昭和38年/1963年、大阪文学学校が『新文学』を創刊、同人雑誌の世界でも存在感を示す。
▼昭和39年/1964年頃から、文学学校の同人雑誌が『文學界』でも取り上げられ始める。
戦後の日本文学を眺めまわして、目につく現象はいろいろありますけど、絶対に外せないものがあります。文学賞(懸賞小説)と、同人雑誌と、そして小説教室。いわゆる「三種の神器」ってやつです。
いや、「神器」と呼ぶのはさすがに語弊がありました。すみません。何と言いますか、この世に「文学」というものがあるのだとして、それは文芸誌とか文芸出版社だけがつくり出してきたわけじゃない、なんてことは子供でもわかる常識レベルの話でしょう。広く社会に根差した文学、一般庶民まで巻き込んだ文学の現象、という観点で見たとき、この3つが果たしてきた役割には多大なものがあった……ということが言いたかったんです。
とりあえず、うちのブログでは小説教室の歴史的な流れを追っています。いまのところ、なかなか直木賞との接点を取り上げる機会がなく、それだけが悲しいんですが、いつかそこに至るものと信じながら続けることにしまして、小説教室の流れが、文学賞や同人雑誌の動きと無縁ではないことは言うまでもありません。それで今日は同人雑誌の観点から、小説教室の推移を見てみることにします。
参考にするのは『文學界』の「同人雑誌評」です。昭和26年/1951年4月号に始まり、平成20年/2008年12月号で終わった57年半の歴史をもった企画です。
ちょうど昭和20年代後半というと、日本文学学校、大阪文学学校と、組織的なスクール制度の創作教室が草の根運動のように始まったっ時期に当たります。そのスタートが「同人雑誌評」と重なるのは偶然とは思えません。ものを読みたい。そして書きたい。ひとりじゃできないから、みんなで集まってやるしかない。……というその衝動が全国的な広がりを見せる「文学大衆化」の波のうえに、同人雑誌も小説教室も乗っかっています。さらにここに、多少ながらもお金のやりとりが発生するビジネスの視点が交わったとき、両者は見違えるような発達を遂げることになるわけです。
と、昭和26年/1951年に始まった「同人雑誌評」ですが、ここに文学学校の存在が出てくるのは、多少の時間がかかります。文校の同窓生がつくった同人誌として『錚錚』と『文学世紀』の作品に触れられたのが、昭和39年/1964年1月号です。
50年代から60年代はじめの約10年。この時期に何があったかと言えば、いちばんの変化は日本の経済成長でしょう。全体的にカネのめぐりがよくなった。ということがめぐりめぐって、ガリ版でせっせと字を書かなくても、活版を組む印刷会社にお願いできるという選択肢が、一般的に広がります。文校同窓生のつくった同人誌のなかでも『文学世紀』は、時代を切り開いた画期的な存在ともいわれますが、これが「同人雑誌評」で取り上げられ、やがて直木賞の候補作を生み出すことになるのですから、ビジネスも一概に馬鹿にできません。
ちなみに大阪文校の機関誌『新文学』が、今月創刊したものとして誌名だけ紹介されたのも、昭和38年/1963年10月号と、ほぼ同時期です。この号の同人雑誌評では担当の駒田信二さんが、田辺聖子さんの「神々のしっぽ」(『大阪文学』10号)と「感傷旅行」(『航路』7号)の二つを挙げて褒めているという、まあ直木賞の歴史から言っても(いや、もうひとつの文学賞の歴史から言っても)重要なタイミングに当たっています。文学学校やその生徒・卒業生たちが同人雑誌という武器を持ったことで、商業出版のほうでも活躍できるのだ、ということを示しはじめたのが1960年代なかばだった、と見ていいでしょう。
その頃、久保田正文さんがこんなことを書いています。昭和41年/1966年2月号の文章です。
「文学は教えることができるか、というふうなことがこのごろ問題になっている。文学学校というふうなものが成り立つか、という問題である。各地に文学学校ができ、そこから何人かの作家が出てきている。(引用者中略)教えることができるかできぬか、というよりも学び方の問題ではないだろうか。学ぶ気がなかったら、教えることもできるはずはない。しかし、文学も〈学〉という字がつくのだから、学校と学ぶこととにやはり縁があるだろうと私はおもう。全国あちこちに文学学校がうまれ、そこから雑誌が出はじめていることを私はやはり歓迎する。」(『文學界』昭和41年/1966年2月号 久保田正文「目立つ達者な語りぐち」より)
このときに挙げられた雑誌を補足しておくと、名古屋市の文学学校生徒による『造子』、福島県立会津短大の『会津文学』、文学学校福岡教室の生徒による『緑と太陽』などです。
各地で続々と……といった状況のなかでも、このころ同人雑誌界をリードした文校といえば、やはり大阪文学学校に尽きるでしょう。『文學界』の同人雑誌評界をリードした、と言い換えたほうがいいかもしれません。同校の『新文学』からは、伊豆田寛子「向日葵」(昭和41年/1966年1月号)、谷原幸子「序曲」(昭和44年/1969年8月号)、奥野忠昭「空騒」(昭和45年/1970年4月号)、高見堯「貼り絵の街」(昭和49年/1974年5月号)、福元早夫「工場」(昭和50年/1975年1月号)、大江耀子「二人三脚」(昭和51年/1976年2月号)と、カッコ内に示した『文學界』年月号への転載作が出て大評判。さらには同誌が『文学学校』と誌名を変えた昭和54年/1979年以降も順調に取り上げられて、在校生作品集から上田真澄「真澄のツー」という芥川賞候補作まで生み出してしまいます。
ほかにも、同校からは『夢玩具(ムガング)』とか『0番線』とか、生徒たちの創作熱の高まりが結実した同人誌がつくられるなど、小説教室と同人誌ってこんなに相性がよかったのか、と多くの人がハタと膝を打つ事態に。これもそれもけっきょくは、順調に社会経済がまわり、書き手の情熱とお財布事情がうまくかみ合ったおかげ、というのは容易に想像がつくところです。
全国の文学学校花ざかり、といった1960年代からの進捗のおかげで、学校と同人雑誌とのさまざまな体験が積みあがっていた1970年代後半、ついに刺激的なスパークが起きます。カルチャーセンター創作教室の登場です。
○
▼昭和53年/1978年、朝日カルチャーセンターが生んだ同人雑誌『まくた』が旋風を巻き起こす。
さまざまな企業、ないしは地方の公共団体などがおカネをとって受講生を集め、各分野で名のある人に給料を払って指導をお願いする、いわゆるスクールビジネスの隆盛については、うちのブログでも何週か(何十週か)取り上げないわけにはいきません。直木賞にとっても重要なスパークですし、なにより文学とビジネスの関係では、無視することのできない一大現象だからです。
ここでは、さらっと触れるにとどめます。『文學界』の同人雑誌評のなかでも、あるいは世間的に見ても、この創作教室のことが一気に爆発したのは、何といっても重兼芳子さんが出てきたことでしょう。単に出てきたことではなく、同人雑誌で出てきたことが重要です。
重兼さんは朝日カルチャーセンターの駒田信二さんの講座で学び、その生徒たちでつくられた同人誌『まくた』の創刊号に「水位」を寄せました。昭和53年/1978年のことです。これが同人雑誌評で絶賛されるは、『文學界』に転載されるはで賑わいを見せると、同誌の第3号(昭和53年/1978年3月)に書いた「ベビーフード」が、やはり同人雑誌評で好評を受け、第79回芥川賞の候補に挙げられます。同誌昭和53年/1978年9月号の「髪(かみ)」もまたまた注目されて、二期連続、同じ同人誌から芥川賞の候補に。
と、こんな程度では、出版文芸の人は興奮しても、巷の人たちはビクともしません。しかし、この人は書ける!と期待した『文學界』編集部がリキを入れて原稿を依頼、これに重兼さんも応えて作品を提出したところ、『文學界』昭和54年/1979年3月号に採られた「やまあいの煙」が、三期連続の候補になって、芥川賞を受賞してしまったものですから、一気にバケツがひっくり返ります。わあカルチャーセンターから芥川賞が出た、泣く子も黙る天下のアクタガワショウを、何とカルチャーセンターに通っただけの平凡な主婦がとってしまったのだ、とか何とか、どう考えても興奮しすぎだろうとしか思えない騒ぎになったわけです。いや。これがジャーナリズムの常態かもしれませんね、失礼しました。
ともかくも小説教室に限ったことではなく、これで同人雑誌の世界も活気づいたことは間違いありません。以下は重兼さんの受賞から半年ぐらいあとに小松伸六さんが書いた、現況の概観と感想です。
「このところ朝日カルチャーセンターや各地の文学伝習所、文学学校の発表機関誌から有望新人が出ている。作家は教室では育たないものだという私の考え方、そして教室と創作とは相反する概念だというトーマス・マンやヘッセの自伝のなかでくり返されている言葉は訂正されねばならないかもしれぬ。
たしかオハイオ州ガンビアのケニヨン大学に創作科があり、そこに庄野潤三氏らが留学したと記憶しているし、早稲田大学に文芸専攻(通称文芸科)があり、主任教授が評論も書く平岡篤頼氏、そこから中島梓、見延典子という二人のベストセラー作家が育ったという。文芸科と文学部の、たとえば英文科、仏文科とどうちがうのかは知らないが、小説学校からも新人が出てくるのは面白い現象である。(引用者中略)早稲田の文芸科に志願者殺到、朝日カルチャーセンターの駒田教室も、次の学期を待たなければ入れぬよし。」(『文學界』昭和55年/1980年1月号 小松伸六「面白い現象」より)
久保田・駒田・小松・林の四人体制が終わるのが、それから間もない昭和56年/1981年で、そこから先は新しい四人の評者に変わって、まだまだ同人雑誌評はつづきます。小説教室との関係も、もちろん新時代を迎えることになるんですが、それはまたネタがなくなったときにでも触れることにします。
ところで昭和41年/1966年の久保田正文さんも、昭和55年/1980年の小松伸六さんも、気になることを書いています。昭和40年前後に「文学は教えることができるか」が問題になっているぞと久保田さんは言い、小松さんは、大学の創作科と作家との関連に脚光を当たっていることを匂わせています。いったい何のことなんでしょうか。それぞれ探ってみたいと思います。
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