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2020年9月の4件の記事

2020年9月27日 (日)

昭和40年/1965年、ユネスコの成人教育国際委員会が「生涯教育」を提唱する。

20200927

▼昭和42年/1967年、波多野完治がユネスコの「生涯教育」を積極的に日本に紹介する。

 少しずつ現在に近づいてきました。ここで大きな役割を果たすことになるのが、ユネスコ(UNESCO)です。

 ユネスコ。正真正銘の国際機関です。偉いのか。ショボいのか。そもそも何をやっている団体なのか。日常生活を送っていてもほとんど接点がなく、正直よくわかりませんけど、これが日本の小説教室の発展に、トンでもない影響を及ぼしたのはたしかでしょう。

 と、相変らず勢いで書いてしまいました。すみません。ユネスコがやっているさまざまな活動のなかの、ほんのひとつが回りまわって「創作を教える」とか「創作を学ぶ」とか、そういう文化に微妙な変化をもたらした……というぐらいの表現にとどめておきたいと思います。

 発端は昭和40年/1965年のことです。フランス人のポール・ラングランさんが「生涯にわたる統合化した教育(lifelong integrated education)」を提唱、ユネスコ本部の成人教育国際委員会で採用されました。いわゆる「生涯教育」というやつです。これがそこから波及していき、日本のほうでも波多野完治さんという、まずまず知られた教育学者が積極的に紹介してくれたことで、徐々に浸透していくことになります。昭和42年/1967年に日本ユネスコ国内委員会から刊行された『社会教育の新しい方向――ユネスコの国際会議を中心として』をまとめたのも、波多野さんです。

 「学習」や「勉強」は、幼少期から青年期にかけての、人生の一時期だけの事柄じゃない。年をとり、ヨボヨボに老いてもなお、生涯死ぬまでつづくんだ。という概念をすべての人が享受できるような、より豊かな社会をつくっていこうではないか! ……というのは、おお、何とも素晴らしい提言です。

 社会には、働いている大人がいます。結婚して子育てなどに時間をとられる人もいます。彼らだって、誰だか知らないフランスのおっちゃんに言われなくたって、ずっと学びたかったことでしょう。たとえばそれまでも、欧米では成人学校というものがたくさんできていて、大正5年/1916年にアメリカのデンバー市にできた成人学校は、大正から昭和初期のころには教員100名以上、生徒も1万人近くを抱える大規模な組織になっていたそうです。日本では民間のものもポツポツとありましたが、火がつきはじめたのは戦後のこと、とくに昭和24年/1949年に開設された川崎市の成人学校など、各地の公民館や学校を舞台に、地方のお役人さんたちが手掛ける社会教育の仕事として、さまざまな講座が行なわれたりします。

 しかし、戦後10年、20年と経つまでのあいだは、仕事してお金を稼ぎ、家族を養うことが先決だ。と言わんばかりの風潮が幅をきかせました。小説を書いてプロの作家になりたい人がいたとしても、それじゃまず公民館の講座に通ってみようか、とはなりません。

 創作に興味があるなら、地元でやっている同人雑誌に入会して、先輩の同人たちにバカにされたりおチョクられたりする、という屈辱の関門をくぐり抜けるのが通例だった、と言っていいと思います。人はどうやって職業作家になるか。そのこと自体は、べつに文学やら芸術とは何の関係もないんですけど、昔からそうやっているというだけで、そっちが文学修業の王道なんだ、と言い出す連中がいるのが、人間集団のイヤらしいところです。ということで、「同人雑誌で修業しろ」論は、戦後けっこう深く根を張りつづけます。

 ともかくも、そんななかで生涯教育の考えがワーッと盛り上がり、日本に入ってきたのが1960年代半ば。ちょうど、学生たちの青っちょろいパワーが噴き出して、大学教育の現場も大混乱、国としての教育体制も変革を求められていた時期です。

 『生涯学習論』(平成11年/1999年5月・福村出版刊、川野辺敏・山本慶裕・編著)の「第3章 生涯学習の歴史2――日本を中心に」を担当した澤野由紀子さんのまとめを参考にすると、ユネスコの提唱した「生涯教育」は、さらに昭和45年/1970年、OECD(経済協力開発機構)が学校教育の機会均等を促して提案した「リカレント教育」などとも結びつきます。1970年代に入ってからは、第一次(昭和48年/1973年)と第二次(昭和51年/1976年)にわたる石油ショックの影響で、国際的には少し停滞の憂き目を見ますが、その間も経済成長を進めた日本では、過酷な受験社会だとか、非人道的な学歴社会だとかが顕在化。まずい、このままでは国が傾くぞ、という危機感が広がるなかで、生涯教育を含めた教育のかたちをどうやって再構築するか、模索の時を迎えます。

 いっぽうで、文化の流れも大きく揺れ動いていました。テレビの一般的な普及や、映画の盛り上がりといったものから、中間小説誌のバカ売れ、マンガ雑誌の多彩化といったものまで、大量消費を前提とした現象が進化し、既成の文芸に対する印象にもゆらぎが走った時代です。ちなみに、大衆文芸の直木賞のほうがいよいよ、純文芸の芥川賞より注目されるようになってきた、みたいなことを尾崎秀樹さんが洩らしたのが、第60回直木賞(昭和43年/1968年・下半期)の頃。60年代の終わりのハナシです。

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2020年9月20日 (日)

昭和42年/1967年以降、アメリカのアイオワから「創作教育」の風が日本に流れ込む。

20200919

▼昭和42年/1967年、ポール・エングルがアイオワ州立大学でIWPを始める。

 アメリカの創作科って言っても、多くの日本人にとっては遠い世界の絵空事だったはずです。それが1960年代以降、急激に(?)日本でも身近なものになったのは、何と言ってもアイオワ州立大学のおかげでしょう。

 大学のおかげ、というよりかは、ポール・エングル(Paul Engle)さんとその妻、聶華苓(ニエ・ホアリン、Nieh Hua-ling)さんのおかげです。ご両人のやる気、行動力、そして破格な宣伝能力の高さ。これらが濃密に混ざり合った結果、創作教育の盛んな大学としてアイオワ州立大学が国際的に有名になったからです。

 と、書きはじめたのはいいんですが、ワタクシもよく知らなかったので、調べてみたところ、『三生三世 中国・台湾・アメリカに生きて』という聶さんの自伝が出ているではないですか。日本でも島田順子さんの訳で平成20年/2008年10月に藤原書店から出版されています。ニエ・ホアリン? 誰だよ、と鼻であしらってはいけません。まあ、あしらわないにしても、日本人のほとんどが首をかしげるはずの聶さんの本が、どうして刊行されるにいたったのか。きっと高い障壁があったものと思います。

 翻訳の出版にいたったのは、詩人の吉増剛造さんによる尽力のおかげ、と訳者あとがきに書いてあるので、たぶんそうなんでしょう。吉増さんはアイオワ大に留学した経験をもち、長いあいだエングルさん夫妻と深い親交を結んできたんだとか。いわば、創作教育を通じて広がった国際性の輪が、東アジアにぽつりと浮かぶ、吹けば飛ぶような小さな国で、こうして一冊の本に結実した、というわけです。

 ということで『三生三世』を読んで新鮮に感じるのは、「創作を指導する」「創作をスクールで学ぶ」という制度を、聶さんが自然に受け入れているところです。ときに夫のエングルさんは、新しい文学教育にお金を出したがらない旧弊な大学関係者を、石頭の連中だ、と批判していたとも言います。そんな夫の考えに、聶さんも近かったのかもしれません。

 アメリカに行くまえ、聶さんは台湾の文芸界の荒波に揉まれ、苦労しながら育ちます。なにぶんこちらが台湾の事情をよく知らず、断定的に書けないのが残念ですけど、聶さんの略歴には「1962年から1964年まで台湾大学と東海大学で小説創作を教える。」とありますし、本文中でもエングルさんと出会ったばかりの昼食の席で、彼女が教えている創作の授業について語った、と出てきます。

 なるほど、1960年代の前半、台湾の大学にはすでに創作科があったのか。日本ではまだまだ、それを採り入れた大学を見かけない時代です。小説の指導に関して、台湾は日本よりアメリカに近い土壌があった、ということなんでしょう。

 台湾にやってきたエングルさんと出会い、聶さんはしつこく求愛されたすえにアイオワに渡り、ともに愛を深めていきます。と同時に、二人で大学の創作科を世界に知られるような動きをしていきます。両者の尋常ではないバイタリティが、自伝からも伝わってきますが、人づきあいを熱く深く広げていくときのリアルな人間的魅力が、組織を確固たるものにするんだなあ、とよくわかります。そんなもの、「文学」とはべつに関係ないかもしれません。ただ、小説教室もひとつの組織ですから、身すぎよすぎの泥水を飲むような活動も、また重要です。

 夫のエングルさんは、「猟犬は肉や骨を嗅ぎ分けるけど、私は才能を嗅ぎ分けるんだ」(『三生三世』より)という、うまいのか下手なのかよくわからない比喩を繰り出していたらしく、この自信満々な感じがゲンナリするところですが、創作教育の理念は、いまもしっかりアイオワに根づいているようです。彼の偉大さは、アメリカでは常識なのかどうなのか、少なくとも日本ではあまり知られていない気がします。彼の伝記なども日本語で読める日が来ればいいな、と期待しています。

 さて、同大学の創作教室についてもう少し踏み込むと、無名な人たちが自ら志願して入学・受講したあと、小説やノンフィクションや詩やそういったものの書き方を学ぶという、よくある(?)ライティングのワークショップが展開されているそうです。昭和11年/1936年にウィルバー・シュラム(Wilbur Schramm)さんたちによって創設された、と言います。

 しかし待っているだけでは、なかなか拡散しません。そこでエングルさんは、コツコツと積み上げた膨大な人脈のツテをたどり、世界各国で活躍している現役の作家、詩人、その他文学という不思議なフィールドでおゼゼを稼いでいるプロの書き手に、うちで留学の費用をどーんと持ちますんで、ひとつ足を運んでくださいな、と招き入れる制度を始めます。聶さんの発案だったそうです。インターナショナル・ライティング・プログラム、略称IWPと呼ばれています。

 昭和42年/1967年に始まったIWPに、これまでにどんな日本人が参加してきたのか。『三生三世』の巻末にも載っていますし、同大学のサイトのなかにあるページでも確認できます。なかには帰国後に、アイオワでどんな経験をしたのか、文章に残した人たちもけっこういるので、それを調べて読み込んでいくだけで一生が終わってしまいそうな勢いです。

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2020年9月13日 (日)

昭和32年/1957年に小島信夫・庄野潤三、昭和35年/1960年に安岡章太郎が、アメリカに留学する。

20200913

▼1950年代終盤以降、アメリカの大学で創作科が盛んになる。

 昭和40年代に日本で起きた創作教室の熱は、明らかに海外の影響が見え隠れしています。

 海の向こうの、みんなの憧れUSAでは、とっくのとうに創作指導が大学に根づいているよ。日本も見習わなきゃ世界に付いていけないよね。……というような、よくあるといえばよくある米国崇拝の発想が、ちょっと異臭を放っていますけど、海外との関係性なしに日本の近現代文学が成り立たないのは、たしかです。そこを批判しても仕方ないので、少しアメリカの創作科に目を向けてみることにします。

 1960年代からさかのぼって、アメリカの大学創作科はどのように発展してきたのか。さまざまな文化現象が途絶・変容した第二次大戦の前と後とで、その発展がどうつながっているのか。よくわかりませんが、少なくともブランシュ・コルトン・ウイリアムズ(Blanche Colton Williams)さんあたりが手探りで始めた1910年代以降、大学の創作科(もしくは創作コース)は商業出版の世界に直結した存在として命脈を保ってきた、と言われています。

 戦前の成功例として、日本の文献でもよく見かけるのが、J・D・サリンジャーさんです。

 いろんな人が根掘り葉掘り経歴を調べたがるような、第一級のイジられ作家ですから、伝記もたくさん翻訳されています。それを読んでみると、1930年代に出ていた『ストーリー』誌の編集者ウィット・バーネット(Whit Burnett)さんが、ニューヨーク市のコロンビア大学で創作クラスを担当。聴講生のひとりだったサリンジャー青年の小説を見て、おおっ、いいもん書くやつがおるわ、と目をつけると、昭和15年/1940年『ストーリー』誌に彼の短篇 "The Young Folks" を掲載したのが、作家サリンジャーの世に出るきっかけだった……ということです。

 日本とは違って、当時のアメリカではすでに、作家が商業出版界で生きるためには、あいだにエージェントなる職業の人たちが入って契約の算段をするという、ビジネスのシステムができていた、と言われます。ちょうど同じころ、日本のいくつかの大学でも創作指導を主とする試みが行われていましたが、アメリカのように根付かなかったのは、そういう出版をめぐる商慣習の違いがあったからだ、という説もあるようです。たしかにそうかもしれません。

 それでアメリカでは、ぞくぞくと各地の大学が創作教室をつくり、作家になりたいと思う人たちが一発逆転の夢を秘めてせっせと通っては、ひと握りの人が雑誌掲載もしくは書籍出版までたどりつく、という新人発掘のシステムができていったのだろう。と想像できます。ずっとアメリカ文学に寄り添ってきた宮本陽吉さんも書いています。

「第二次大戦にはいって、アメリカの詩人や作家たちの中には、大学に所属し、創作講座を担当するものの数が次第にふえて行った。(引用者中略)一九五〇年代の後半から現在にかけて、大学に所属する詩人・作家たちの数は激増したし、ことにヘミングウェイ、フォークナー以降の文壇を考える場合には、創作科の存在を無視することが出来なくなった。」(『文芸』昭和40年/1965年12月号 宮本陽吉「アメリカの創作科」より)

 ということで、シカゴ大学のソウル・ベロウ、ヴェニントン大学のバーナード・マラムード、アイオワ州立大学のネルソン・オルグレンといった作家のほか、フィリップ・ロス、ロバート・ベン・ウォレン、ハーバート・ゴールド、ロバート・ローウェル、ライト・モリスといった人たちも、現役の実作家でありながら創作講座の指導者として名高い、とつづけています。なかなかの盛り上がりです。

 アメリカでは創作講座が大流行り。遅れをとった日本のほうでも、次第にその考え方が導入されて、やがて大学でも創作科が復活していくことになる。……というストーリーで語るのがおそらく適切なんでしょう。じっさい宮本さんがこの文章を書いた昭和40年/1965年から10年、20年後には、日本でもいくつかの大学に創作科らしきものができ、「小説の書き方なんて大学で教えるに値するのかよ」といった古びた批判が繰り返されることになります。

 しかし、文学周辺の現象というか社会の現象というのは、意外と複雑なんだなあ、と思うのは、アメリカでの創作科が戦前からずっと栄えていたものではなさそうだからです。

 1950年代にはね、大学の創作講座なんて大した存在感もなかったよ。そんなふうに回顧している人がいます。テッド・ソロタロフ(Ted Solotaroff)さんです。

 青山南さんの紹介によると、昭和42年/1967年~昭和52年/1977年に『ニュー・アメリカン・レビュー』を編集した人で、1950年代の〈文学至上主義〉の感覚を身にまとった人物なのだとか。そのソロタロフさんがイギリスの文芸誌『グランタ』に書いた「冷気のなかで書く」という文章のことを、青山さんが取り上げてくれています。

「「冷気のなかで書く」で、ソロタロフは、五〇年代の昔は、そこいらじゅうの大学に創作科がある現在とはちがい、アイオワ大学とスタンフォード大学ぐらいにしかそれはなかった、と書いている。それにそもそも、作家などといういかがわしい存在になろうという子供に親が学費を出したがるわけもないし、作家が養成されうるというのも信じがたいことだったから、大学の創作科は作家志望者には縁のないものだった。(引用者中略)ところが、どうだ、一九八〇年代の現在、活況を呈しているかのごとき様相をみせるアメリカ小説界を担っているのは大学創作科の出身者ばかりなのである。いまや、創作科在学中の作家志望者にとって、目標はフォークナーやヘンリー・ミラーではなく、ジョン・アーヴィングやアン・ビーティといった創作科出身の作家になる(原文ルビ)ことになっている。」(平成3年/1991年11月・福武書店刊『世界の文学のいま』所収 青山南「作家たちがこんなにもたくさん消えていった」より ―初出『海燕』昭和62年/1987年6月号)

 すみません、「存在感がなかった」とは書いていませんでしたね。失礼しました。ただ、創作科なんて作家志望者の眼中にはなかった、とは言っています。

 ということは、アメリカの大学で創作科が職業作家への道として認識されたのはけっこう遅く、1960年代に入ってからなのかもしれません。アメリカ人は実効的だ、作家の養成もシステマティックに行うことに抵抗がなかったのだろう、というのは、そういう面もあるとは思いますけど、少なくともソロタロフさんは「作家が養成されうるというのも信じがたいことだった」と振り返っています。その点は当時の日本の文学関係者が抱いていた感覚と、そこまで変わりありません。創作教育に懐疑的な姿勢です。

 むしろ1950年終盤から1960年代という短期間で一気に創作科が広がったそのスピード感こそ、日本の出版文芸との違いを感じるところです。しかし正直いって、日米を比較しようというのは厄介で難しく、頭が付いていきません。とりあえずここら辺で、いったん仕切り直します。

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2020年9月 6日 (日)

昭和40年/1965年、大学に創作科は必要か、という議論が盛んになる。

20200906

▼昭和26年/1951年、スタンフォード大学創作科のスティーグナーが、慶應義塾で講演。

 太平洋戦争の開戦から終戦後にいたる1940年代~50年代。日本の小説教室は、不毛の時代でした。

 いや、それは小説教室だけじゃないだろ。とツッコみたくなるのはたしかです。しかし、その時期でも、戦火が身近にせまっているのにイケイケでやっていた文学賞とか、日本の降伏から間をおかずに復活していった出版文化・商業文芸とか、不毛だったとは言えないものもあります。そんな歴史のなかにおくと、創作教育にぽっかりと空白の期間があった(ように見える)のは否めません。

 さかのぼって戦前の創作教室は、大勢の学生からお金を徴収して、給料をもらった先生が指導をおこなう、という学校制度のなかに組み込まれていました。昭和はじめの1930年代、出版経済が成長を遂げるなかで、教育機関のほうでもそれを担う文筆業の人たち(いまでいうと、ライターってやつ)を育成しなきゃいかんだろう、と菊池寛さんや山本有三さんなどが矢面に立ってつくられた、文芸創作のいくつかの学科。しかし、そういうせっかくの志も、国家総出で戦争に突入、あえなく撃沈してしまったことのあおりを受けて、けっきょく教育界に広がることのないまま、うやむやのうちにしぼんでしまいます。

 まあ、思いっきり戦に負けてしまったわけですから、隅から隅までみんな反省モードに陥るのは仕方ありません。教育の世界も、これまでのやり方はぜんぶ駄目だったんだ、そうだそうだ、と言わんばかりの改革に乗り出し、昭和20年代前半の大学は「新制」の態勢を整えるのに精いっぱい。創作指導とかいう、何のためにあるのかわからないチッポケな教育は、どこかにふっとんでしまいました。

 いっぽう、戦争に負けなかった国では、1930年代以降もいちおう創作指導は生き残り、順調につづいていたようです。

 そういう海の向こうのハナシは、日本にも多少伝わってきていたと思われます。ひとつ例を挙げると、アメリカのウォレス・スティーグナー Wallace Stegner さんが日本にやってきた一件です。

 昭和24年/1949年に出た『アスピリン・エイジ』(昭和46年/1971年4月・早川書房刊、イザベル・レイトン編、木下秀夫訳、原著“THE ASPIRIN AGE”、昭和24年/1949年刊)という本で、スティーグナーさんは「ラジオの神父とその信者」の章を担当しているんですが、訳書の略歴にこう書かれています。

「ウォレス・スティーグナー氏はアイオワ州に生れ、ユタ、カリフォルニアなど西部の諸州で成長した。(引用者中略)かれはこれまでに数篇の小説を発表しており、そのなかには広く各方面の賞賛を博した『笑いの回想(原文ルビ:リメンバリング・ラッター)』(一九三七年)、『ザ・ビッグ・ロック・キャンデイ・マウンテン』(一九四三年)、ユタ州を描いた『モルモン州の国(原文ルビ:カントリー)』、アメリカとアメリカ国民を題材として『一つの国民(原文ルビ:ワン・ネイション)』がある。スティーグナー氏は現在スタンフォード大学で創作科を担当している(スティーグナー氏は一九五一年一月来日して約一ヵ月間滞在した。その間慶応義塾大学その他で現代アメリカ文学にかんする講演を数回行なった)。」

 おお、昭和26年/1951年に慶應義塾で行われたスティーグナーさんの講演……。といえば、かなり昔にうちのブログでも触れたことがあります。

 質疑応答の時間に、聴衆のひとりだった女性が手をあげて立ち上がり、私は小山いと子という日本の作家だ、純文学のつもりで書いた小説で、最近、直木賞という大衆文芸の賞を与えられた、日本では私小説のようなものしか純文学とは認められていないようだ、うんぬんと不平不満をぶつけたところ、スティーグナーさんから「あなたの高いクオリティーの小説に大衆小説の賞が与えられて、多くの読者に迎えられたことは大変羨ましいことだ」とか何とかはぐらかされて、場内ぬるい笑い声が起きた、とか何とかいう(平成18年/2006年5月・紅書房刊 大久保房男・著『終戦後文壇見聞記』)、直木賞、悲しき一場面です。

 ともかくこのとき慶應が招いたことで、スティーグナーというアメリカのエラい(?)先生が、名門スタンフォード大で、あろうことか創作を教えているらしいぞ! ということは一部には知られたんだろうと思います。ところが日本の大学関係者が、その風土をすぐに受け入れた形跡は見えません。1930年代の文芸科三羽ガラス(文化学院、明治大、日大芸術科)の伸び悩みを顧みて改善を模索していた、という雰囲気も、とくにありません。そうこうするうちに日本の大学は、「文学学校」といういわば草の根の試みに、創作指導では一歩先を越されてしまいます。

 というところで、先週のハナシを振り返ります。『文學界』同人雑誌評で久保田正文さんが書きました。「文学は教えることができるか、というふうなことがこのごろ問題になっている。」……これが掲載されたのは昭和41年/1966年2月号ですから、前年、昭和40年/1965年終盤の文章です。

 昭和40年/1965年は、どんな年だったでしょう。直木賞にとっても大きな区切りを迎えていた、というのがワタクシの目から見える直木賞の歴史です。というのも昭和40年/1965年に受賞したのが、第53回(上半期)藤井重夫「虹」、第54回(下半期)新橋遊吉「八百長」と千葉治平「虜愁記」。それが昭和41年/1966年には、第55回(上半期)立原正秋「白い罌粟」、第56回(下半期)五木寛之「蒼ざめた馬を見よ」と、大きく様変わりする激動の渦中にありました。いわば直木賞の中心が、職業的な意識のないところで小説を書く素人あるいは同人誌の作家から、売文の経済活動を積極的に受け入れるプロ作家へと転換したのが、この年。昭和40年/1965年だったというわけです。

 この時期、巷では「文学は教えることができるか」問題が起きていたと言います。いったい何だったんでしょうか。

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