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2020年9月 6日 (日)

昭和40年/1965年、大学に創作科は必要か、という議論が盛んになる。

20200906

▼昭和26年/1951年、スタンフォード大学創作科のスティーグナーが、慶應義塾で講演。

 太平洋戦争の開戦から終戦後にいたる1940年代~50年代。日本の小説教室は、不毛の時代でした。

 いや、それは小説教室だけじゃないだろ。とツッコみたくなるのはたしかです。しかし、その時期でも、戦火が身近にせまっているのにイケイケでやっていた文学賞とか、日本の降伏から間をおかずに復活していった出版文化・商業文芸とか、不毛だったとは言えないものもあります。そんな歴史のなかにおくと、創作教育にぽっかりと空白の期間があった(ように見える)のは否めません。

 さかのぼって戦前の創作教室は、大勢の学生からお金を徴収して、給料をもらった先生が指導をおこなう、という学校制度のなかに組み込まれていました。昭和はじめの1930年代、出版経済が成長を遂げるなかで、教育機関のほうでもそれを担う文筆業の人たち(いまでいうと、ライターってやつ)を育成しなきゃいかんだろう、と菊池寛さんや山本有三さんなどが矢面に立ってつくられた、文芸創作のいくつかの学科。しかし、そういうせっかくの志も、国家総出で戦争に突入、あえなく撃沈してしまったことのあおりを受けて、けっきょく教育界に広がることのないまま、うやむやのうちにしぼんでしまいます。

 まあ、思いっきり戦に負けてしまったわけですから、隅から隅までみんな反省モードに陥るのは仕方ありません。教育の世界も、これまでのやり方はぜんぶ駄目だったんだ、そうだそうだ、と言わんばかりの改革に乗り出し、昭和20年代前半の大学は「新制」の態勢を整えるのに精いっぱい。創作指導とかいう、何のためにあるのかわからないチッポケな教育は、どこかにふっとんでしまいました。

 いっぽう、戦争に負けなかった国では、1930年代以降もいちおう創作指導は生き残り、順調につづいていたようです。

 そういう海の向こうのハナシは、日本にも多少伝わってきていたと思われます。ひとつ例を挙げると、アメリカのウォレス・スティーグナー Wallace Stegner さんが日本にやってきた一件です。

 昭和24年/1949年に出た『アスピリン・エイジ』(昭和46年/1971年4月・早川書房刊、イザベル・レイトン編、木下秀夫訳、原著“THE ASPIRIN AGE”、昭和24年/1949年刊)という本で、スティーグナーさんは「ラジオの神父とその信者」の章を担当しているんですが、訳書の略歴にこう書かれています。

「ウォレス・スティーグナー氏はアイオワ州に生れ、ユタ、カリフォルニアなど西部の諸州で成長した。(引用者中略)かれはこれまでに数篇の小説を発表しており、そのなかには広く各方面の賞賛を博した『笑いの回想(原文ルビ:リメンバリング・ラッター)』(一九三七年)、『ザ・ビッグ・ロック・キャンデイ・マウンテン』(一九四三年)、ユタ州を描いた『モルモン州の国(原文ルビ:カントリー)』、アメリカとアメリカ国民を題材として『一つの国民(原文ルビ:ワン・ネイション)』がある。スティーグナー氏は現在スタンフォード大学で創作科を担当している(スティーグナー氏は一九五一年一月来日して約一ヵ月間滞在した。その間慶応義塾大学その他で現代アメリカ文学にかんする講演を数回行なった)。」

 おお、昭和26年/1951年に慶應義塾で行われたスティーグナーさんの講演……。といえば、かなり昔にうちのブログでも触れたことがあります。

 質疑応答の時間に、聴衆のひとりだった女性が手をあげて立ち上がり、私は小山いと子という日本の作家だ、純文学のつもりで書いた小説で、最近、直木賞という大衆文芸の賞を与えられた、日本では私小説のようなものしか純文学とは認められていないようだ、うんぬんと不平不満をぶつけたところ、スティーグナーさんから「あなたの高いクオリティーの小説に大衆小説の賞が与えられて、多くの読者に迎えられたことは大変羨ましいことだ」とか何とかはぐらかされて、場内ぬるい笑い声が起きた、とか何とかいう(平成18年/2006年5月・紅書房刊 大久保房男・著『終戦後文壇見聞記』)、直木賞、悲しき一場面です。

 ともかくこのとき慶應が招いたことで、スティーグナーというアメリカのエラい(?)先生が、名門スタンフォード大で、あろうことか創作を教えているらしいぞ! ということは一部には知られたんだろうと思います。ところが日本の大学関係者が、その風土をすぐに受け入れた形跡は見えません。1930年代の文芸科三羽ガラス(文化学院、明治大、日大芸術科)の伸び悩みを顧みて改善を模索していた、という雰囲気も、とくにありません。そうこうするうちに日本の大学は、「文学学校」といういわば草の根の試みに、創作指導では一歩先を越されてしまいます。

 というところで、先週のハナシを振り返ります。『文學界』同人雑誌評で久保田正文さんが書きました。「文学は教えることができるか、というふうなことがこのごろ問題になっている。」……これが掲載されたのは昭和41年/1966年2月号ですから、前年、昭和40年/1965年終盤の文章です。

 昭和40年/1965年は、どんな年だったでしょう。直木賞にとっても大きな区切りを迎えていた、というのがワタクシの目から見える直木賞の歴史です。というのも昭和40年/1965年に受賞したのが、第53回(上半期)藤井重夫「虹」、第54回(下半期)新橋遊吉「八百長」と千葉治平「虜愁記」。それが昭和41年/1966年には、第55回(上半期)立原正秋「白い罌粟」、第56回(下半期)五木寛之「蒼ざめた馬を見よ」と、大きく様変わりする激動の渦中にありました。いわば直木賞の中心が、職業的な意識のないところで小説を書く素人あるいは同人誌の作家から、売文の経済活動を積極的に受け入れるプロ作家へと転換したのが、この年。昭和40年/1965年だったというわけです。

 この時期、巷では「文学は教えることができるか」問題が起きていたと言います。いったい何だったんでしょうか。

          ○

▼昭和40年/1965年、山本健吉が「大学に創作科は必要ない」と断言する。

 発端は、大学の文学部に関する一般的な議論の盛り上がりにあった、と言われます。昭和36年/1961年の年末ごろから「文学部組替え論議」というものが騒がしくなり、「女子大生亡国論」なんてものも楽しく(?)叫ばれたりなかで、「最近の文学部を志望する若者はなっとらん」式の、おなじみ感のありすぎる若者論が横行した時代です。

 そういったなかで英文学者の福原麟太郎さんが、アメリカと日本の大学事情をさらっと紹介しながら、アメリカでどんどん実行されている創作指導の講座を、日本でもしたほうがいいのかどうなのか、つれづれにエッセイに書きとめます。「文科の学生」の一篇です。

「もし大学の文学科が創作家を養成するところならば、(引用者中略)簡易なる、実際的比較文学講座と、創作指導講座、この二つがその中心をなすべきであろう。然るに、わが国の諸大学は、殆ど全部それらを欠いている。そして、詩人小説家の卵達は、国文学やフランス文学や美学を学んでいるという状態である。然し、よしんば、創作家に適当な講座があったにしても、そこから創作家が出るかという事になると、これは、芸術大学から良い音楽家や洋画家が出るかという問題よりも、もっとむずかしい。創作家にとっては、音楽家や洋画家の前にあるような技術というものが、殆ど重きをなしていないからである。いくらかでも技術がものをいう芸は、教えることが出来る。然し創作家に教える技術というものは、非常に初歩の段階に過ぎないのではないか。」(昭和39年/1964年11月・新潮社刊 福原麟太郎・著『野方閑居の記』「文科の学生」より)

 どういうことでしょう。アメリカでやっていて成果も上がっているから日本でもやったほうがいい、とは安易に言わないところが、福原さんの慎み深さかもしれません。明治以来に培われてきた日本の「文科」、たとえば早稲田、三田(慶應義塾)などの例を引き、明大や日大芸術科のことにも触れながら、しかしけっきょく「創作指導」に特化しない現状の体制は、創作家を生むという意味ではいいのではないか……と、そういうことを、たぶん言っているんだと思います。

 赤塚行雄さんによると、この福原エッセイがきっかけになって、昭和40年/1965年に入って一気に「大学創作科問題」と呼ばれるものが勃発(昭和41年/1966年5月・思潮社刊『新版・悪魔の辞典/言葉のトレーニングのために』所収「「文学部改組」及び「大学創作科」問題小史」)。さまざまな媒体が、果たして文学は(いや小説を書くことは)教えられるのだろうか、と意見を載せ始めます。

 そのひとつが、『群像』昭和40年/1965年5月号に載った座談会「文学は教育できるか」です。出席者は手塚富雄さん、山本健吉さん、白井浩司さん。司会役は編集部。

 と、この当時『群像』の編集長をしていたのは大久保房男さんなんですが、編集部の発言(というか質問)のなかに「将来の問題として、大学にはやはり綴方教室のような、スタンフォード大学のウォーレス・ステグナー教授のやつているような、創作指導の科が設けられる必要があるでしようか」という一節があります。前段で触れた慶應義塾での講演と結びつけると、これは当時スティーグナーさんの話をじかで聴いていた大久保さんの発言ではないか、とつい想像したくなるところです。

 それはともかく、各人これにどう返答したか見てみると、山本健吉さんなどは、とりつく島もなく「必要がない」と切り捨てました。出たな頑陋オヤジ山本健吉の面目躍如、といったところでしょう。藝術としての文学はもっと神聖なもの、という意識なのか、大学はもっと立派でお堅い場所、という感覚なのか、昭和40年/1965年の議論のなかでは、山本さんのような人もまだまだ多く、日本の大学が創作教育に動く土壌は整っていなかった、と見て取れます。

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