昭和40年/1965年、ユネスコの成人教育国際委員会が「生涯教育」を提唱する。
▼昭和42年/1967年、波多野完治がユネスコの「生涯教育」を積極的に日本に紹介する。
少しずつ現在に近づいてきました。ここで大きな役割を果たすことになるのが、ユネスコ(UNESCO)です。
ユネスコ。正真正銘の国際機関です。偉いのか。ショボいのか。そもそも何をやっている団体なのか。日常生活を送っていてもほとんど接点がなく、正直よくわかりませんけど、これが日本の小説教室の発展に、トンでもない影響を及ぼしたのはたしかでしょう。
と、相変らず勢いで書いてしまいました。すみません。ユネスコがやっているさまざまな活動のなかの、ほんのひとつが回りまわって「創作を教える」とか「創作を学ぶ」とか、そういう文化に微妙な変化をもたらした……というぐらいの表現にとどめておきたいと思います。
発端は昭和40年/1965年のことです。フランス人のポール・ラングランさんが「生涯にわたる統合化した教育(lifelong integrated education)」を提唱、ユネスコ本部の成人教育国際委員会で採用されました。いわゆる「生涯教育」というやつです。これがそこから波及していき、日本のほうでも波多野完治さんという、まずまず知られた教育学者が積極的に紹介してくれたことで、徐々に浸透していくことになります。昭和42年/1967年に日本ユネスコ国内委員会から刊行された『社会教育の新しい方向――ユネスコの国際会議を中心として』をまとめたのも、波多野さんです。
「学習」や「勉強」は、幼少期から青年期にかけての、人生の一時期だけの事柄じゃない。年をとり、ヨボヨボに老いてもなお、生涯死ぬまでつづくんだ。という概念をすべての人が享受できるような、より豊かな社会をつくっていこうではないか! ……というのは、おお、何とも素晴らしい提言です。
社会には、働いている大人がいます。結婚して子育てなどに時間をとられる人もいます。彼らだって、誰だか知らないフランスのおっちゃんに言われなくたって、ずっと学びたかったことでしょう。たとえばそれまでも、欧米では成人学校というものがたくさんできていて、大正5年/1916年にアメリカのデンバー市にできた成人学校は、大正から昭和初期のころには教員100名以上、生徒も1万人近くを抱える大規模な組織になっていたそうです。日本では民間のものもポツポツとありましたが、火がつきはじめたのは戦後のこと、とくに昭和24年/1949年に開設された川崎市の成人学校など、各地の公民館や学校を舞台に、地方のお役人さんたちが手掛ける社会教育の仕事として、さまざまな講座が行なわれたりします。
しかし、戦後10年、20年と経つまでのあいだは、仕事してお金を稼ぎ、家族を養うことが先決だ。と言わんばかりの風潮が幅をきかせました。小説を書いてプロの作家になりたい人がいたとしても、それじゃまず公民館の講座に通ってみようか、とはなりません。
創作に興味があるなら、地元でやっている同人雑誌に入会して、先輩の同人たちにバカにされたりおチョクられたりする、という屈辱の関門をくぐり抜けるのが通例だった、と言っていいと思います。人はどうやって職業作家になるか。そのこと自体は、べつに文学やら芸術とは何の関係もないんですけど、昔からそうやっているというだけで、そっちが文学修業の王道なんだ、と言い出す連中がいるのが、人間集団のイヤらしいところです。ということで、「同人雑誌で修業しろ」論は、戦後けっこう深く根を張りつづけます。
ともかくも、そんななかで生涯教育の考えがワーッと盛り上がり、日本に入ってきたのが1960年代半ば。ちょうど、学生たちの青っちょろいパワーが噴き出して、大学教育の現場も大混乱、国としての教育体制も変革を求められていた時期です。
『生涯学習論』(平成11年/1999年5月・福村出版刊、川野辺敏・山本慶裕・編著)の「第3章 生涯学習の歴史2――日本を中心に」を担当した澤野由紀子さんのまとめを参考にすると、ユネスコの提唱した「生涯教育」は、さらに昭和45年/1970年、OECD(経済協力開発機構)が学校教育の機会均等を促して提案した「リカレント教育」などとも結びつきます。1970年代に入ってからは、第一次(昭和48年/1973年)と第二次(昭和51年/1976年)にわたる石油ショックの影響で、国際的には少し停滞の憂き目を見ますが、その間も経済成長を進めた日本では、過酷な受験社会だとか、非人道的な学歴社会だとかが顕在化。まずい、このままでは国が傾くぞ、という危機感が広がるなかで、生涯教育を含めた教育のかたちをどうやって再構築するか、模索の時を迎えます。
いっぽうで、文化の流れも大きく揺れ動いていました。テレビの一般的な普及や、映画の盛り上がりといったものから、中間小説誌のバカ売れ、マンガ雑誌の多彩化といったものまで、大量消費を前提とした現象が進化し、既成の文芸に対する印象にもゆらぎが走った時代です。ちなみに、大衆文芸の直木賞のほうがいよいよ、純文芸の芥川賞より注目されるようになってきた、みたいなことを尾崎秀樹さんが洩らしたのが、第60回直木賞(昭和43年/1968年・下半期)の頃。60年代の終わりのハナシです。
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▼昭和43年/1968年、早稲田大学第一文学部が文芸科を設立。
やがて訪れる1970年代は、はっきり言って日本の創作指導史のなかでは、最大の転換期と言っていいと思います。その話題については何週か前に紹介した、昭和55年/1980年1月号同人雑誌評の小松伸六さんの文章にも現われていました。朝日新聞社が総合的で大規模なカルチャーセンターを設立して、いきなり大成功したこと。そして、早稲田大学がわざわざ「文芸科(文芸専修)」を設置して、そこから作家が世に出たこと。2つの大爆発が起きた時代です。
70年代のこの10年、直木賞のほうでも受賞作なしが多発した、とても特徴的で面白い歴史を刻んだ時代だった。……というのは、うちのブログでも何度か書いてきました。いちおうしつこく繰り返しておきます。
大衆文化の社会が到来して、中間小説誌が栄華を誇り、芥川賞より直木賞のほうが注目されるようになった、と言われはじめた昭和43年/1968年下半期から、一般的には同人雑誌が全国的に大量に群生する流れがありましたが、それと反比例して、直木賞の候補からは徐々に同人雑誌の作品が減っていき、新書版ノベルスが流行して「直木賞受賞なし」が異常なほどに発生。対する芥川賞のほうでは村上龍さんが登場して(第75回 昭和51年/1976年・上半期)、おお、文芸もカネになるんだという風景が日本国民の目の前にさらされると、芥川賞の受賞作が何十万部も売れる時期がしばらく継続するという、それまでにもなく、その後もない不思議な「ベストセラーの世界での芥川賞天下」の数年がつづくそばでは、昭和54年/1979年・上半期、中山千夏さんの書いた小説が直木賞の候補に挙がったことから、いよいよ「芸能人の小説」が世間をにぎわせる段階へと突入する……。
確実に現在、令和2年/2020年にまで続いている直木賞(と芥川賞)の、だいたい叩かれがちな際立った特徴が、一般に広まったのが1970年代だった、と言っても過言ではないでしょう。その時期に、小説教室もまたステップアップの時期を迎えていた、というのはとても偶然とは思えません。いや偶然かもしれません。まあ、世のなかのすべては、いろいろなことがからみ合っていますので、必然だったと強弁しておきたいところです。
早稲田大学に文芸専修(文芸科)ができたのは、第一文学部のほうが昭和43年/1968年、第二文学部(夜間の学部)では昭和45年/1970年のことでした。早稲田の文学界隈では新庄嘉章さんが中心となって当時の文壇作家とのパイプを意識した第七次『早稲田文学』を創刊したのが、ちょうどそれと重なる昭和44年/1969年初めのこと。一年ごとの「編集長」制を敷いた二年間で、その席を任されたのが、立原正秋さんと有馬頼義さんだった。……と、ここで芥川賞の受賞者じゃなく直木賞の人たちが引っ張ってこられているところが、1970年前後に見える新しい局面です。
当時、初期の早稲田文芸科で真っ先に売れた人といえば、荒川洋治さん、見延典子さん、そして中島梓(栗本薫)さんの3人ということになるでしょう。ほかに川北亮司さん、五十嵐勉さんもおよそ1970年代の文芸科から出た、多少名前の知られる人たちです。
しかし、そのころの文芸科は、全然創作を教えるような教室じゃなかった、と中島さんは証言しています。
「文芸科そのものだって、べつだん、世間の方々のお考えになっているような、小説家、もの書き養成所、というわけではないのである。たとえば私は専門課程の二年間を文芸科で過ごして、ただの一回も、「小説の書き方」「創作講座」といったものが開講されるところを見たことがない。
あるいは、教授に小説を提出して添削指導をうけた、ということもない。(引用者中略)その点では、たとえ、世間の人々がどのように思いこんでいようと、マスコミが、どのように「作家養成所」と取沙汰しようと、実際の早大文芸科は、重兼芳子さんを生んだ「朝日カルチャーセンター」や、話にきくバークレー大学なぞの「創作講座」とはまるっきり性格を異にしている。これだけは、当の卒業生の一人として、最初に断言しておきたいことである。」(『文藝春秋』昭和55年/1980年6月号 中島梓「中島梓の現代風俗探偵帖その4 あずさと「作家養成所」」より)
ということで、とくに見延さんの『もう頬づえはつかない』(昭和53年/1978年11月・講談社刊)が、若くして女の子がデビュー、50万部ぐらい売り飛ばした……みたいな、いかにもマスコミの人たちの好きそうな(ということは、ゴシップ好きのワタクシたちが好きそうな)話題性があって、それが後の文芸科を変質させた要因だったのかもしれません。
書きたい人は書く。書かない人は書かない。はじめは早大の文芸科も、そんな当たり前の、特段語るべきものを持たない他の文学部と似たようなものだったらしい、ということです。ところがポツポツと結果が出てしまったために、「創作を指導のなかに入れてもいい」という文芸科の枠組みが俄然生きてくることになります。70年代。創作を教える作家の養成が、多くの人たちの目に強烈に光りはじめた時代の幕開きです。
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