼昭和37年/1962年、志水辰夫(河村光秋)、読売短編小説賞に2度入選。

 当時、高知の刑務所に雇員として勤めていた川村光暁さん、のちの志水辰夫さんが、毎日の生活に鬱積したものを抱え、何かよその世界と接点を持ちたい、いまここにいる場所から抜け出したい、という思いで高知文学学校に入学したのは昭和34年/1959年1月8日のことでした。文校が開校してまだ1年少し、と日も浅いころです。文校も若かったけど、志水さんも22歳と若かった。

 半年の本科のカリキュラムが終わってもなお、志水さんはここに残って研究科のほうに参加します。最初に本科を受講したときは創作にはあまり興味がなかったんでしょうか、本科の実習にはじめて参加したのは、研究科に入ったあとの同年10月23日だった。……と志水さんの日記に書いてあるそうです。

 ということで、志水さんがまだ作家になる前、というか昭和38年/1963年5月に上京する前の、文校時代のことを振り返った貴重なエッセイが、『文学学校60年 高知文学学校創立60周年記念誌』(平成29年/2017年12月刊)に載っています。「思い出すことなど」という題名です。

 刑務所勤め、という環境のせいもあって、なかなか外界と接する機会をもたなかった20歳すぎの青年が、思いがけず出会った文学学校で、みるみると仲間を増やすうちに書くことに目覚め、昭和35年/1960年3月には同校の研究機関誌『文学高知』創刊号に「二十才の詩」を発表。志水さんのエッセイによると、これが『朝日新聞』の地方欄で褒められたらしく、「ここであらためて強調しておきたいが、誉められることくらい人を成長させてくれるものはないのである。」(「思い出すことなど」)と、俄然やる気を充満させます。

 昭和37年/1962年には、『読売新聞』が毎月募集していた「読売短編小説賞」に河村光秋の名で作品を投じ、「風の日」(4月22日夕刊掲載・永井龍男選)と、「陽の底」(10月28日夕刊掲載・伊藤整選)、2度の入選を果たしたものですから自信のほうも急上昇。どうやらおれは物を書くほうが向いているのかもしれない、と有頂天になったかどうか、それはよくわかりませんが、しかしこの入選がその後の志水さんの行動を左右するきっかけになったのは間違いありません。文学学校と、文学賞。「志水辰夫」が生まれるまでには、この2つの存在は絶対に欠かせなかった、と言えるでしょう。

 志水さんの文章を引くと、こうです。

「紆余曲折、ずいぶん道草や寄り道をしてきたが、ようやく目標が見えてきたというか、自分のできること、できないことがはっきりしてきた。こことはちがうどこかに、じぶんの居場所があるかもしれないのを信じはじめていた。

(引用者中略)

高知文学学校というものがあったおかげで、あたらしい道を歩くことができた。あれほど願っていたちがうところへ行くことができた。高知文学学校を通して知り合った人々、巡り会えたことがら、学んだり身につけたりした知識、そういうものが混然となってその後の人生の核となり、いまの自分をつくってくれていることはまちがいないのである。」(「思い出すことなど」より)

 東京の出版社で雑誌ライターを募集していることを、広告で知った志水さんは、思い切って応募してみます。本来、資格は満たしていなかったけど、履歴書に読売短編小説賞の2度の入選のことを書いておいたところ、たぶん書ける人材なんだろうと採用されたのが直接の契機となって、昭和35年/1960年5月に高知を去って上京。以来、出版の世界にもぐり込んで児童ものの編集から始まり、『微笑』など女性誌のライターになったりする間、『とろあ』という同人誌をやったり結婚したり(『文学高知 高知文学学校十周年記念』小南敏子「研究科のこと(古い日記から)」)、まあ志水さん好んで使うところの「寄り道」の人生をつづけますが、年をとってきて雑誌のライターもきつくなってきた、だけどおれには文章を書いて金を稼ぐしかない、と一念発起してコツコツと長編小説をまとめ……、みたいなことは志水さんのホームページ(Shimizu Tatsuo Memorandum 「自作を語る 飢えて狼」)からの、完全な受け売りです。

 いずれにしても志水さんの作家デビューに、文学学校で創作を学んだことは、直接の因果関係はありません。しかし、初代校長の西村さんや、志水さん本人が書いているとおり、文学学校があったことで、めぐりめぐって一人の作家が生まれたということは疑いなく、そんな程度の、うっすらとした影響が、文学学校にとってはその目的にかなったいちばんの成果なのだ、とも言えるでしょう。

|

« 昭和40年/1965年、ユネスコの成人教育国際委員会が「生涯教育」を提唱する。 | トップページ | 昭和54年/1979年、重兼芳子の芥川賞受賞が、小説教室の歴史を変える。 »

小説教室と直木賞」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 昭和40年/1965年、ユネスコの成人教育国際委員会が「生涯教育」を提唱する。 | トップページ | 昭和54年/1979年、重兼芳子の芥川賞受賞が、小説教室の歴史を変える。 »