昭和54年/1979年、重兼芳子の芥川賞受賞が、小説教室の歴史を変える。
▼昭和49年/1974年、新宿に朝日カルチャーセンターがオープンする。
直木賞ファンにとっては悲しいことですが、「小説教室ビッグバン」を起こしたのは、直木賞ではありません。あいつです。芥川賞メの手柄です。まったく、いつもいつも芥川賞ばかりで、うんざりです。
芥川賞は他にもたくさん大爆発を起こしています。こんなもの、特筆される機会もあまりない、ささいな出来事でしょう。しかし日本の小説教室史にとっては画期的な転換点です。もはやビッグバンと表現するしかありません。
昭和54年/1979年7月18日の夜。重兼芳子さんが第81回(昭和54年/1979年・上半期)の芥川賞を受賞しました。いまから40年少しまえになります。
重兼さんは、長く文学をやってきた人ではありません。それが50歳になる手前でたまさか受講したのが「小説教室」と称する、何ともウサンくさい講座で、そこでちょちょいのちょいと何らかを学んだ結果、すべての日本人が目をキラキラさせて憧れる、アノ聖なる芥川賞を射止めてしまったのだ! ……とか、もしくはひまを持て余した「主婦」なる属性の女性が、旦那が社会と家族のために汗水たらしてせっせと稼いだお金を、高尚ぶった趣味につぎ込み、だれの利益にもならない創作に時間とカネを費やした結果、名誉と大金をあっさり手に入れてしまったのだ、ああ、世も末だ! ……とか、まあ、下品で下世話なジャーナリズムの反響を呼び起こします。
正直、芥川賞のまわりでは、だいたいいつも見かけるような反響です。その反響自体がくだらない。いや、持ち上げるやつもおチョクるやつも馬鹿ばっかりで、そんなのにワーワー言われて調子に乗っている芥川賞という行事そのものがくだらないんだ。と思う人もたぶんいるでしょう。たしかに、くだらないかもしれません。
しかし、「小説教室に通った主婦が芥川賞をとってしまった」と騒がれたことが、ワタクシたちの文化に残した影響は計り知れず、2020年のいま、お金を払って創作を習うという風土が定着しているのは、この騒ぎがあったおかげだ、と言っても過言ではありません。なのでしばらく、重兼さんの通った小説教室について、いろいろと触れていくことにします。
まずは重兼さんの受賞から6年ほどさかのぼります。昭和48年/1973年11月、朝日新聞社が大規模な生涯学習の事業を立ち上げました。朝日カルチャーセンターです。
朝日新聞社がぽーんと2億円の資本金を出してつくった完全子会社の株式会社で、大々的な宣伝と告知をおこなったあと、昭和49年/1974年4月1日から講座を始めます。全140科目、240クラス。そこにいたるまでにプロジェクトチームを立ち上げてから約2年ほどの検討を重ねたそうで、新宿駅からほど近い高層ビルの4階と48階を借り切り、はじめるまでにかかった金額は、どかんと総額4億円。果たして採算がとれるのかと、社内やら社外やらさまざまな人が見守っていたと言います。
それがふたを開けてみれば、どの講座もおおむね多くの受講生を集めるほどの大にぎわい。『レジャー産業 資料』昭和50年/1975年4月号によると、2年目となる昭和50年/1975年2月21日、4月開講分の募集がおこなわれたときには「当日は前夜からの雪積一五センチという悪条件にもかかわらず、新宿住友ビルは長蛇の列にとりまかれた」(「二三〇科目三八〇クラス受講生二万人最大規模の総合センター 朝日カルチャーセンター」)。人気の講座はすぐに定員が埋まってしまうので、朝早くから並んで、どうにか希望の講座を受けようと、目を吊り上がらせた(かどうかは、現場を見ていないのでわかりませんけど)人たちが、新宿のまちに群れをなします。
その受講生の内訳は、8割程度を女性が占めていました。さらにそのうち55%が主婦、17%がOL、6%が学生、と圧倒的に「主婦」な人たちに受け入れられた……というのが、このとき衝撃を起こした一因です。
戦後の民主化のなかで、高校、大学(ないしは短大)と、高等教育を受けたあとに社会に出て働く機会をもつ女性の数も、徐々に増えていましたが、外で働くのは男だ、女は黙って家にいろ、という風潮が変わるまでにはまだまだ時間を要し、結婚してしまえば「主婦」となって家庭に入るのが常識、という時代が続きます。いっぽうで経済の状況はぐんぐん好転し、旦那の手取りの給料も増えていくなかで、果たしてお金を稼ぐばかりが人間すべての幸福なのか、といった感覚もじわじわとみんなのなかに広がっていきます。
だけど、どこに行って何をやったらいいのかわからない。と心の行き場を求めながら、家計をやりくりすれば多少は自分の余暇や趣味に支出をまわせるようになった主婦たち。そこに朝日がビジネスの芽を見つけ、まー、あの天下の朝日新聞がリッパな先生たちを集めて、ちょっとした講座をひらいてくれるのね、だったら行ってみようかしら、と学習意欲に火のついた女性たちを動かした。……などと言われています。こういう人たちは、マスコミから「主婦難民」などと呼ばれていましたが、もはや死語でしょう。
開かれた講座は、外国語、陶芸、染織、楽器演奏、絵画、書道などなど、それまで街にもあった自治体による市民講座とかサークルとか、そういうところでも真剣にやろうと思えばやれることばかりです。しかし、朝日カルチャーセンターでは、一流の講師(!)による一流の講座(!)が受けられる、というのが一つの売りで、おそらくここに通うことを生きがいに、幸せに暮らした受講生も多かっただろうと思います。よかったです。
それで小説教室のハナシですけど、作家であり文芸評論家でもあった(というか『文學界』同人雑誌評の担当者でもあった)駒田信二さんが、朝日カルチャーセンターから創作指導の講座をやってくれませんか、と相談を受けたのは、昭和50年/1975年秋のこと。同センターが2年目も好調に推移し、人気急上昇だった頃です。なに?創作の指導? おお、それは面白そうだ、と駒田さんがすぐに乗り気になったのも面白いところですが、まもなく「小説の作法と鑑賞」と題する講座が始まります。昭和51年/1976年1月のことです。
と、朝日カルチャー駒田教室のことは、文学史を調べている人なら、まず耳にしたことがあるでしょう。ワタクシも何となく聞いたことがあり、勝手に知った気になっていました。それが知れば知るほど、現代の文学環境を見るうえで外せないいくつもの要素が集結していて、こんなにも面白い現象だったのかと目をひらかれました。ふうん、そんなことオレは知っているよ、と半可通ぶって調べないことのもったいなさを、つくづく実感しているところです。
○
▼昭和56年/1981年、小説教室への風当たりの強さに、駒田信二ムッとする。
まずは、当事者のお言葉を借りてみます。開講から3か月遅れで、欠員補充で受講生のひとりになった野島千恵子さんです。講座との出会いを振り返っています。
ずっと小説を書いてみたい、と思っていた野島さんは、仲間も先生もいないなかで、添削指導もしてくれるという『文藝首都』に参加してみたり、札幌で澤田誠一さんがやっていた「にれの会」という読書会に加わってみたり、上京したあとは日本文学学校に通ってみたり、といろいろ手探りしてきたそうです。
「東中野に日本文学学校があるのは前から知っていた。そこは夜間で、入ってみると若い人たちが多く活気があり、名前しか知らなかった講師たちとじかに話のできる機会もあって、東京に出てきた甲斐がある、と思った。しかし、そこでは読書に重点がおかれていた。
そんなとき朝日カルチャーセンターで「小説の作法と鑑賞」という講座が開かれるというのを知ったのだった。そこで専門的に小説の書き方を教えてもらったらどんなにいいだろうと思った。子供たちも学校は出たし、あとは自分がどう生きるかを考えるときにきていた。(引用者中略)
だが、受講料が安くない。文学学校のほうはそう無理のない出費ですむが、こちらは相当に高くて、生活にそんなゆとりはないのだった。」(昭和56年/1981年2月・文藝春秋刊、野島千恵子・著『駒田信二の小説教室』「第一章 駒田信二・人と小説観」より)
この先、娘から最初の学費の援助を受けて、ようやく受講が決定。駒田さんをはじめて見たときの印象から、語られる内容に衝撃を受けたところへとハナシは進んでいきます。興味がある方は野島さんの本を読んでください。
ここで面白いのは、野島さんの文章におのずと、それまで日本にあった小説教室と駒田教室の関係性が現れていることです。
これまでの創作指導は、たとえば作品を読むほうに比重が置かれたらしいことが読み取れます。「文学」の「学校」なら、書くよりもまず読むところを重視するのはよくわかりますが、「うちは専門的に小説の書き方を教える場所なんだぞ」という視点、あるいはハッタリがあまり見えません。そりゃそうです。書く人がそれまで経てきた背景なり、たゆまぬ努力なり、そういうものが積み重なって結実したところに文学作品は生まれるのだ、と深く信じられていたからです。
ところが朝日カルチャーでは、長いあいだ素人の小説を読み尽くしてきた講師が、小説はどうやって書けばいいのか丁寧に指導しますよ、ということを前面に打ち出して、少額ではないお金をとりました。同センターの講座は当時だいたい一回二時間1200円、月4回で4800円、3か月の講座だと14400円。半年ならその倍。どんな人でも時間と気力さえあれば門戸をひらく、というかたちを大規模なビジネスとして展開したことが、画期的といいますか、大きなインパクトを残します。
インパクトといえば聞こえはいいですけど、そのころこの講座がどれだけ揶揄され、批判され、勘違いされたか、駒田信二さんの『私の小説教室』(昭和56年/1981年8月・毎日新聞社刊)にめんめんと記録されています。たとえば、先に引用した野島さんの『駒田信二の小説教室』という本は、オビで「あなたにも小説が書ける」と謳っていたからか、『東京新聞』の「大波小波」で文壇の奇書だの珍書だの、ぼろくそヤジられたそうです。
まあヤジるほうの気持ちもわかるよなあ。と思ってしまうのは、直木賞とか芥川賞とかの報道や世間の反応が面白くて、何十年もそればっかり見てきてしまったからかもしれません。はっきり言って、こういうときの文学界隈の取り上げられ方っていうのは、基本、品がなく、キモいものでしょう。
ただ、当事者は相当カチンときたらしく、駒田さん、かなり腹を立てています。
「私の教室からはその後(引用者注:重兼芳子の芥川賞受賞以後)も、二、三人の新人賞受賞者が出た。それにつれて、わるくちをいう人がふえてきた。「アサカル」などという蔑称で呼んで笑う人も出てきた。「アサカル」は自動車の教習所のようなものだ。かんじんの文章の修業をおろそかにしている。ただ小説を書く技術を教えているだけで、文学精神を教えていない。――そんなことを、文章の修業をおろそかにせず文学精神を持っているつもりの人がいって、「アサカル」をばかにしているのである。あてずっぽうでいっているのであって、天に唾しているにすぎないと私は思う。」(駒田信二・著『私の小説教室』所収「小説教室受難記」より ―初出:『公明新聞日曜版』昭和56年/1981年3月6日)
ゴシップ記事や巷の悪口というものは、この底の浅さが生命線なんだから、カリカリしないでよ。……などと、馬鹿にしている側の肩をもっている場合じゃありませんね。すみません。
それもこれも重兼さんが芥川賞を受賞したことが、悪口のきっかけになったのは疑いありません。しかも、つづけて新人賞の受賞者が何人も出ていなければ、注目の熱も次第におさまり、アサカルへの揶揄も収まっていたことでしょう。そう考えると、せっかくまじめに新時代を迎えていた小説教室が、そのスタートのところで悪目立ちしたのは、ほとんど文学賞のせいです。小説教室と文学賞。文学精神を持っているつもりの人にとっては、きっと馬鹿にしたくてしょうがないこの二つが交わったとき、大きく時代が動きました。
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