昭和12年/1937年、大木顕一郎が綴方(作文)指導のケーススタディ本を出して大ヒットする。
▼昭和12年/1937年、大木顕一郎が綴方指導の成果を本にする。
先週からのつづきです。森田草平さんが大正13年/1924年に「小説作法講話」を書いた、というおハナシでしたが、そのころ森田さんの近くにいた人物にも、少し手を広げてみたいと思います。
森田さんといえば、法政大学の教壇に立ちながら、作家としても有名だった人です。まわりには、たくさんの文学志望者たちが群がっていただろうと思います。そのなかのひとりの青年が、小説家になる夢に破れたあと、超絶に有名な創作の指導者として、出版界のみならず、ジャーナリズム全般をにぎわせることになるのですから、これは無視できません。
いや。間違えました。「創作の指導者」じゃありません、「綴方の指導者」でした。大木顕一郎さんです。お子ちゃまたちを相手に作文の書き方を教えた人です。
明治29年/1897年、千葉県印旛郡に生まれた大木さんは、旧制成田中学で鈴木三重吉さんの教え子だったことがあり、それが後年大木さんの人生を大きく変えることになりますが、青年時代は千葉県内の小学校に勤めながら文学にお熱を上げます。三重吉さんの縁を頼って、大正9年/1920年、千葉県木下町に住んでいた森田さんを訪ねたことがきっかけで、「師匠と弟子」のようなかたちで親しくなっていったそうです。
大正の後期、森田さんが『女性改造』に「小説作法講話」を連載していたちょうどその頃、大木さんも自分で長編小説を書いては森田さんの指導を受けていた、と言います(昭和21年/1946年9月・柏書店刊、豊田正子・著『続思ひ出の大木先生』所収 森田草平「大木顕一郎君と私」)。けっきょくその作品はモノになりませんでしたが、森田さんから「人生の歩みは早いのだからぼくの目玉の黒いうちになにか一つだけ仕事をしろ」と、厳しい言葉を叩きつけられたのが、おそらく大正末期から昭和初期のころです(『別冊週刊サンケイ』昭和34年/1959年10月号 大木みや子「豊田正子への公開状 汚されなかった綴方教室」)。大木さん、20代後半から30代に差しかかろうかという頃合いでした。
家庭の事情もあって東京に移った大木さんは、葛飾区の四ツ木小学校、本田小学校に奉職します。おれは作家にはなれなかった。じゃあ教師として打ち込めるものは何なのか。と考えるうちに熱中したのが、児童たちに綴方の書き方を通して教育を施すということです。
綴方(作文)の書き方を教える行為は、小説の書き方指導と似ているようで、まったくの別モノかもしれません。まあ、それを言い出すと、エッセイと作文は何が違うのかとか、作文と読み物小説は、どこに区別があるのかとか、クダらない文学談議に突入して嘔吐感に苦しまなくてはならないので、足を踏み入れるのはやめておきます。とりあえず大木さんは、かつての恩師、鈴木三重吉さんの主導する『赤い鳥』系列の綴方運動に大きな魅力と可能性を感じ、小学校という教育の現場で、綴方とはどういうものなのかを教え子たちに説き、じっさいに書かせてみるという授業を展開します。
すると、あらまあ不思議なことに『赤い鳥』に入選する児童が何人も出てきたじゃありませんか。綴方なんてイヤだイヤだと言っていた児童たちが、乗り気になって書きはじめます。よかったよかった。……と、これだけでも森田さんの言っていた「一つの仕事」を立派に成したと言っていいと思いますけど、その優秀な児童のなかに、家庭は貧乏だけど、けなげで素直、しかも見た目も可愛らしい女の子がいたために、大木さんの名前が一気に有名になってしまったわけです。
その少女、豊田正子さんが尋常小学の四年生として本田小学校に転校してきたのは、昭和7年/1932年のことでした。大木さんの指導を受けてメキメキと綴方がうまくなり、彼女自身も楽しんで続けたところから、『赤い鳥』入選七回という見事な結果を残します。そのうちに、この指導と成果を本にして残したいぞ! と思った大木さんは原稿の作成に取り組みますが、大木さんが指導して入選した児童は他にも何人もいます。なかで豊田さんをケーススタディに選んだのは、最初は全然ダメだった児童が、徐々にきちんと綴方を書けるようになった、という教育事例として最も適切だと判断したのかもしれません。
同じく綴方の教育に熱心だった清水幸治さんと協力して、そのやり方や実情をまとめた原稿ができあがると、自費出版でもいいから世に問いたいと思って、知り合いの意見を聞いたり、出版社にお願いにまわったりします。しかし、どうもこの豊田正子って子の作文が、特色がないんだよねえ、とか何とか断られるうち、元『赤い鳥』の編集者で、大木さんの知り合いだった中央公論社の木内高音さんが、よっしゃうちで出してやろうと決断。題名も木内さんが考えて『綴方教室』とすることが決まり、昭和12年/1937年8月の刊行までこぎつけます。
翌年これが演劇化され、さらには映画化までされることになって、世を挙げての大騒動。単行本の『綴方教室』は10万部ぐらい売れた、と言いますから、人間っていうのはいつの時代も「天才少女」みたいなものに弱いんだな、もしくは、他人の家庭事情を覗き見るのが好きなんだな、と思いますけど、何といっても恐ろしいのは、本なんてあまり読んだこともなかったし、自分が物書きになるなんて考えていない、とずっと言っていた豊田さんが、けっきょくその後、江馬修さんとの出逢いなどもあって、ほんとに「作家」になってしまったことです。
○
▼昭和13年/1938年、菊池寛が豊田正子に小説家になることをすすめる。
「恐ろしい」とか言ってはいけませんね。失礼しました。
しかし、『綴方教室』が評判になって持てはやされた当時、豊田さんは大木さんから「有頂天になるな。こんなことでうぬぼれてはダメだぞ」と終始言い聞かせられていたそうです。前出の『続思ひ出の大木先生』には、そのころ豊田さんが森田草平さんと初めて会ったときの回想が出てきますが、森田さんもやっぱり同じようなことを言って豊田さんを諭します。
「「今から豊田正子が考へて置く事は、ジヤーナリズムの波から落ちた時の心構へだね。波にのつてゐる以上、必らず落とされる。そりやあもう、誰でもがさうだ。大体ジヤーナリストつて奴がさう云ふものなんだ。さうすることがジヤーナリストなんだ。人気なんてものが如何につまらないものかといふことが、其の内に正子にも分つて来るだらう。(引用者中略)有名なんてつまらないものだよ。しかし正子には大木先生がついてゐる。その点は用意周到な大木君だから、大丈夫だと、わたしは信じてゐるよ。人気が落ちようが落ちまいがそんなことに驚かされないことだ。」」(『続思ひ出の大木先生』より)
そのあとには、かつて森田さんが『煤煙』を発表したときに、どれだけ世間を賑わしたか、それは『綴方教室』どころの騒ぎじゃなかったんだぞ、とか何とか大木さんが豊田さんに語る場面がつづきます。たしかにこのころの豊田さんは、物を書いて生きていこう、という考えは薄くて、有名になってしまったこともヒトゴトのように受け取っているふしがありました。
そのままいけば、家庭の主婦になるなり、あるいは職業婦人になってバリバリ働きつづけるなり、表舞台に出ない人生もあったでしょう。ところが、せっかく文章を書いて有名になっちゃったんだから、いっそ小説家になったらいいんじゃないか、とか無責任なアドバイスをする人が出てきます。
菊池寛さんです。
昭和13年/1938年、大木さん同席のうえで豊田さんと対談した菊池さんは、豊田さんの貧しい家庭生活を聞いて、「この人は、うまく行けば林芙美子ぐらゐになるかも知れないね」と、時の流行作家の名前を引き合いに出し、「自分では何になりたいの」という問いに「何にもなりたくないの」と返した豊田さんに、きみには小説家になる道があるよ、と能天気に提案しています。
その理由がふるっています。
「やはり、家庭のことを書くのなら小説だね。思ひ切つて小説家にした方がいいかも知れないね。
(引用者中略)
小説家になつても、有名になることはなかなか難しいので、大抵の人はその有名になるまでが苦労だ。
しかし、この人なんか、もういい加減有名になつてゐるのだから、その点は得だよ。名前さへ聞えてゐれば、ある程度のものを書いたつて、それで通用するのだからね。その中にだんだんうまくなつて来るよ。」(『話』昭和13年/1938年11月号「「綴方教室」の豊田正子と菊池寛対談会」より)
小説家は有名になるまでが難しい。その点、きみはもう有名になっているから発表舞台もある。あとはどんどん書いていけばいい、ということだそうです。
菊池さんらしいなあ、と言いましょうか。ここに菊池さんの「小説家観」がストレートに出ています。
昭和10年代に直木賞ともうひとつの文学賞が始められたのは、なぜなのか。その動機の裏には、作家が有名になるまでの苦労を少しでも軽減したい、という考えがあったのは明らかです。ひとりの書き手が長く書きつづけられる環境をつくるには「有名であること」が重要だと、菊池さんは思っていたわけですね。
豊田さんは戦中には『婦人公論』に「粘土のお面」の連作を書いたあと、戦後にいたって物書きとして復活、「アノ綴方教室の」という重い看板を背負いながら、ペンを取りつづけました。結果、菊池さんが考えるようなタイプの作家にはなりませんでしたけど、文学賞を通った者だけが作家を名乗れる、というわけでもありません。決して有名じゃなくても、書きたいもの、書かなきゃいけないと思ったものを、ただ書きつづけるという豊田さんの姿勢は、森田さんや大木さんなどのオトナから言われた「指導」が、ずっと後年にまで生きたものでしょう。それはそれで十分な作家人生だったと思います。
| 固定リンク
「小説教室と直木賞」カテゴリの記事
- 平成29年/2017年、川越宗一、メールでの小説添削講座を受講する。(2021.05.30)
- 平成11年/1999年、山村正夫の急逝で、森村誠一が小説講座を受け継ぐ。(2021.05.23)
- 平成27年/2015年、書店を運営する天狼院が、小説家養成ゼミを始める。(2021.05.16)
- 平成25年/2013年、石田衣良から小説指導が受けられる、ということが特典の「ノベリスタ大賞」始まる。(2021.05.09)
- 平成15年/2003年、大塚英志が『キャラクター小説の作り方』を刊行する。(2021.05.02)
コメント