昭和28年/1953年、生徒120人を迎えた日本文学学校が日ソ図書館で始まる。
▼昭和25年/1950年、江馬修、豊田正子たちが『人民文学』を創刊する。
豊田正子さんの代表作は、何といっても『綴方教室』です。そのままの状態で時が流れていたら、「アダ花のように消えた悲運の少女」の伝説になったかもしれません。しかしその後、豊田さんを「かつての実情を暴露して、大木先生の恩を仇で返した怖いオバさん」に変貌させるとともに、彼女に作家としての道筋をつけてしまったエロ爺いがいます。江馬修さんです。
……と、そういうゴシップ方面を追いはじめると、あまりに楽しくて本論からズレる一方です。とりあえず江馬さんと豊田さんは、戦後に発展する小説学校の誕生に、大きな足跡を残した人たちでもあります。そこだけ取り上げます。
江馬さんは昭和に入ってまもないころに、うきうきわくわくプロレタリア陣営の仲間となって、弾圧と迫害を受けながら共産主義にひた走りますが、昭和21年/1946年に、晴れて日本共産党に入党。飛騨地区の委員長に選ばれます。
戦後の共産党というと何でしょうか。文学の話題でいえば、昭和20年/1945年12月に結成された新日本文学会と、切っても切り離せません。
それはそれで、複雑な歴史をもつ機関ですから、外野の人間が気軽に入り込むわけにはいきませんけど、新日本文学会を抜きに小説教室のハナシを語れないのは事実です。
ざっくり言いますと、敗戦とともにスタートした同会では、まず戦時下にドヤ顔で躍動していた文学者たちの追及や反省がおこなわれます。国家とか資本家とか、支配権力は諸悪の根源で、そんなところから生まれる文学を認めるわけにはいきません。これからの文学を担っていくのは全国の勤労者だ! と問題意識を訴え、機関誌の『新日本文学』に次ぐ準機関誌として『勤労者文学』(昭和23年/1948年3月~昭和24年/1949年8月)をつくったりします。
ところが昭和25年/1950年、日本共産党の内部のほうで、コミンフォルムの機関紙『恒久平和と人民民主主義のために!』に発表された「日本の情勢について」という解説記事をめぐって、犬も食わない大ゲンカが勃発。その煽りを食った新日本文学会も一枚岩ではいられなくなったところで、同年11月、『人民文学』という雑誌がいきなり創刊されます。この創刊に加わったのが、地元の岐阜からたびたび上京していた江馬さんでした。編集長に就任します。
やがて亡くなった宮本百合子さんに対して、異常な批判の姿勢を見せるなど、「他人に厳しく、自分に甘い」という軽蔑すべき誌面構成を展開。相変わらず江馬ジイさん、元気にやっとりますなあ、という感じです。そんなさなかに、名前だけは有名だけど当時はさしたる作品を書いていなかった豊田正子さんと、いっしょに『人民文学』を編集したことで知り合って、急速に愛をはぐくみますが、妻子のある身で別の女性に手を出すと、野次馬たちが目くじらを立ててキーキー騒ぎ出す、というのは、いまを生きるワタクシたちもよく見かける光景です。
いや、不倫関係が直接叩かれたのではないかもしれません。くわしくは優秀な文壇ゴシッパーたちにおまかせしますが、昭和26年/1951年夏ごろには、江馬さんは『人民文学』の編集から離れます。
しかし、江馬・豊田コンビが携わった『人民文学』の誕生(というか『新日本文学』からの分裂)が、日本の小説学校発達史のなかに、画期的な楔を打ち込んだのは、まぎれもない事実です。
『人民文学』昭和26年/1951年3月号に載った、島田政雄さんの「文学運動の新しい方向」という論文があります。ある筋ではいろいろと悪評高い論文だそうですけど、これを『人民文学』の創刊当時の考えをよく示しているものとして紹介しているのが窪田精さんです。
「島田政雄はこの論文のなかで、「大衆路線」ということを主張し、(引用者中略)「あらゆる重要産業と経営のなかに、闘争と密着する文学の書記集団――文学サークルをつくり」「下手であれ、上手であれ、ともかくも、速やかに職場や地域の現実を反映し、闘争を反映したルポルタージュ、スケッチ、詩、小説、川柳、歌などを、どんどん生み出さなければならない。それは刻々の闘いに役立つものでなければならない」と主張している。
もちろん、戦後の民主主義文学運動は、運動に参加する文学者や文学サークルなどの、そのような「文化工作隊」的な活動を否定してはいない。そういう活動についても、それを評価している。しかし島田政雄のこの主張は、文学・芸術運動を総合的なものとしてみていないところに、根本的な誤りがあった。」(昭和53年/1978年6月・光和堂刊 窪田精・著『文学運動のなかで 戦後民主主義文学私記』「第八部 『北多摩文学』のころ」より)
島田論文は、キモち悪いイデオロギーさえ除けば、内容はいいこと言っているのになあ、という見本のようなものかもしれません。他人を傷つけることで自分を守ろうとする、イヤな連中。江馬さん率いる初期の『人民文学』には欠かせない特色でしょう。
それはともかく、上記の窪田さんの本を読むと、民主主義文学の運動というのは、おのずと文学サークル的なものや、労働者ひとりひとりが文学をつくり出す動きと結びつくのだ、ということが見て取れます。貧しい自分の家庭環境を綴方で表現することで物書きとして認められた豊田さんが、大衆みずからの手で文学を! の活動に共鳴したのは、ある意味自然だったんでしょう。
江馬・豊田カップルは『人民文学』からすぐに離れてしまいましたが、その熱気は徐々にかたちをなしていき、野間宏さんなどがグループの中心となった後期にいたって、そうだ、文学の学校をつくろうじゃないか、という展開になるわけです。学生でも、サラリーマンでも、農民でも、自分に身近な生活のなかで文学を読み、あるいは文学をつくり出す。たしかに素晴らしい発想です。
○
▼昭和28年/1953年、新日本文学会から分裂した人民文学グループが中心になって、日本文学学校が創設される。
昭和28年/1953年の秋、野間さんの他、いわゆる人民文学グループが中心になって日本文学学校が企画され、『人民文学』誌上に学校設立のよびかけが掲載されました。新日本文学会の歴史を長く書いていた田所泉さんは、この学校の創立について、後期『人民文学』が目指していた「文学運動の領域を広げるうえでは、積極的と呼んでいい役割を果たした」(昭和53年/1978年10月・新日本文学会出版部刊『「新日本文学」の運動 歴史と現在』「新日本文学会の二〇年」)と位置づけています。
学校初期の体制は、人民文学グループにも新日本文学会にも顔の利く阿部知二さんが校長に就き、事務局長は山岸外史さん、事務局では笠啓一さんや針生一郎さんがこまごました実務を担当し、講師に徳永直さん、中野重治さん、野間宏さんなど70人ほどが名を連ねます。
針生さんによると、第一期には400人の応募があったそうです。結局そのうち120人を生徒として、昭和28年/1953年12月から半年間にわたり、日ソ図書館の一室で、週に2回、3時間ずつの講義・実習が実施されました。
「いま、全国の津々浦々に、職場や農村や家庭のいるところに、新しい文学をもとめる要求、民衆の内部にウッセキした感情に表現をあたえようとする機運が、ホウハイとして高まりつつある。(引用者中略)かつてないいきおいでひろがっている多種多様なサークル誌にあらわれる生活記録や詩、職場のカベ新聞や組合機関紙、主婦や子どもの生活綴方等に、いままでの文学がとらえることのできなかった日本の深いゆたかな現実、その明るさと暗さが続々とほりおこされつつある。文学学校は、このような全国民的な新しい文学への要求と、それにこたえようとする専門文学者たちの努力との結合のなかから、すぐれた文学の書き手を育てる学校としてつくられ、各方面から多くの期待と注目をあびている。」(『日本文学』昭和30年/1955年1月号 針生一郎「ルポルタージュ日本文学学校」より)
なるほど、昭和30年/1955年前後というのは、そんな時代でしたか。
ひるがって直木賞のことです。生活記録、生活綴方といったものが社会に広がり、いっぽうで既成の作家たちがえんえんと生み出す「文学」なるものが行き詰まっている、と一部に見られた1950年代前半。直木賞でもやはり、一種の停滞感が選考委員会に満ちていました。
立野信之さんのドキュメント物『叛乱』に受賞させたのが第28回(昭和27年/1952年下半期)。それから第29回、第30回と二期つづけて、こんな候補の並びに何の魅力も感じない、とか何とか不平が噴出して受賞作なしに終わります。
『オール讀物』編集部も黙って手をこまねいていたわけではありません。何か新しい書き手をさがす術を考えなくてはいけないと、「オール新人杯」なる、現在のオール讀物新人賞を創設して、全国から原稿を募集しはじめたのが昭和27年/1952年のことです。いっぽうで、大衆文芸の賞だって言っているのに、全国のガチガチな文芸同人誌から選考委員の気に入るような、少し通俗性・ストーリー性を帯びた作品をピックアップしだしたのも、およそ第30回前後からで、何といっても第31回に有馬頼義さんの『終身未決囚』なんちゅう、どこに大衆ウケする要素があるのかサッパリわからない作品集を選んでしまうところにも、混迷ぶりが現われています。
というところで、人民文学グループの始めた日本文学学校が、直木賞に影響を及ぼすまでには、まだしばらくの時間がかかるんですが、田所泉さんによると、初期の文学学校の特色に「数人の講師をチューターに、参加者が小グループに分かれて作品の合評や研究を深める方法」があったといい、そのような「組会」から同人組織に進んだ例には、藤原審爾組もあったそうです(『新日本文学』平成16年/2004年3・4月合併号 田所泉「「新日本文学」史のための覚書(二)」)。
藤原さんは、そもそも人民文学のグループに近く、あるいはその一員でもあったために、初期の文学学校に関わったんでしょう。ただ、直木賞と小説教室は決して遠くにあるわけではない、ということもよく示してくれています。
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