昭和32年/1957年に小島信夫・庄野潤三、昭和35年/1960年に安岡章太郎が、アメリカに留学する。

▼1950年代終盤以降、アメリカの大学で創作科が盛んになる。
昭和40年代に日本で起きた創作教室の熱は、明らかに海外の影響が見え隠れしています。
海の向こうの、みんなの憧れUSAでは、とっくのとうに創作指導が大学に根づいているよ。日本も見習わなきゃ世界に付いていけないよね。……というような、よくあるといえばよくある米国崇拝の発想が、ちょっと異臭を放っていますけど、海外との関係性なしに日本の近現代文学が成り立たないのは、たしかです。そこを批判しても仕方ないので、少しアメリカの創作科に目を向けてみることにします。
1960年代からさかのぼって、アメリカの大学創作科はどのように発展してきたのか。さまざまな文化現象が途絶・変容した第二次大戦の前と後とで、その発展がどうつながっているのか。よくわかりませんが、少なくともブランシュ・コルトン・ウイリアムズ(Blanche Colton Williams)さんあたりが手探りで始めた1910年代以降、大学の創作科(もしくは創作コース)は商業出版の世界に直結した存在として命脈を保ってきた、と言われています。
戦前の成功例として、日本の文献でもよく見かけるのが、J・D・サリンジャーさんです。
いろんな人が根掘り葉掘り経歴を調べたがるような、第一級のイジられ作家ですから、伝記もたくさん翻訳されています。それを読んでみると、1930年代に出ていた『ストーリー』誌の編集者ウィット・バーネット(Whit Burnett)さんが、ニューヨーク市のコロンビア大学で創作クラスを担当。聴講生のひとりだったサリンジャー青年の小説を見て、おおっ、いいもん書くやつがおるわ、と目をつけると、昭和15年/1940年『ストーリー』誌に彼の短篇 "The Young Folks" を掲載したのが、作家サリンジャーの世に出るきっかけだった……ということです。
日本とは違って、当時のアメリカではすでに、作家が商業出版界で生きるためには、あいだにエージェントなる職業の人たちが入って契約の算段をするという、ビジネスのシステムができていた、と言われます。ちょうど同じころ、日本のいくつかの大学でも創作指導を主とする試みが行われていましたが、アメリカのように根付かなかったのは、そういう出版をめぐる商慣習の違いがあったからだ、という説もあるようです。たしかにそうかもしれません。
それでアメリカでは、ぞくぞくと各地の大学が創作教室をつくり、作家になりたいと思う人たちが一発逆転の夢を秘めてせっせと通っては、ひと握りの人が雑誌掲載もしくは書籍出版までたどりつく、という新人発掘のシステムができていったのだろう。と想像できます。ずっとアメリカ文学に寄り添ってきた宮本陽吉さんも書いています。
「第二次大戦にはいって、アメリカの詩人や作家たちの中には、大学に所属し、創作講座を担当するものの数が次第にふえて行った。(引用者中略)一九五〇年代の後半から現在にかけて、大学に所属する詩人・作家たちの数は激増したし、ことにヘミングウェイ、フォークナー以降の文壇を考える場合には、創作科の存在を無視することが出来なくなった。」(『文芸』昭和40年/1965年12月号 宮本陽吉「アメリカの創作科」より)
ということで、シカゴ大学のソウル・ベロウ、ヴェニントン大学のバーナード・マラムード、アイオワ州立大学のネルソン・オルグレンといった作家のほか、フィリップ・ロス、ロバート・ベン・ウォレン、ハーバート・ゴールド、ロバート・ローウェル、ライト・モリスといった人たちも、現役の実作家でありながら創作講座の指導者として名高い、とつづけています。なかなかの盛り上がりです。
アメリカでは創作講座が大流行り。遅れをとった日本のほうでも、次第にその考え方が導入されて、やがて大学でも創作科が復活していくことになる。……というストーリーで語るのがおそらく適切なんでしょう。じっさい宮本さんがこの文章を書いた昭和40年/1965年から10年、20年後には、日本でもいくつかの大学に創作科らしきものができ、「小説の書き方なんて大学で教えるに値するのかよ」といった古びた批判が繰り返されることになります。
しかし、文学周辺の現象というか社会の現象というのは、意外と複雑なんだなあ、と思うのは、アメリカでの創作科が戦前からずっと栄えていたものではなさそうだからです。
1950年代にはね、大学の創作講座なんて大した存在感もなかったよ。そんなふうに回顧している人がいます。テッド・ソロタロフ(Ted Solotaroff)さんです。
青山南さんの紹介によると、昭和42年/1967年~昭和52年/1977年に『ニュー・アメリカン・レビュー』を編集した人で、1950年代の〈文学至上主義〉の感覚を身にまとった人物なのだとか。そのソロタロフさんがイギリスの文芸誌『グランタ』に書いた「冷気のなかで書く」という文章のことを、青山さんが取り上げてくれています。
「「冷気のなかで書く」で、ソロタロフは、五〇年代の昔は、そこいらじゅうの大学に創作科がある現在とはちがい、アイオワ大学とスタンフォード大学ぐらいにしかそれはなかった、と書いている。それにそもそも、作家などといういかがわしい存在になろうという子供に親が学費を出したがるわけもないし、作家が養成されうるというのも信じがたいことだったから、大学の創作科は作家志望者には縁のないものだった。(引用者中略)ところが、どうだ、一九八〇年代の現在、活況を呈しているかのごとき様相をみせるアメリカ小説界を担っているのは大学創作科の出身者ばかりなのである。いまや、創作科在学中の作家志望者にとって、目標はフォークナーやヘンリー・ミラーではなく、ジョン・アーヴィングやアン・ビーティといった創作科出身の作家になる(原文ルビ)ことになっている。」(平成3年/1991年11月・福武書店刊『世界の文学のいま』所収 青山南「作家たちがこんなにもたくさん消えていった」より ―初出『海燕』昭和62年/1987年6月号)
すみません、「存在感がなかった」とは書いていませんでしたね。失礼しました。ただ、創作科なんて作家志望者の眼中にはなかった、とは言っています。
ということは、アメリカの大学で創作科が職業作家への道として認識されたのはけっこう遅く、1960年代に入ってからなのかもしれません。アメリカ人は実効的だ、作家の養成もシステマティックに行うことに抵抗がなかったのだろう、というのは、そういう面もあるとは思いますけど、少なくともソロタロフさんは「作家が養成されうるというのも信じがたいことだった」と振り返っています。その点は当時の日本の文学関係者が抱いていた感覚と、そこまで変わりありません。創作教育に懐疑的な姿勢です。
むしろ1950年終盤から1960年代という短期間で一気に創作科が広がったそのスピード感こそ、日本の出版文芸との違いを感じるところです。しかし正直いって、日米を比較しようというのは厄介で難しく、頭が付いていきません。とりあえずここら辺で、いったん仕切り直します。
○
▼昭和37年/1962年、小島信夫が自身の経験から、日本での創作科について意見を語る。
アメリカで席捲し始めた現象は、日本にも飛び火する、というのが世の習いです。創作指導に関していうと、日本で名を挙げた文学者をアメリカの大学に留学生として招く、というかたちで国境を越えることになります。
この動きを展開したのは、アメリカのロックフェラー財団です。ロックフェラー財団。と聞くだけで、何だかエラそうでスゴそうな気がしますが、イメージで語ってはいけませんね。ともかく、斎藤禎さんの『文士たちのアメリカ留学 一九五三~一九六三』(平成30年/2018年12月・書籍工房早山刊)でもしっかり語られていますが、この時期は、すでに物書きとして名の知れた人が、一般の日本人では容易に手の届かなかった「海外留学」を、財団からお金を出してもらって招かれるかたちで体験した(体験させられた)時代に当たります。
たとえば、芥川賞の受賞者では、昭和29年/1954年下半期(第32回)受賞の小島信夫さんと庄野潤三さんが、ともに昭和32年/1957年から1年、昭和28年/1953年上半期(第29回)受賞の安岡章太郎さんが、昭和35年/1960年から1年、留学の名目で渡米しました。ここに直木賞の受賞者が組み込まれなかったところに、直木賞の悲しい歴史がひそんでいる気がしますけど、そこは泣いて堪えましょう。小島さんはオハイオ州立大学、庄野さんはオハイオ州ガンビアのケニオン大学、安岡さんはテネシー州ナッシュビルのヴァンダービルト大学に在籍したようです。
「創作科」のハナシに絞ると、なかでも小島信夫さんの存在は外せません。自身の回想では、イヤイヤ籍を置くことになったオハイオ州立大学の創設科で、ポール・エングル(Paul Engle)さんというそのスジでは有名な先生に、自分の短篇を日系二世の女性にほとんど訳してもらって提出したところ、「この程度の文章では駄目だ。小説の文章というものは、こんなものじゃない」と批評された、という経験の持ち主です。
まあ、これから小説家になることをめざしてアメリカに行った人ならともかく、誰かの推薦で、誰かに金を出してもらって、イヤイヤ創作科に通った既成の作家の言うことに、どれだけ価値があるかわかりませんが、しかし1950年代終盤にアメリカの創作コースを実地で体験した目は、1960年代「大学の創作科」がどんなものかよくわからなかった日本の人にとっては、貴重で大切なものだったと思います。
日本でその話題が沸騰する昭和40年/1965年より少し前。小島さんは『學鐙』昭和37年/1962年11月号で「大学内の創作コースについて」と題するエッセイを発表し、創作科について意見を述べています。「創作は教えられるようなものではない」という一般的な意見を、小島さん自身も支持すると書いてはいるんですが、そこに固執することはしません。問題点と可能性をきちんと示唆してくれています。貴重でしょう。
問題点のほうはさておいて、小島さんがこのとき挙げた可能性の部分だけかいつまみます。
ひとつは、「技巧的で上手な作家」を生み出すときに、創作コースのようなものは有効かもしれない、ということ。もうひとつは、教える側の講師を雇う学校の問題として、講師=現役の作家であるこの人が、ゆっくりと想を練ったり次の作品に向き合えるように優遇すれば、おのずと効果も上がるのでは……ということです。
どの程度、小島さんが先を見通していたかはわかりません。しかし、たしかにこの先の日本では、ライティングにあたって技巧や技術が必要な、そういうジャンルの小説もありうる、と多くの出版人が共有する時代がやってきます。また、講師にとって好待遇の環境が整うには、少なくとも経済的な充実が必要ですが、1960年代には無理だったことが、やがて景気の好転がつづいたことで日本でもこれが実現できる日が訪れます。そういう意味では、小説教室の方向性と流行を予言していたのかもしれません。
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