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2020年10月の4件の記事

2020年10月25日 (日)

昭和58年/1983年、朝日カルチャーセンターで海渡英祐の「フィクションの書き方」が始まる。

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▼昭和57年/1982年、高橋昌男、「出版不況」が叫ばれるなか小説教室の講師を引き受ける。

 文化をビジネスにする、というのが1970年から80年代の経済界のキーワードです。

 いや。芸術に人生を喰いつぶされているような、ゴリゴリの文化亡者に言わせると、アノ時代に栄えた文化のうち、ホンモノはごくわずかで、あとはカルチャーのファッションを装ったエセ文化だ、ということになるかと思います。

 何がホンモノで何がエセか、自信満々に断言できちゃうその精神性が詐欺師のやり口を彷彿させますが、それはそれとして、たとえば当時批判の対象になったのが、マンガやアニメ、それから劇画タッチの読み物、映像に影響を受けた小説、ゴーストに書かせた芸能人の本、芸能に威を借りてショーになり下がった文学賞……。そういう、いかにもヒト世代フタ世代まえのうるさがたが文句を言いそうな現象のひとつに加わったのが、カルチャーセンターのなかで創作を教えたり学んだりする、小説教室です。

 教室に通って小説なんか書けるかよ、と馬鹿にする人はたくさんいました。でも誰が何といおうと、小説教室は流行ってしまいました。芥川賞のおかげで、世間のみなさんにも知られてしまいました。以降、新聞社・マスコミ系では朝日カルチャーセンターから、読売文化センター、NHK文化センターなど、百貨店・鉄道系では西武、東武、三越、伊勢丹、高島屋、東急、近鉄などなど、名だたる企業が次々と参入。東京だけじゃなく全国各地の大都市を中心に小説教室が開かれ、その講師として、現役バリバリの小説家、ちょっと仕事が減ってきた作家、そもそも文筆だけでは食えない評論家、出版社を辞めた文芸編集者などが、まわりの様子を見ながら、ひとりまたひとりと就任します。物を書く人たちに、別の仕事口を増やしたことが、小説教室の意義のひとつです。

 そしてこの広がりは、直木賞にも大きく影響を及ぼすことになります。はじめは創作講座といえば「文学」中心でしたが、その枠組みを飛び越えて、ミステリー、時代小説とエンターテイメント小説の書き方へと広がっていったからです。すべては、経済的なお金のめぐりが人びとの意識を変え、教室で小説の書き方を教わったって別にいいじゃないか、という認識が世を席捲したおかげと言っていいでしょう。お金サマサマです。

 昭和51年/1976年に駒田信二さんが始めた「小説の作法と鑑賞」講座が、どういうかたちで広まっていったのか。この40数年に日本全国に現われたすべてのカルチャーセンターの創作教室を調べ尽くせればいいんでしょうが、そういう馬鹿なことは誰もやっていませんし、ワタクシも手に負えません。ということで、とりあえず朝日カルチャーセンターの関東近郊の分だけ、簡単なものですけど一覧に起こしてみました。

講師講座開始年
駒田信二小説の作法と鑑賞(新宿・横浜)昭和51年/1976年
久保田正文小説の作法と鑑賞(新宿・横浜)昭和55年/1980年
黒井千次小説の鑑賞と作法(立川)昭和57年/1982年
高井有一小説の作法と鑑賞(新宿)昭和58年/1983年
高橋昌男小説の書き方(立川)昭和58年/1983年
村上兵衛小説の作法と鑑賞(立川)昭和58年/1983年
海渡英祐フィクションの書き方(新宿)昭和58年/1983年
岩橋邦枝小説の鑑賞・実作(立川)昭和59年/1984年
光瀬龍大衆文芸の書き方(新宿)昭和59年/1984年
多岐川恭実作による小説勉強(立川)昭和61年/1986年
森禮子小説の鑑賞と書き方(立川)昭和61年/1986年
斎藤栄ミステリーの書き方と楽しみ方(横浜)昭和61年/1986年
夏堀正元小説の創り方(立川)昭和61年/1986年
尾崎秀樹、
清原康正
文学新人賞にいどむ小説作法(立川)昭和63年/1988年
尾高修也小説作法入門(新宿)平成2年/1990年
片山智志小説作法入門(新宿)平成3年/1991年
川村晃小説の書き方(千葉)平成3年/1991年
南原幹雄歴史時代小説の書き方(新宿)平成4年/1992年
海渡英祐ミステリーの書き方(新宿)平成5年/1993年
三浦清宏小説教室(多摩)平成5年/1993年
小嵐九八郎小説の作法と鑑賞(横浜)平成5年/1993年
月村敏行あなたも小説家に(千葉)平成5年/1993年
松成武治小説推敲のポイント(新宿)平成6年/1994年
中沢けい初めての小説(新宿)平成7年/1995年
秋山駿小説の作法と鑑賞(新宿)平成7年/1995年
笠原淳初めての小説作法(多摩・新宿)平成7年/1995年
早乙女貢歴史小説の書き方(新宿)平成8年/1996年
金子昌夫小説の作法と鑑賞(横浜)平成8年/1996年
橋中雄二小説の作法と鑑賞(横浜)平成9年/1997年
絓秀実小説の作法と鑑賞(横浜)平成10年/1998年
山崎行太郎はじめての小説実作(立川)平成10年/1998年
清原康正小説を書こう(新宿)平成11年/1999年
安原顯小説教室(新宿)平成14年/2002年
根本昌夫実践小説教室(新宿)平成14年/2002年

 上記、かなりヌケがあります。講座名や開始年など、けっこう間違っているかもしれません。見つけ次第、誤りは直していきます。

 と、この一覧を見て、目をひくのは何といっても昭和58年/1983年の前後です。立川の教室で高橋昌男さんの小説教室が始まり、東京では海渡英祐さんが「フィクションの書き方」講座を始めます。光瀬龍さんが「大衆文芸の書き方」を受け持ったのが昭和59年/1984年から。昭和61年/1986年には立川のほうで、多岐川恭さんと森禮子さん、直木賞・芥川賞の両賞受賞者がそろって新講座をはじめますが、多岐川さんの教室は篠田節子さんが軽い気持ちで通い出した場所ということで、もはや伝説になっています。

 昭和58年/1983年ごろ、いったい何があったんでしょうか。

 このとき講師になった高橋昌男さんはいわゆる純文芸派の作家で、しかも純然たる直木賞候補者ですが、どうして小説教室の仕事を受けることになったのか、こんなふうに書き残しています。

「私を講師にどうかと誘ってくれたのは黒井千次さんだが、事務局を通じて話がきたとき、私はこう考えたのを憶えている。自分が他人にものを教える分際でないことはもちろんだが、それはそれとして、この機会に文学の裾野をひろげる手助けはできないものだろうか、巷間、文学の低迷が取り沙汰され、出版不況という言い方の下に、純文学系の小説や評論の売行き不振があたり前のこととされているけれど、これはひょっとして文学に直接関わるわれわれの側にも責任があるのではないか。映像や音楽、情報誌を中心とする大衆文化のにぎわいに紛れて、文学とそれを支える読者との関係が稀薄になり、いまでは、読者にとって文学は、在るのは知っているが取り出して眺めるのは面倒な、戸棚の奥に蔵われた高価な壺のようなものと化しているのではないだろうか。」(『新潮』昭和61年/1986年4月号 高橋昌男「小説教室の三年間」より)

 つまり1980年半ば、朝日カルチャーの小説教室が大幅に拡大していく裏では、一般に「出版不況」だの、文学系の本が売れないだの、そんなことが言われていた、というわけです。改めて確認しておきますと、これは平成に入ってからとか、令和の現在とか、最近の話ではありません。

 出版が振るわない状況は、我々にも馴染みぶかい世界です。それと小説教室の隆盛が、リンクしているかどうかは別として、少なくとも同時代に発生している、ということがわかりました。いっぽうで文学は売れない。いっぽうで創作講座は大人気。……文化の動きは、なかなか複雑で難解です。

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2020年10月18日 (日)

昭和53年/1978年、駒田信二の小説教室から同人雑誌『まくた』が生まれる。

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▼昭和53年/1978年、小説教室に通った木下径子、出入り禁止になる。

 駒田信二さんの小説教室、通称「駒田教室」の特徴というと、それは芥川賞の受賞者を生んだことだけでは済みません。1970年代から80年代、この時代を映す複数の要素を持っていた。一口で言うと、そういうことになります。

 まずは何といっても、その成り立ちです。この教室ができた大きな要因に、同人雑誌の存在がありました。

 駒田さんは中国文学に詳しい作家として知られていましたが、それを上回るぐらいに有名だったのが『文學界』同人雑誌評の評者としての顔です。昭和33年/1958年10月号に初めて登場して以来、久保田正文さん、小松伸六さん、林富士馬さんの3人といっしょに全国からドサドサ寄せられる同人雑誌を読みつづけて幾星霜。ときに、同人雑誌の連中から不公平だの真面目に読んでいないだのと野次られながら、無名の書き手が書いた小説や評論やエッセイや六号記事を、ひたすら読んでは、4人で分担して批評しつづけます。

 これを10年、20年と続けるうち、駒田さんの心に、ある思いがきざしたそうです。この作家はどこか光るものを持っている、と思って『文學界』で紹介する。ときどき、注文をつけたりアドバイスを加えたりする。作家として成長し、伸びていく人もいるが、心折れていつしか書かなくなる人もいる。ああ、直接声をかけていれば、もっといい小説を書く作家になれただろうに、と惜しまれる同人雑誌作家がたくさんいる。けっきょく自分は(自分たちは)そういう面で役に立ってあげられなかったのではないか……。

 と、その思いが積もり積もっていたところに、朝日カルチャーセンターから講座のハナシがあったので、これは無名の書き手を伸ばすいい機会だ、と勇んで引き受けることにした、と駒田さんは言っています。つまり、対面式・スクール式の創作講座を駒田さんが始めたのは、それまでに同人雑誌の文化があったからだということです。朝日カルチャーで始まった小説教室は、同人雑誌の延長線上に位置したといいますか、同人雑誌で文学修業するというそれまで一般的とされてきた土壌を踏まえての進化系だった、と言ってもいいでしょう。

 そうやって同人雑誌から派生した小説教室が、まもなく同人雑誌へと戻るのは、あるいは自然の道筋かもしれません。昭和51年/1976年1月に始まった駒田さんの教室では、受講生たちが提出した小説は、タイプ印刷で冊子化されて、授業のテキストに使われていたそうですが、昭和52年/1977年夏ごろになると、受講生たちのあいだで定期的に刊行する同人雑誌をつくろうとハナシが持ち上がります。いったん立ち消えになったあと、10月ごろに再び機運が燃え上がり、ついに月刊の雑誌を出すことに決まりました。誌名は『まくた』。

 この雑誌に書いたところから羽ばたいていった人は、枚挙にいとまがない……と言うほどたくさんいるわけじゃないですけど、創刊号に「水位」を寄せた重兼さんにはじまって、山之内朗子、山本三鈴、野島千恵子、塚越淑行、中丸美繪、うつみ宮土理、加地慶子などなど、けっこうなツワモノばかり。『文學界』で取り上げられた『まくた』作品の一覧を見ているだけで、すぐに時間が経ってしまいそうです。書かなくなった人、いまも書いている人、ひとりひとり詳しく触れていきたいところですが、すみません、割愛します。

 と言いながら、ひとりだけ挙げてみます。初期の教室に通った木下径子さんです。

 作品に対する批評を、自分自身に対する批評として受け止めてしまうナイーブな人だったらしく、最初は高い評価を受けていたのにだんだん受け入れらなくなった頃、逆にぐんぐんと駒田さんに気に入られていったのが重兼芳子という、薄眼鏡をかけた野心まんまんの女。木下さん自身、教室のなかで浮いた存在になっていくなか、駒田さんからも疎まれてしまい、昭和53年/1978年には駒田さんが「もし彼女が辞めないなら、私が辞める」と朝日カルチャー事務局に泣き言を繰るなど、すったもんだの騒動を起こします。

 後年、木下さんはその一連の顛末をベースに『女作家養成所』(平成1年/1989年1月・沖積舎刊)という長編をまとめました。「小股教室に於ける樹下に対してのボイコット事件、人権蹂躙の言動を煽動した滋兼が、第 回の亜句他側賞を受けた。」などという、被害者意識まるだしの表現が満載で、『サンデー毎日』平成1年/1989年3月26日号には「朝日カルチャーセンターが頭をかかえる内幕小説『女作家養成所』の「女の戦い」」という、3ページにわたる記事で取り上げられた、初期の駒田教室を語るうえでは外せない作家です。

 人と人が集まるところ、仲良しクラブではやっていけずに感情の対立が起こることもあるでしょう。小説教室というのは、ひとり「講師」という存在の下に、何十人の集団が轡を並べ、定規で計って決めることができない「文学的評価」なるヌエなるものを突き付けられながら進む、という面があります。いざこざが起こってもおかしくありません。

 とまあ、木下さんの作品に注目するのは、ワタクシが単なるゴシップ好きだからかもしれません。そこは許してもらうとしまして、『女作家養成所』には、木下さん(の分身の、作中に出てくる主人公〈樹下拡子〉)が、講師の駒田(作中では〈小股〉)の言動にひっかかる場面がいくつか出てきます。少し取り出してみます。

「ぼくは年だから焦っているのですよ。今年中に二、三人の作家を出したいと思っている。と言われたことがあった。(引用者中略)小股は出版社から派遣されて来ている、と洩らしたのを耳にしたことがあったが、どういうことなのだろう。」

「滋兼が教室に出ていた。滋兼は身体障害者の手帳を持っている、と小股が教室で宣伝した。なぜわざわざ身体障害者の宣伝をするのだろうか。

小股の機嫌はよく、頬の筋肉が弛緩してしまったかのように笑ってばかりいる。教室の中は滋兼の話で持ち切りである。拡子は、なぜか体内に異質物が入ったような異和感をおぼえ、どこかに納得出来ないものがあった。」

 小説の書き方をみんなに教える、というのは建前にすぎず、講師の考えていたのは、生徒のなかから文壇に出られそうな作家を探し出し、名伯楽として自分の名誉を高め、カルチャーセンターを宣伝してカネ儲けの片棒を担ぐ、ということだった。純粋に小説を学びに行った自分は、そんな汚れた文壇の一端を垣間見せられ、また野心と嫉妬で凝り固まった性格の悪い受講生たちに傷つけられた犠牲者だ……というようなことが書かれています。虚栄とカネにまみれた文壇の、新人発掘にまつわるキタナさに打ち震えたい向きは、ぜひ読んでみてください。

 さて、世に出る作家を育てたい、という気持ちで小説の書き方を教えることを、当たり前と思うか、薄汚れていると思うか。現金の授受を介した生涯教育機関のなかで、おカネのための文学だというそぶりを見せることを、問題ないと見るか、文学の冒涜と見るか。人の感覚はさまざまですから、何とも言いようがありません。

 しかし駒田教室が、文学賞(文学新人賞)や同人雑誌という、世間に用意された文学環境に囲まれて存在したのは、まぎれもない事実です。そして、これ以後、生涯学習機関の小説教室というと、同人雑誌を出し、それが『文學界』などで取り上げられる、というかたちができあがります。新人作家を見つける機会の豊富な「同人雑誌評の評者」という役割をずっと担ってきた駒田さんが講師を務めたから、なし得た展開と言っていいでしょう。

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2020年10月11日 (日)

昭和54年/1979年、重兼芳子の芥川賞受賞が、小説教室の歴史を変える。

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▼昭和49年/1974年、新宿に朝日カルチャーセンターがオープンする。

 直木賞ファンにとっては悲しいことですが、「小説教室ビッグバン」を起こしたのは、直木賞ではありません。あいつです。芥川賞メの手柄です。まったく、いつもいつも芥川賞ばかりで、うんざりです。

 芥川賞は他にもたくさん大爆発を起こしています。こんなもの、特筆される機会もあまりない、ささいな出来事でしょう。しかし日本の小説教室史にとっては画期的な転換点です。もはやビッグバンと表現するしかありません。

 昭和54年/1979年7月18日の夜。重兼芳子さんが第81回(昭和54年/1979年・上半期)の芥川賞を受賞しました。いまから40年少しまえになります。

 重兼さんは、長く文学をやってきた人ではありません。それが50歳になる手前でたまさか受講したのが「小説教室」と称する、何ともウサンくさい講座で、そこでちょちょいのちょいと何らかを学んだ結果、すべての日本人が目をキラキラさせて憧れる、アノ聖なる芥川賞を射止めてしまったのだ! ……とか、もしくはひまを持て余した「主婦」なる属性の女性が、旦那が社会と家族のために汗水たらしてせっせと稼いだお金を、高尚ぶった趣味につぎ込み、だれの利益にもならない創作に時間とカネを費やした結果、名誉と大金をあっさり手に入れてしまったのだ、ああ、世も末だ! ……とか、まあ、下品で下世話なジャーナリズムの反響を呼び起こします。

 正直、芥川賞のまわりでは、だいたいいつも見かけるような反響です。その反響自体がくだらない。いや、持ち上げるやつもおチョクるやつも馬鹿ばっかりで、そんなのにワーワー言われて調子に乗っている芥川賞という行事そのものがくだらないんだ。と思う人もたぶんいるでしょう。たしかに、くだらないかもしれません。

 しかし、「小説教室に通った主婦が芥川賞をとってしまった」と騒がれたことが、ワタクシたちの文化に残した影響は計り知れず、2020年のいま、お金を払って創作を習うという風土が定着しているのは、この騒ぎがあったおかげだ、と言っても過言ではありません。なのでしばらく、重兼さんの通った小説教室について、いろいろと触れていくことにします。

 まずは重兼さんの受賞から6年ほどさかのぼります。昭和48年/1973年11月、朝日新聞社が大規模な生涯学習の事業を立ち上げました。朝日カルチャーセンターです。

 朝日新聞社がぽーんと2億円の資本金を出してつくった完全子会社の株式会社で、大々的な宣伝と告知をおこなったあと、昭和49年/1974年4月1日から講座を始めます。全140科目、240クラス。そこにいたるまでにプロジェクトチームを立ち上げてから約2年ほどの検討を重ねたそうで、新宿駅からほど近い高層ビルの4階と48階を借り切り、はじめるまでにかかった金額は、どかんと総額4億円。果たして採算がとれるのかと、社内やら社外やらさまざまな人が見守っていたと言います。

 それがふたを開けてみれば、どの講座もおおむね多くの受講生を集めるほどの大にぎわい。『レジャー産業 資料』昭和50年/1975年4月号によると、2年目となる昭和50年/1975年2月21日、4月開講分の募集がおこなわれたときには「当日は前夜からの雪積一五センチという悪条件にもかかわらず、新宿住友ビルは長蛇の列にとりまかれた」(「二三〇科目三八〇クラス受講生二万人最大規模の総合センター 朝日カルチャーセンター」)。人気の講座はすぐに定員が埋まってしまうので、朝早くから並んで、どうにか希望の講座を受けようと、目を吊り上がらせた(かどうかは、現場を見ていないのでわかりませんけど)人たちが、新宿のまちに群れをなします。

 その受講生の内訳は、8割程度を女性が占めていました。さらにそのうち55%が主婦、17%がOL、6%が学生、と圧倒的に「主婦」な人たちに受け入れられた……というのが、このとき衝撃を起こした一因です。

 戦後の民主化のなかで、高校、大学(ないしは短大)と、高等教育を受けたあとに社会に出て働く機会をもつ女性の数も、徐々に増えていましたが、外で働くのは男だ、女は黙って家にいろ、という風潮が変わるまでにはまだまだ時間を要し、結婚してしまえば「主婦」となって家庭に入るのが常識、という時代が続きます。いっぽうで経済の状況はぐんぐん好転し、旦那の手取りの給料も増えていくなかで、果たしてお金を稼ぐばかりが人間すべての幸福なのか、といった感覚もじわじわとみんなのなかに広がっていきます。

 だけど、どこに行って何をやったらいいのかわからない。と心の行き場を求めながら、家計をやりくりすれば多少は自分の余暇や趣味に支出をまわせるようになった主婦たち。そこに朝日がビジネスの芽を見つけ、まー、あの天下の朝日新聞がリッパな先生たちを集めて、ちょっとした講座をひらいてくれるのね、だったら行ってみようかしら、と学習意欲に火のついた女性たちを動かした。……などと言われています。こういう人たちは、マスコミから「主婦難民」などと呼ばれていましたが、もはや死語でしょう。

 開かれた講座は、外国語、陶芸、染織、楽器演奏、絵画、書道などなど、それまで街にもあった自治体による市民講座とかサークルとか、そういうところでも真剣にやろうと思えばやれることばかりです。しかし、朝日カルチャーセンターでは、一流の講師(!)による一流の講座(!)が受けられる、というのが一つの売りで、おそらくここに通うことを生きがいに、幸せに暮らした受講生も多かっただろうと思います。よかったです。

 それで小説教室のハナシですけど、作家であり文芸評論家でもあった(というか『文學界』同人雑誌評の担当者でもあった)駒田信二さんが、朝日カルチャーセンターから創作指導の講座をやってくれませんか、と相談を受けたのは、昭和50年/1975年秋のこと。同センターが2年目も好調に推移し、人気急上昇だった頃です。なに?創作の指導? おお、それは面白そうだ、と駒田さんがすぐに乗り気になったのも面白いところですが、まもなく「小説の作法と鑑賞」と題する講座が始まります。昭和51年/1976年1月のことです。

 と、朝日カルチャー駒田教室のことは、文学史を調べている人なら、まず耳にしたことがあるでしょう。ワタクシも何となく聞いたことがあり、勝手に知った気になっていました。それが知れば知るほど、現代の文学環境を見るうえで外せないいくつもの要素が集結していて、こんなにも面白い現象だったのかと目をひらかれました。ふうん、そんなことオレは知っているよ、と半可通ぶって調べないことのもったいなさを、つくづく実感しているところです。

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2020年10月 4日 (日)

昭和34年/1959年、志水辰夫が高知文学学校に入学、メキメキ注目される。

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▼昭和32年/1957年、東京、大阪、京都に次いで高知で文学学校が設立される。

 直木賞のハナシをするはずのブログなので、ここらで一週、直木賞の候補者を取り上げておこうと思います。志水辰夫さんです。

 都合3度、直木賞の候補に挙がった方ですが、受賞はしていません。ただ、このレベルの人になると、受賞しているとかしていないとか、ほとんど関係ないでしょう。第163回(令和2年/2020年・上半期)の馳星周さんもそうでしたけど、長く文芸出版の世界で活動して、直木賞を大いに盛り上げてくれた功績だけで、並の受賞者をはるかに上回る「直木賞の関係者だ」と断言していいと思います。

 それで志水さんですが、昭和56年/1981年に『飢えて狼』(講談社刊)で作家デビューしたのが44歳のとき。まもなく講談社肝いりの吉川英治文学新人賞で2度ほど候補になったりしましたが、6冊目の小説『背いて故郷』(講談社刊)がはじめて直木賞の候補に残ります。第94回(昭和60年/1985年・下半期)のときです。

 結果、直木賞落選が3度、吉川新人賞は落選2度、山本周五郎賞は落選1度、……と文芸三社のエンタメ系新人賞は、揃いも揃って受賞させることができず、アホヅラをさらしてしまいます。これには世の読書好きたちも大激怒して、志水辰夫を落としておいて何が文芸三社だ、文春、新潮、講談社みんな頭まるめて出直してこい、と批判の声が巻き起こった、などという逸話まで生み出しました。いや、生み出してないかもしれません。

 ともかく、志水さんの文学的履歴をたどってみると、始まりは少し古くて、昭和30年代なかば、1960年ごろまでさかのぼります。20歳そこそこ、ナマイキなひよっこ青年だった志水さんが、小説づくりの魅力にハマったのは当時、高知で産声をあげたばかりの高知文学学校に入ってからのことです。

 この学校はいまでも頑張って続いています。何が頑張っているのか、というと、昭和32年/1957年に開校した頃からずっと、何かの大組織や企業の後ろ盾があるわけでもなく、「文学にお熱を上げる一般市民」という立場の人たちによって運営されつづけているからです。

 日本の文学学校の勃興は、うちのブログでも簡単に触れてきました。昭和28年/1953年暮に東京で日本文学学校が開校。翌昭和29年/1954年7月に大阪文学学校がスタート。もうひとつ、昭和30年/1955年には京都文学教室が発足。と、既成の概念をだれか上の人たちから押しつけられるのではなく、社会のなかで一人ひとり働く人たちの、草の根の情熱が集結したところから(集結させようという思いから)それぞれの大都市圏で始まります。

 そのうち京都の文学教室の立ち上げに参加した高校教師が、教職員組合に所属していた藤本幹吉さんです。その藤本さんがたまたま高知市の堀詰にある「葉牡丹」という居酒屋で飲んでいたとき、うちの街でも文学を盛り上げていかなきゃいけないよなあ、そうだよなあ、と熱心に語り合ったのが山川久三さん、そして中央公民館の館長をしていた西村時衛さんで、酒席での勢いそのままにがんがんと準備を進めると、昭和32年/1957年11月1日、文学学校の開校にまでこぎつけます。場所は市立中央公民館、木曜・土曜の週2日18時30分から21時まで、6か月を一期とするカリキュラムです。

 定員を100名としたところ、第1期にはそれを超える申し込みが殺到して、けっきょく入学者は140名に膨らんだ、というのですから驚きです。そのすべての人が「小説を書きたい!」と思っていたわけではないでしょうが、「本科」と呼ばれる文学の批評・鑑賞・創作全般を学習する課程を終えた人たちのなかで、わたしはもっと創作がしたいんです、お願いします、と行き場のないパッションを抱えた有志たちが6か月ごとの「研究科」を発足。荒木修さんとか、土佐文雄(藤本幹吉のペンネーム)さんとか、岡林清水さんとか、そういう先生のもとで小説の執筆に向き合います。

 ところで、文学学校というのは何のためにあるんでしょうか。何を為したら成功と言えるんでしょうか。

 そもそも、成功だの失敗だの、そういう価値観で物事をとらえないところに文学活動の魅力がひそんでいる気はします。そうは言っても、ある程度の規模で、お金を集めて、継続的に何かをつづけるには、ときに人の目で見てわかる「成功」が求められてしまうのですから、まったく生きづらい世の中です。高知の文校もやはり、世間からそういう価値観を突き付けられて闘ってきたことが、だいたい10年ごとに出される記念誌にも書かれています。

「私たちは、はじめから文学学校は流行作家を養成するところではないといってきた。もしも文学学校がそんな場所であったとしたら、高知文学学校はこうして十周年を迎えることなしにつぶれていたにちがいない。私たちは「文学学校はタレントを何人出したか」という問いに対しては、これを心ないものとしてしりぞけたが、しかし、私たちは、高知に埋もれている新しい文学の才能を掘り出すことを期待していないわけではない。それは、あくまでも、文学の根底に通じるオーソドックスな作業を通じておのずと生まれいずるものだ、という考えに立ってのことである。」(昭和42年/1967年10月刊『文学高知 高知文学学校十周年記念』所収 西村時衛「刊行にあたって」より)

 プロの作家をたくさん養成することを誇りにしない。むしろ、誰も世に出ていないのに10年、20年と長くつづくことに、文学学校のよさがあるのだ。……というのは、けっして強がりや負け惜しみではないでしょう。ブランドとか、早急な結果とか、経済の繁栄とか、そういうものに一層の価値があるとする社会に、いや、ほんとにそうですかと疑義を持つ。そうだそうだ、たしかに末永く続いていってほしいものだと思います。だけど同時に、こういうことを言っている「文学学校」という組織が苦戦を強いられ、衰退の一途をたどるのも、よくわかります。

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