昭和53年/1978年、駒田信二の小説教室から同人雑誌『まくた』が生まれる。
▼昭和53年/1978年、小説教室に通った木下径子、出入り禁止になる。
駒田信二さんの小説教室、通称「駒田教室」の特徴というと、それは芥川賞の受賞者を生んだことだけでは済みません。1970年代から80年代、この時代を映す複数の要素を持っていた。一口で言うと、そういうことになります。
まずは何といっても、その成り立ちです。この教室ができた大きな要因に、同人雑誌の存在がありました。
駒田さんは中国文学に詳しい作家として知られていましたが、それを上回るぐらいに有名だったのが『文學界』同人雑誌評の評者としての顔です。昭和33年/1958年10月号に初めて登場して以来、久保田正文さん、小松伸六さん、林富士馬さんの3人といっしょに全国からドサドサ寄せられる同人雑誌を読みつづけて幾星霜。ときに、同人雑誌の連中から不公平だの真面目に読んでいないだのと野次られながら、無名の書き手が書いた小説や評論やエッセイや六号記事を、ひたすら読んでは、4人で分担して批評しつづけます。
これを10年、20年と続けるうち、駒田さんの心に、ある思いがきざしたそうです。この作家はどこか光るものを持っている、と思って『文學界』で紹介する。ときどき、注文をつけたりアドバイスを加えたりする。作家として成長し、伸びていく人もいるが、心折れていつしか書かなくなる人もいる。ああ、直接声をかけていれば、もっといい小説を書く作家になれただろうに、と惜しまれる同人雑誌作家がたくさんいる。けっきょく自分は(自分たちは)そういう面で役に立ってあげられなかったのではないか……。
と、その思いが積もり積もっていたところに、朝日カルチャーセンターから講座のハナシがあったので、これは無名の書き手を伸ばすいい機会だ、と勇んで引き受けることにした、と駒田さんは言っています。つまり、対面式・スクール式の創作講座を駒田さんが始めたのは、それまでに同人雑誌の文化があったからだということです。朝日カルチャーで始まった小説教室は、同人雑誌の延長線上に位置したといいますか、同人雑誌で文学修業するというそれまで一般的とされてきた土壌を踏まえての進化系だった、と言ってもいいでしょう。
そうやって同人雑誌から派生した小説教室が、まもなく同人雑誌へと戻るのは、あるいは自然の道筋かもしれません。昭和51年/1976年1月に始まった駒田さんの教室では、受講生たちが提出した小説は、タイプ印刷で冊子化されて、授業のテキストに使われていたそうですが、昭和52年/1977年夏ごろになると、受講生たちのあいだで定期的に刊行する同人雑誌をつくろうとハナシが持ち上がります。いったん立ち消えになったあと、10月ごろに再び機運が燃え上がり、ついに月刊の雑誌を出すことに決まりました。誌名は『まくた』。
この雑誌に書いたところから羽ばたいていった人は、枚挙にいとまがない……と言うほどたくさんいるわけじゃないですけど、創刊号に「水位」を寄せた重兼さんにはじまって、山之内朗子、山本三鈴、野島千恵子、塚越淑行、中丸美繪、うつみ宮土理、加地慶子などなど、けっこうなツワモノばかり。『文學界』で取り上げられた『まくた』作品の一覧を見ているだけで、すぐに時間が経ってしまいそうです。書かなくなった人、いまも書いている人、ひとりひとり詳しく触れていきたいところですが、すみません、割愛します。
と言いながら、ひとりだけ挙げてみます。初期の教室に通った木下径子さんです。
作品に対する批評を、自分自身に対する批評として受け止めてしまうナイーブな人だったらしく、最初は高い評価を受けていたのにだんだん受け入れらなくなった頃、逆にぐんぐんと駒田さんに気に入られていったのが重兼芳子という、薄眼鏡をかけた野心まんまんの女。木下さん自身、教室のなかで浮いた存在になっていくなか、駒田さんからも疎まれてしまい、昭和53年/1978年には駒田さんが「もし彼女が辞めないなら、私が辞める」と朝日カルチャー事務局に泣き言を繰るなど、すったもんだの騒動を起こします。
後年、木下さんはその一連の顛末をベースに『女作家養成所』(平成1年/1989年1月・沖積舎刊)という長編をまとめました。「小股教室に於ける樹下に対してのボイコット事件、人権蹂躙の言動を煽動した滋兼が、第 回の亜句他側賞を受けた。」などという、被害者意識まるだしの表現が満載で、『サンデー毎日』平成1年/1989年3月26日号には「朝日カルチャーセンターが頭をかかえる内幕小説『女作家養成所』の「女の戦い」」という、3ページにわたる記事で取り上げられた、初期の駒田教室を語るうえでは外せない作家です。
人と人が集まるところ、仲良しクラブではやっていけずに感情の対立が起こることもあるでしょう。小説教室というのは、ひとり「講師」という存在の下に、何十人の集団が轡を並べ、定規で計って決めることができない「文学的評価」なるヌエなるものを突き付けられながら進む、という面があります。いざこざが起こってもおかしくありません。
とまあ、木下さんの作品に注目するのは、ワタクシが単なるゴシップ好きだからかもしれません。そこは許してもらうとしまして、『女作家養成所』には、木下さん(の分身の、作中に出てくる主人公〈樹下拡子〉)が、講師の駒田(作中では〈小股〉)の言動にひっかかる場面がいくつか出てきます。少し取り出してみます。
「ぼくは年だから焦っているのですよ。今年中に二、三人の作家を出したいと思っている。と言われたことがあった。(引用者中略)小股は出版社から派遣されて来ている、と洩らしたのを耳にしたことがあったが、どういうことなのだろう。」
「滋兼が教室に出ていた。滋兼は身体障害者の手帳を持っている、と小股が教室で宣伝した。なぜわざわざ身体障害者の宣伝をするのだろうか。
小股の機嫌はよく、頬の筋肉が弛緩してしまったかのように笑ってばかりいる。教室の中は滋兼の話で持ち切りである。拡子は、なぜか体内に異質物が入ったような異和感をおぼえ、どこかに納得出来ないものがあった。」
小説の書き方をみんなに教える、というのは建前にすぎず、講師の考えていたのは、生徒のなかから文壇に出られそうな作家を探し出し、名伯楽として自分の名誉を高め、カルチャーセンターを宣伝してカネ儲けの片棒を担ぐ、ということだった。純粋に小説を学びに行った自分は、そんな汚れた文壇の一端を垣間見せられ、また野心と嫉妬で凝り固まった性格の悪い受講生たちに傷つけられた犠牲者だ……というようなことが書かれています。虚栄とカネにまみれた文壇の、新人発掘にまつわるキタナさに打ち震えたい向きは、ぜひ読んでみてください。
さて、世に出る作家を育てたい、という気持ちで小説の書き方を教えることを、当たり前と思うか、薄汚れていると思うか。現金の授受を介した生涯教育機関のなかで、おカネのための文学だというそぶりを見せることを、問題ないと見るか、文学の冒涜と見るか。人の感覚はさまざまですから、何とも言いようがありません。
しかし駒田教室が、文学賞(文学新人賞)や同人雑誌という、世間に用意された文学環境に囲まれて存在したのは、まぎれもない事実です。そして、これ以後、生涯学習機関の小説教室というと、同人雑誌を出し、それが『文學界』などで取り上げられる、というかたちができあがります。新人作家を見つける機会の豊富な「同人雑誌評の評者」という役割をずっと担ってきた駒田さんが講師を務めたから、なし得た展開と言っていいでしょう。
○
▼昭和54年/1979年、田中小実昌も朝日カルチャーセンター受講生として直木賞受賞。
駒田信二だの重兼芳子だの、直木賞と全然関係ないじゃないか。と思わず目をそむけたくなったところで、お待ちかねの直木賞です。
第81回(昭和54年/1979年・上半期)の芥川賞によって、朝日カルチャーセンターの話題は爆発しました。それが何の因果か、直木賞のほうにも飛び火してきます。
いや、因果もクソもありません。太古の昔から、芥川賞から落ちてくる話題性のおこぼれを喰って生き延びてきたのが、妖怪・直木賞です。おそらく自然の流れなんでしょう。
『婦人生活』昭和54年/1979年11月号の「根本進のマンガルポ 話題の朝日カルチャーセンターを追って」を読んでみたら、いきなり冒頭こんな文章に出くわしました。
「芥川賞を受賞した重兼芳子さん、直木賞の田中小実昌さんなど輩出した朝日カルチャーセンター。主婦をはじめ女性に圧倒的人気だという。」
第81回の直木賞は、たしかに阿刀田高さんと同時に田中小実昌さんが受賞した回です。言うに事欠いて田中さんまで朝日カルチャー輩出のひとりに挙げてしまう、この乱暴なひとくくり感。唖然とする、といいますか、このぐらい鷹揚にやっても許されるのが、直木賞・芥川賞を一般的に紹介するときの流儀には違いありません。巷で、直木賞と芥川賞ってコレコレこういうふうに違うんだよ、などと講釈垂れることの恥かしさったらありません。こまかいことはどうでもいい。それが直木賞に課せられた一般的な認識です。
それはそれとして、田中さんも朝日カルチャーに通っていたのはウソではないらしく、直木賞を受賞した直後の『文藝春秋』昭和54年/1979年9月号、芥川賞決定号の巻頭エッセイに田中さんが「オジイ生徒」というのを書いています。
「この四月から、ぼくは、朝日カルチャー・センターの現代ギリシャ語初級クラスにいっている。(引用者中略)
もう、だいぶ前から、ぼくはバスにのってあそんでいる。去年の夏、サンフランシスコに四十日ほどいたときも、毎日、市内バスにのっていた。
映画もよく見る。週に五本は見るだろう。昼間は、映画を見て、バスにのり、自転車にのり、夜は酒を飲んでるが、要するに、仕事がしたくないのだ。
ともかく、この日、大泉学園でメシをたべていて、急に、朝日カルチャー・センターにいってみよう、とおもった。
バスだって、ほとんど東京じゅうのバスを、それも、なんどものっている。なんども、おなじ線のバスにのれば、やはり、はじめてほど、おもしろくはない。
どうせ退屈ならば、いっちょ、ギリシャ語を、とおもったのだろう。ところが、これが、えれえしんどいものだった。」(『文藝春秋』昭和54年/1979年9月号 田中小実昌「オジイ生徒」より)
昼間から仕事がしたくなくて、退屈にひまを持て余したあげく、以前から興味のあった古代ギリシャ語を習いに朝日カルチャーに行ってみたら、定員満杯だったので、ひとつだけ席の空いていた現代ギリシャ語の教室に入ってみた。と、こういうジイさんの暮らしもいいもんだなあ、と憧れるのはたしかですが、このとき田中さんは54歳。そこまで年寄りだったわけじゃありません。50代でこの行動を真似したら、なかなかすぐに生活が詰んでしまいそうで、躊躇するところです。
ともかく、朝日カルチャーセンターが直木賞作家田中小実昌を生んだ、とは口が裂けても言えません。言えるはずがありません。そういうなかで『婦人生活』の記事のような表現が生まれるのは、ほんとうはおかしいはずですが、しかし「おかしい」とツッコむのではなく、話題性を面白がって乗っかる道もあります。そういう様式がマスメディアで進んだ結果、1980年代の直木賞・芥川賞報道の過熱、というアノ恥かしい現象を起こすことになるのですから、朝日カルチャーセンター輩出の直木賞作家! というこの切り口が出てきたのも、直木賞の歴史では重要な事柄です。
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