昭和30年/1955年ごろ、職業作家をめざして日本文学学校に入学した人が、やめていく例、後を絶たず。
▼昭和30年/1955年、藤原審爾が日本文学学校の講師を務める。
昭和の文学的な現象には、日本共産党やら社会主義イデオロギーやら、そういうヌメヌメした物体がつきものです。直木賞でも、小説教室でも、あまり事情は変わりません。うえっ、何だかメンドくさっ。と、つい逃げ出したくなりますけど、とりあえず日本文学学校については簡単に確認しておきたいと思います。
日本文学学校準備委員、野間宏・徳永直の連名で「日本文学学校設立趣意書」がつくられたのは、昭和28年/1953年8月20日のことでした。ときに戦争が終って7年、8年……。貧窮する人たちの暮らしづらさが日本じゅうに広がるなか、みんなで文学作品を読み、自分でも書いてみる、という行為を通して、仲間をつくったり、男女がイチャついたりする労働者たちの地域サークル・職場サークルが、各地で熱を帯びはじめたころです。
そんな社会状況のいまだからこそ、民主主義の確立をめざすのだ。そうだ。サークル活動なんかにとどめずに、労働者が通える文学の学校をつくったらどうだろうか。……という発想をする意識高い系の人たちが、昭和20年代後半になって生まれます。針生一郎さんによりますと、そもそもは、野間宏さんを筆頭に足柄定之、木島始、郷静子、玉井五一、松本昌次などなどの参加した〈トロイカ文学集団〉とか、小林勝、黒井千次、井出孫六などによる文学研究会の集団とか、そこら辺りから文学学校の発想が生まれたんだ。とかいう噂もあるそうです。
ともかく、はじめのころに想定されていたのは、毎日汗水流して働いている人たちが通う、そんな学校です。入学の審査はマジで肉体労働者が優先されていたらしく、イイ大学を出てスーツを着込んで働いている人なんかは、書類と面接で落とされることもあったんだとか。それはそれで、どうなんだ、と思いますけど、弱い立場の人のことを第一に考える。大切な姿勢でしょう。
それで、彼らを集めて何をやったんでしょうか。まずは「あなたはどうやって育ってきたんですか」とか、「いまどんな仕事をして、どんな問題を抱えていますか」とか、そういう身近なことを綴方・作文・生活記録に書きましょう、みたいなことを講座のなかで実践しはじめます。
ところが、すぐに壁にぶち当たります。生活記録を書かせるだけでは、うまくいかないことが徐々にわかってきた、と言うのが針生一郎さんです。以下は、『文学』昭和31年/1956年3月号に載った京都文学教室の報告文を受けての文章ですが、はじまって2~3年の日本文学学校でも同じように、生活記録を文学の創作として進めていく方向性に行きづまりを感じたんだそうです。
「京都文学教室の(引用者中略)報告には「止めていった人の中には、文壇を志した人が多かった。あるいは、『教室の雰囲気が片寄っているのでどうもなじめなかった』と後でいっている人もあった」というふうに書かれている(引用者中略)。ぼくらもそういう失敗をしばしばくり返してきました。」(昭和44年/1969年11月・田畑書店刊 針生一郎・著『超デザイン・ノート 針生一郎評論3』「生活記録と文学」より)
生徒たちはいろんな動機で入学してきます。なかには、文壇に出たいとか、職業作家になりたいとか、明確な意思をもつ人も存在していました。このとき、学校として教室として、どう対応するか。小説教室という文化の大きな転換点だったろうと思います。
というところで、昭和30年/1955年に至って風穴をあけかけた(?)作家が、ここに参戦することなるのです。前週の終わりにチラッと名前の出てきた藤原審爾さんです。
藤原さんはそれから約30年後、昭和58年/1983年に『新日本文学』誌上で当時のことを回想しながら、文学学校の問題点などを針生さんと語り合っています。これがまた、やたらと面白い対談で、80年代前半というとカルチャー・センターの創作講座が隆盛した頃の会話だからでしょう、「自分の目で、自分に身近なことを題材にして」書かせる50年代の生活記録から、フィクションを取り込んで小説の方式で書かせるやり方が主流になっていく戦後30年の歩みが、よく現われています。「小説教室」の歴史から見ても、かなり重要な記事です。
せっかくなので、藤原さんが文学学校に持ち込んだという、フィクションによる創作指導の一端を引いておきます。
「針生 ちょうど一九五五年ごろから、日本経済が復興して高度成長がはじまるわけね。それにつれて、生活記録的素朴リアリズムと貧しい、苦しいという被害者意識で社会にたちむかってゆく姿勢は、日常生活のなかに基盤がなくなって、それだけではゆきづまってしまう。どうしてもフィクションが必要になるんですね。そこで文学学校の課題創作でも、最初の月が「私の生いたち」、次の月が「私の職場」、三番目にはフィクションを入れてっていうんで、藤原さんが一度出題して下さったことがありますね。銀座の毛皮屋のショウウィンドウで、百万円でしたかね、要するに手のとどかないような値段の正札がついているミンクのコートを、二十歳前の少女がじっとみている、という場面を設定して、そこから自由にストーリーを展開させよという。」(『新日本文学』昭和58年/1983年10月号 藤原審爾・針生一郎「対談 いま文学を学ぶ意味」より)
このまま突き抜けていけば、作家養成のほうに舵を切って、きっと日本文学学校のその後も変わっていたでしょう。しかし、「文学」とはもっと幅広く、奥深いものだという感覚が崩れることはなく、プロ作家を育てるためにやっているんじゃない、という文校の方針が揺らぐことはありませんでした。結果、藤原さんの文学教室は、学校とは関係のない私的なところで華ひらき、新しい職業作家を生むことになります。
○
▼昭和37年/1962年、日本文学学校が新日本文学会の経営になる。
藤原審爾さんが学校で教えていたそのグループは、徐々に私的な集まりになっていき、2期や3期の卒業生のなかから、いぬいとみこ、小川一夫、細野稔といった面々が参加します。「藤原学校」とも「藤原部屋」とも呼ばれるサロン的な勉強会に発展していって、他にも卒業生ではなく藤原さんの個人的な交流のなかから中薗英助、夏堀正元といった顔もまざり、しばらく続いたとのことです。
ここで思い出すのが、同人雑誌の『層』のことです。藤原さんのもとに集っていた夏堀さんが、藤原さんから色川武大さんを紹介されてつくられた『層』のことは、以前に取り上げたことがあります。日本文学学校はその歴史のなかでいろいろな足跡を残しましたが、こと直木賞との関わりでいうと、やはり同人雑誌を介した関係が中心だったでしょう。昭和37年/1962年10月に始まった、研究科17期にあたる小沢信男さんをチューターとする組のなかから、『文学世紀』という雑誌が生まれ、姫野梅子さんというナゾの直木賞候補者が誕生したことなど、その最たるエピソードです。
あるいは、在学経験のある直木賞候補者というと、ねじめ正一さんの名も挙がります。それとは知られていないだけで、他にもここに通った学生が、直木賞の歴史に登場しているかもしれません。スクール制で創作を学ぶ形式が、文学賞のなかに確実に根をはりはじめたのは、日本文学学校があったからと見ていいでしょう。
もうひとつ、この学校の功績で特筆しておきたいのが、全国への広がりです。
およそ文校の歴史をたどっても、いつも経営難です。決して順調なカネまわりではありません。それでもこの学校がもととなって、「文学学校」と名のつく機関が、全国にぞくぞくとつくられていきました。いくつかは、じっさいに日本文学学校が協力したり、卒業生が中心となってつくられたものですが、ざっと挙げると、こうなります。
この以外にも、新日本文学会とは関係なく、各地で独自に開校したものも見かけます。こう考えると日本文学学校の最大の功績は、「文学学校」と名をつけて小説教室を開いても何の恥ずかしさもない文化と風土をつくった、ということかもしれません。
| 固定リンク
「小説教室と直木賞」カテゴリの記事
- 平成29年/2017年、川越宗一、メールでの小説添削講座を受講する。(2021.05.30)
- 平成11年/1999年、山村正夫の急逝で、森村誠一が小説講座を受け継ぐ。(2021.05.23)
- 平成27年/2015年、書店を運営する天狼院が、小説家養成ゼミを始める。(2021.05.16)
- 平成25年/2013年、石田衣良から小説指導が受けられる、ということが特典の「ノベリスタ大賞」始まる。(2021.05.09)
- 平成15年/2003年、大塚英志が『キャラクター小説の作り方』を刊行する。(2021.05.02)
コメント