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2020年10月25日 (日)

昭和58年/1983年、朝日カルチャーセンターで海渡英祐の「フィクションの書き方」が始まる。

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▼昭和57年/1982年、高橋昌男、「出版不況」が叫ばれるなか小説教室の講師を引き受ける。

 文化をビジネスにする、というのが1970年から80年代の経済界のキーワードです。

 いや。芸術に人生を喰いつぶされているような、ゴリゴリの文化亡者に言わせると、アノ時代に栄えた文化のうち、ホンモノはごくわずかで、あとはカルチャーのファッションを装ったエセ文化だ、ということになるかと思います。

 何がホンモノで何がエセか、自信満々に断言できちゃうその精神性が詐欺師のやり口を彷彿させますが、それはそれとして、たとえば当時批判の対象になったのが、マンガやアニメ、それから劇画タッチの読み物、映像に影響を受けた小説、ゴーストに書かせた芸能人の本、芸能に威を借りてショーになり下がった文学賞……。そういう、いかにもヒト世代フタ世代まえのうるさがたが文句を言いそうな現象のひとつに加わったのが、カルチャーセンターのなかで創作を教えたり学んだりする、小説教室です。

 教室に通って小説なんか書けるかよ、と馬鹿にする人はたくさんいました。でも誰が何といおうと、小説教室は流行ってしまいました。芥川賞のおかげで、世間のみなさんにも知られてしまいました。以降、新聞社・マスコミ系では朝日カルチャーセンターから、読売文化センター、NHK文化センターなど、百貨店・鉄道系では西武、東武、三越、伊勢丹、高島屋、東急、近鉄などなど、名だたる企業が次々と参入。東京だけじゃなく全国各地の大都市を中心に小説教室が開かれ、その講師として、現役バリバリの小説家、ちょっと仕事が減ってきた作家、そもそも文筆だけでは食えない評論家、出版社を辞めた文芸編集者などが、まわりの様子を見ながら、ひとりまたひとりと就任します。物を書く人たちに、別の仕事口を増やしたことが、小説教室の意義のひとつです。

 そしてこの広がりは、直木賞にも大きく影響を及ぼすことになります。はじめは創作講座といえば「文学」中心でしたが、その枠組みを飛び越えて、ミステリー、時代小説とエンターテイメント小説の書き方へと広がっていったからです。すべては、経済的なお金のめぐりが人びとの意識を変え、教室で小説の書き方を教わったって別にいいじゃないか、という認識が世を席捲したおかげと言っていいでしょう。お金サマサマです。

 昭和51年/1976年に駒田信二さんが始めた「小説の作法と鑑賞」講座が、どういうかたちで広まっていったのか。この40数年に日本全国に現われたすべてのカルチャーセンターの創作教室を調べ尽くせればいいんでしょうが、そういう馬鹿なことは誰もやっていませんし、ワタクシも手に負えません。ということで、とりあえず朝日カルチャーセンターの関東近郊の分だけ、簡単なものですけど一覧に起こしてみました。

講師講座開始年
駒田信二小説の作法と鑑賞(新宿・横浜)昭和51年/1976年
久保田正文小説の作法と鑑賞(新宿・横浜)昭和55年/1980年
黒井千次小説の鑑賞と作法(立川)昭和57年/1982年
高井有一小説の作法と鑑賞(新宿)昭和58年/1983年
高橋昌男小説の書き方(立川)昭和58年/1983年
村上兵衛小説の作法と鑑賞(立川)昭和58年/1983年
海渡英祐フィクションの書き方(新宿)昭和58年/1983年
岩橋邦枝小説の鑑賞・実作(立川)昭和59年/1984年
光瀬龍大衆文芸の書き方(新宿)昭和59年/1984年
多岐川恭実作による小説勉強(立川)昭和61年/1986年
森禮子小説の鑑賞と書き方(立川)昭和61年/1986年
斎藤栄ミステリーの書き方と楽しみ方(横浜)昭和61年/1986年
夏堀正元小説の創り方(立川)昭和61年/1986年
尾崎秀樹、
清原康正
文学新人賞にいどむ小説作法(立川)昭和63年/1988年
尾高修也小説作法入門(新宿)平成2年/1990年
片山智志小説作法入門(新宿)平成3年/1991年
川村晃小説の書き方(千葉)平成3年/1991年
南原幹雄歴史時代小説の書き方(新宿)平成4年/1992年
海渡英祐ミステリーの書き方(新宿)平成5年/1993年
三浦清宏小説教室(多摩)平成5年/1993年
小嵐九八郎小説の作法と鑑賞(横浜)平成5年/1993年
月村敏行あなたも小説家に(千葉)平成5年/1993年
松成武治小説推敲のポイント(新宿)平成6年/1994年
中沢けい初めての小説(新宿)平成7年/1995年
秋山駿小説の作法と鑑賞(新宿)平成7年/1995年
笠原淳初めての小説作法(多摩・新宿)平成7年/1995年
早乙女貢歴史小説の書き方(新宿)平成8年/1996年
金子昌夫小説の作法と鑑賞(横浜)平成8年/1996年
橋中雄二小説の作法と鑑賞(横浜)平成9年/1997年
絓秀実小説の作法と鑑賞(横浜)平成10年/1998年
山崎行太郎はじめての小説実作(立川)平成10年/1998年
清原康正小説を書こう(新宿)平成11年/1999年
安原顯小説教室(新宿)平成14年/2002年
根本昌夫実践小説教室(新宿)平成14年/2002年

 上記、かなりヌケがあります。講座名や開始年など、けっこう間違っているかもしれません。見つけ次第、誤りは直していきます。

 と、この一覧を見て、目をひくのは何といっても昭和58年/1983年の前後です。立川の教室で高橋昌男さんの小説教室が始まり、東京では海渡英祐さんが「フィクションの書き方」講座を始めます。光瀬龍さんが「大衆文芸の書き方」を受け持ったのが昭和59年/1984年から。昭和61年/1986年には立川のほうで、多岐川恭さんと森禮子さん、直木賞・芥川賞の両賞受賞者がそろって新講座をはじめますが、多岐川さんの教室は篠田節子さんが軽い気持ちで通い出した場所ということで、もはや伝説になっています。

 昭和58年/1983年ごろ、いったい何があったんでしょうか。

 このとき講師になった高橋昌男さんはいわゆる純文芸派の作家で、しかも純然たる直木賞候補者ですが、どうして小説教室の仕事を受けることになったのか、こんなふうに書き残しています。

「私を講師にどうかと誘ってくれたのは黒井千次さんだが、事務局を通じて話がきたとき、私はこう考えたのを憶えている。自分が他人にものを教える分際でないことはもちろんだが、それはそれとして、この機会に文学の裾野をひろげる手助けはできないものだろうか、巷間、文学の低迷が取り沙汰され、出版不況という言い方の下に、純文学系の小説や評論の売行き不振があたり前のこととされているけれど、これはひょっとして文学に直接関わるわれわれの側にも責任があるのではないか。映像や音楽、情報誌を中心とする大衆文化のにぎわいに紛れて、文学とそれを支える読者との関係が稀薄になり、いまでは、読者にとって文学は、在るのは知っているが取り出して眺めるのは面倒な、戸棚の奥に蔵われた高価な壺のようなものと化しているのではないだろうか。」(『新潮』昭和61年/1986年4月号 高橋昌男「小説教室の三年間」より)

 つまり1980年半ば、朝日カルチャーの小説教室が大幅に拡大していく裏では、一般に「出版不況」だの、文学系の本が売れないだの、そんなことが言われていた、というわけです。改めて確認しておきますと、これは平成に入ってからとか、令和の現在とか、最近の話ではありません。

 出版が振るわない状況は、我々にも馴染みぶかい世界です。それと小説教室の隆盛が、リンクしているかどうかは別として、少なくとも同時代に発生している、ということがわかりました。いっぽうで文学は売れない。いっぽうで創作講座は大人気。……文化の動きは、なかなか複雑で難解です。

          ○

▼昭和59年/1984年、光瀬龍が「大衆文芸の書き方」講座を始める。

 先の一覧でもわかりますが、朝日カルチャーの小説講座のうち、エンターテイメント小説に関してその歴史を切り開いたのは海渡英祐さん、そして光瀬龍さんです。

 光瀬さんには、立川ゆかりさんによる『夢をのみ 日本SFの金字塔・光瀬龍』(平成29年/2017年7月・ツーワンライフ刊)というエラく素晴らしい評伝があります。

 一関中学で同級だった佐々木久雄、ペンネーム三好京三さんとの友情厚いエピソードも出てきます。SF作家として歩みを進めてきた光瀬さんが、友人三好さんの、あれよあれよの直木賞受賞の報に接して喜んだのが昭和52年/1977年1月。喜びとともに、この受賞で光瀬さんも一段とプロ作家として奮起しただろう、とは評伝の著者立川さんの説ですが、こんなかたちで直木賞が出てくるのも、直木賞のもつブランド力の幅広さでしょう。

 ともかく、立川さんによると、光瀬さんの講座にはプロの書き手や文学賞の受賞者も通っていたらしいです。光瀬さんは30代のころ、作家をやりながら洗足学園の教壇にも立っていた教師経験者で、その面でも大勢を相手にものを教えるのは慣れていたのではないか、と書かれています。

「作家の子母澤類も、教室の生徒であった。彼女は光瀬にその才能を買われ、弟子となりプロになったひとである。彼女は光瀬の教え方をこう覚えている。

「すぐに小説を書いてはいけない、と教えられました。あらすじノート、というのがあって、提出してOKが出ないうちは作品を書かせてもらえませんでした。OKが出てからあわてて書き上げ提出しました」

一回の講座は三ヵ月。しかし、同じ生徒が繰り返し受講するため、教室はふくらむ一方だった。それこそ、身動きがとれないくらい埋まったこともあった。」(『夢をのみ 日本SFの金字塔・光瀬龍』より)

 と、これがもう大人気の講座で、平成11年/1999年7月に光瀬さんが亡くなるその少しまえまで、10数年つづきました。

 子母澤さん以外、どんなプロ作家が養成されたのか、現状ワタクシもよくわからないんですけど、大切なのは光瀬教室ひとつの功績を見ることではありません。80年代中盤になって、エンタメ小説の書き方というものが文学の講座から切り離したところで成り立ち、他にも同系統の教室がいろいろと群立しはじめたことが重要です。そういう状況が何年もつづくうちに、新人賞をとる人も増え、専業作家になれる希少な人材が育ち、なかには直木賞をとる人が出てきます。ホンモノかエセか知りませんけど、その無数の試みが小説教室の文化をつくったのは、間違いありません。

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