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2020年9月20日 (日)

昭和42年/1967年以降、アメリカのアイオワから「創作教育」の風が日本に流れ込む。

20200919

▼昭和42年/1967年、ポール・エングルがアイオワ州立大学でIWPを始める。

 アメリカの創作科って言っても、多くの日本人にとっては遠い世界の絵空事だったはずです。それが1960年代以降、急激に(?)日本でも身近なものになったのは、何と言ってもアイオワ州立大学のおかげでしょう。

 大学のおかげ、というよりかは、ポール・エングル(Paul Engle)さんとその妻、聶華苓(ニエ・ホアリン、Nieh Hua-ling)さんのおかげです。ご両人のやる気、行動力、そして破格な宣伝能力の高さ。これらが濃密に混ざり合った結果、創作教育の盛んな大学としてアイオワ州立大学が国際的に有名になったからです。

 と、書きはじめたのはいいんですが、ワタクシもよく知らなかったので、調べてみたところ、『三生三世 中国・台湾・アメリカに生きて』という聶さんの自伝が出ているではないですか。日本でも島田順子さんの訳で平成20年/2008年10月に藤原書店から出版されています。ニエ・ホアリン? 誰だよ、と鼻であしらってはいけません。まあ、あしらわないにしても、日本人のほとんどが首をかしげるはずの聶さんの本が、どうして刊行されるにいたったのか。きっと高い障壁があったものと思います。

 翻訳の出版にいたったのは、詩人の吉増剛造さんによる尽力のおかげ、と訳者あとがきに書いてあるので、たぶんそうなんでしょう。吉増さんはアイオワ大に留学した経験をもち、長いあいだエングルさん夫妻と深い親交を結んできたんだとか。いわば、創作教育を通じて広がった国際性の輪が、東アジアにぽつりと浮かぶ、吹けば飛ぶような小さな国で、こうして一冊の本に結実した、というわけです。

 ということで『三生三世』を読んで新鮮に感じるのは、「創作を指導する」「創作をスクールで学ぶ」という制度を、聶さんが自然に受け入れているところです。ときに夫のエングルさんは、新しい文学教育にお金を出したがらない旧弊な大学関係者を、石頭の連中だ、と批判していたとも言います。そんな夫の考えに、聶さんも近かったのかもしれません。

 アメリカに行くまえ、聶さんは台湾の文芸界の荒波に揉まれ、苦労しながら育ちます。なにぶんこちらが台湾の事情をよく知らず、断定的に書けないのが残念ですけど、聶さんの略歴には「1962年から1964年まで台湾大学と東海大学で小説創作を教える。」とありますし、本文中でもエングルさんと出会ったばかりの昼食の席で、彼女が教えている創作の授業について語った、と出てきます。

 なるほど、1960年代の前半、台湾の大学にはすでに創作科があったのか。日本ではまだまだ、それを採り入れた大学を見かけない時代です。小説の指導に関して、台湾は日本よりアメリカに近い土壌があった、ということなんでしょう。

 台湾にやってきたエングルさんと出会い、聶さんはしつこく求愛されたすえにアイオワに渡り、ともに愛を深めていきます。と同時に、二人で大学の創作科を世界に知られるような動きをしていきます。両者の尋常ではないバイタリティが、自伝からも伝わってきますが、人づきあいを熱く深く広げていくときのリアルな人間的魅力が、組織を確固たるものにするんだなあ、とよくわかります。そんなもの、「文学」とはべつに関係ないかもしれません。ただ、小説教室もひとつの組織ですから、身すぎよすぎの泥水を飲むような活動も、また重要です。

 夫のエングルさんは、「猟犬は肉や骨を嗅ぎ分けるけど、私は才能を嗅ぎ分けるんだ」(『三生三世』より)という、うまいのか下手なのかよくわからない比喩を繰り出していたらしく、この自信満々な感じがゲンナリするところですが、創作教育の理念は、いまもしっかりアイオワに根づいているようです。彼の偉大さは、アメリカでは常識なのかどうなのか、少なくとも日本ではあまり知られていない気がします。彼の伝記なども日本語で読める日が来ればいいな、と期待しています。

 さて、同大学の創作教室についてもう少し踏み込むと、無名な人たちが自ら志願して入学・受講したあと、小説やノンフィクションや詩やそういったものの書き方を学ぶという、よくある(?)ライティングのワークショップが展開されているそうです。昭和11年/1936年にウィルバー・シュラム(Wilbur Schramm)さんたちによって創設された、と言います。

 しかし待っているだけでは、なかなか拡散しません。そこでエングルさんは、コツコツと積み上げた膨大な人脈のツテをたどり、世界各国で活躍している現役の作家、詩人、その他文学という不思議なフィールドでおゼゼを稼いでいるプロの書き手に、うちで留学の費用をどーんと持ちますんで、ひとつ足を運んでくださいな、と招き入れる制度を始めます。聶さんの発案だったそうです。インターナショナル・ライティング・プログラム、略称IWPと呼ばれています。

 昭和42年/1967年に始まったIWPに、これまでにどんな日本人が参加してきたのか。『三生三世』の巻末にも載っていますし、同大学のサイトのなかにあるページでも確認できます。なかには帰国後に、アイオワでどんな経験をしたのか、文章に残した人たちもけっこういるので、それを調べて読み込んでいくだけで一生が終わってしまいそうな勢いです。

          ○

▼昭和39年/1964年、宮本陽吉がアイオワ大学創作科に留学する。

 IWPの参加者リストは、多少なりとも日本の文学まわりの変遷を反映しているのかもしれません。

 直木賞でいうと、平成22年/2010年・上半期に受賞する中島京子さんが、平成21年/2009年のところに、一人だけ名前が挙がっています。ぐりぐりと二重丸を付けておきたいところですが、50年以上の歴史をもつプログラムなのに、他の小説家はみな、直木賞とは違う分野のほうで名を見かける人ばかり。正直、違和感を覚えると言いますか、その偏り加減に悲しさが漂うリスト、と言っておきましょう。

 悲しんでばかりいても仕方ありません。このIWPに昭和44年/1969年に参加した宮本陽吉さんはアメリカ文学を専門とする学者であり翻訳家ですけど、それよりまえの昭和39年/1964年から1年間、同大学の創作科に招かれて、ワークショップの翻訳コースで学んだ経験も持っています。帰国後に、アメリカの創作科っていったいどんなところなのか、くわしい様子を各誌で紹介するなど、日米の懸け橋にもなった人で、先週のブログでも一部、文章を引用させてもらいました。

 創作科を紹介する宮本さんの文章を読めば読むほど、浮き上がってくるのは、カネ集めとか、カネ稼ぎとか、創作科そのものがビジネス社会の一端を担っている、世知がらい状況です。

「詩、小説、短篇とジャンル別に設けられている仕事場(引用者注:前半では「ワークショップ」とルビが振られている)は、ジャーナリズムと直結する最終段階で、ここの討議を通過した作品は、つぎつぎにニューヨークやシカゴの出版社に売りに出されていた。なかでも、短篇の仕事場は詩についで多く、クラスは四十人前後、中堅作家と若手という組合わせで二人の講師が出席した。」(『新潮』昭和41年/1966年2月号 宮本陽吉「アイオワ大学創作科にて」より)

 『文芸』昭和40年/1965年12月号「アメリカの創作科」のほうでは、このあたりもう少し詳しく描かれています。とにかく資金集めに奔走するエングルさんは、受講者のだれが何に受賞したとか何を出版したとかを書き込んだリストをつくって、財団からおカネを出してもらうための資料にしているとか、出版交渉に当たったり書評の掲載をメディアに売り込んだり、熱心に出版プロデューサーまがいのことをしていたそうです。えらいぞエングル。

 文学は芸術であって神聖なもの。……という考え方は、まあ、そう信じたい人にとってはそれでいいんですが、けっきょく人間が生み出し、人間が受容するものですから、人間がつくり上げた経済的な仕組みに乗せていけないことはありません。創作指導はまたおカネの問題でもある。そのことを世界じゅうに知らしめたアイオワ州立大学の試みは、日本の小説教室の発展を見るうえでも、大切なものだと思います。

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コメント

御無沙汰してます。『三生三世 中国・台湾・アメリカに生きて』、恥ずかしながら知りませんでした…!ほんとうに恥ずかしい。記事を拝見して「お、おう?」と変な呼吸をしてしまいました。丁度今、私も1950年代の作家のアメリカ留学について調べたりしていて、創作科のお話について「おおそういうことか」と思ったり。戦後の台湾については、赤松美和子さんが、『台湾文学と文学キャンプ―読者と作家のインタラクティブな創造空間』という御著書を出していますが、学校教育、反共教育と関連させて、義務教育で創作・投稿を実施し(「幼獅文芸」(ユース文芸の当て字。若者文芸とかそういう意味の雑誌)という雑誌に、強制的に投稿させたり)、夏には合宿形式で生徒・学生に創作を学ばせる「文学営(文学キャンプ)」を実施する、という仕組みが出来ていたそうです。私も16年前、この文学キャンプに代打で講師になりました(日本の農民文学を語る!という、無茶な代打で死にそうでした…夜は孤独ですし)が、文学キャンプは台湾の若者の夏の風物詩、反共教育から離れた今も人気のイベントとしてつづいています(今年はやってないかもですが)。
ごちゃごちゃ書き込みしてすみませんでした!来週も楽しみにしております。

投稿: 和泉司 | 2020年9月25日 (金) 11時44分

和泉司さん

こちらこそ、ご無沙汰していてすみません。
こちらは相変らず、まとまりのつかないブログを書きなぐって無益に時間をつぶしています。
コメントいただき、大変うれしいです。

寄せていただいたコメントを読んで、こちらも思わず「おおっ」と、うなってしまいました。
「文学キャンプ」なる試みが台湾で伝統的に実施されてきたとのこと。
そうなんですか! まるで知りませんでした。
ありがとうございます。赤松さんの本も読んでみます。

投稿: P.L.B. | 2020年9月25日 (金) 23時22分

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