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2020年8月23日 (日)

昭和47年/1972年、「文学の学校などあり得るのか」という疑問がわく、と書かれる。

20200823

▼昭和29年/1954年、大阪文学学校が開校する。

 昭和28年/1953年に東京にできた日本文学学校。昭和29年/1954年に発足した大阪文学学校。ともに、短い昭和の時代、短い歴史しかない日本の近現代文学史に、たしかな足跡を残した小説教室です。

 日本文学学校は平成25年/2003年に「文藝学校」と名が変わり、希薄な存在感を身にまとって、ほそぼそと続いています。いっぽう大阪文学学校は、しぶとく残っていることは同じですが、出身者の顔ぶれ、講座の充実度、受講生たちのにぎわいは、東京と比べものになりません。小説教室が群雄割拠のこのご時世、信頼と伝統の灯りをともしているという意味では、正直、大阪のほうに軍配が上がるでしょう。

 いったいどうして両者に差が付いてしまったのか。……それは、最後まで新日本文学会というマジメな組織でマジメな文学に固執してしまった前者と、ミステリーもファンタジーも、立派に文学の枠組みで勉強したっていいじゃないか、と柔軟にシフトした後者との、幅と深さの違いが歴然たる差となって現われたのだ、と一般には言われています。

 ……無論、そんなことが一般に言われているわけがありません。忘れてください。

 とりあえず大阪文校のマジメな歴史は、『いま、文学の森へ 大阪文学学校の50年』(平成16年/2004年3月・大阪文学学校・葦書房刊)という充実した一冊にまとめられています。立派なホームページでも確認できます。マジメに知りたい向きは、そちらをご確認ください。

 かいつまみますと、東京の文学学校と同様、私的な集まりと言っていい勉強会が終戦直後に開かれたところが、はじめの発端です。昭和24年/1949年夏、大阪市立文化会館の一室で月に一回、詩を愛するちまたの人たちが集まって、みんなで読んだり書いたりしはじめます。《夜の詩会》と称されたそうです。

 これが3年ほど続いたあと、時代のあわただしい情勢もあって解散しますが、詩会の中心にいた小野十三郎さんがたまたま、大阪総評の事務局にいた松岡昭宏という文学大好き青年と出会ったのが運のツキです。小野さん、ぼくらが世話しますから、《夜の詩会》みたいに誰でも気軽に参加できる詩の教室、やってみませんか。ということでハナシが進み、昭和29年/1954年に《大阪詩の教室》の参加者を募集したところ、やってきたのが150人という大賑わい。まもなく、東京の日本文学学校の力も借りて、同年、大阪文学学校を開校します。

 ここで強烈に感じるのは、松岡昭宏さんと仲間たちの、エゲツないほどの情熱と行動力でしょう。おっさんもおばはんも、街のみんなが、文学のひとつも学ばな、といってお金を出して足を運ぶ社会。そういう絵ヅラはなかなか想像しがたいものがありますが、ひとつひとつできることから始めてみないと何も達成できない、と思って動いた彼らの信念の尊さを感じます。

 もうひとつ気にかかるのが、私的なサークルや研究会だったものが、《教室》そして《学校》という制度・機関に発展していったその流れです。

 これまで大正から昭和初期の、日本の創作教室のことに触れてきました。海外とくにアメリカからの受け売りではありましたが、大学ないし専門学校の枠組みのなかで創作を指導する、いくつかの試みがあったことが確認できます。当然そのころ、もっと小規模で、仲間ウチだけの文学研究会とか文学サークルとかが、全国にたくさんあったはずです。しかしそれらは、あくまで私的な、いわゆる文学マニアな連中だけの閉鎖空間にすぎず、教室や学校にまではなり得なかった……というのが、戦前の特徴でしょう。

 本来、文学なんてものは、わかる奴だけがわかりゃいいんだ、それで十分じゃないか。という感覚もあったものと思います。あったもの、と言いますか、いまでもあるかもしれません。戦争をはさんで、日本じゅうあらゆる分野の大衆化が進むなかで、学校とか学習とかも、当然大衆化の路線を走ることになりますが、ここに文学(小説、読み物、活字文化と言い換えてもいいですけど)の大衆化が重なったことで、これまでの学校組織とは一線を画す、一般勤労者向けの自由な《学校》組織がつくられた、ということになります。昭和20年代の終わりのことです。

 しかし、「文学なんてものは、わかる奴だけしかわからない」式の感覚が、一瞬で消え去るわけがありません。このころ文学学校を紹介する文章に、揶揄っぽい表現が出てくるのを見ても、その旧弊な感覚とのせめぎ合いがあったことが、よくわかります。

「これまでも「文学を教える学校」(おかしなものです)は日大芸術科や文化学院、または明大文学科などいろいろあったがこんど日本文学学校というのが、開設された。(引用者中略)これまでの日大芸術科にしろ文化学院にしろ、あんまり卒業生から作家が出ていないから、どの程度効果があるかわからんが、(引用者後略)(『週刊読売』昭和28年/1953年12月13日号「言いたい放題 文学学校」より ―署名:志門津)

 何がどういうふうに「おかしなものです」なのか、まったく解説しようとしていません。そんなの、言わなくたってわかるでしょ、ね……という暗黙の共有認識だったんでしょう。

 それから約20年。大阪文学学校に対して放たれた紹介文にも、まだその風合いが残っています。意外と、暗黙の共有認識ってやつは、しつこいです。

「一般的には「文学の学校などあり得るのか」という疑問がわく。半面、小説でも書いて一発あててやるかといった風潮も強い昨今、「そんな便利な学校があるなら」と考える人も少なくあるまい。」(『朝日新聞』昭和47年/1972年3月27日「大阪文学学校 18年の歩み」より)

 こんなふうな、昭和30年代から昭和40年代に吹き荒れた(?)創作教室への逆風は、また追って探っていこうと思います。

          ○

▼昭和40年/1965年、田中ひな子が『新文学』に作品を発表、仲間からの批評に傷つく。

 ここから無理やりつなげます。直木賞のことです。無駄に長いこの賞の歴史のなかでも、大阪文学学校の果たした役割が小さくなかったことは、誰も否定ができません。

 直木賞を追えば、かならず大阪文校に当たる。……というのは言いすぎじゃなく、文校のレジェンド田辺聖子さんからして、ほとんど芥川賞というより直木賞の人ですし、21世紀の朝井まかて・木下昌輝旋風を経て、いまなお風は吹きつづけています。

 これまでうちのブログでも、知らず知らず、何度かこの学校のことに触れてきました。北川荘平さん(第39回昭和33年/1958年上半期、第43回昭和35年/1960年上半期、第54回昭和40年/1965年下半期、第55回昭和41年/1966年上半期の候補)とか、田中ひな子さん(第55回昭和41年/1966年上半期の候補)とか、その存在や残した作品が、直木賞エピソードのなかでもテッパンの人たち。彼らと直木賞周辺には、大阪文校の影がくっきりと差しています。

 とくに田中ひな子さんは、個人的に興味をそそられる書き手なんですけど、文校に通っているあいだは、まわりの人たちがあまりに小難しい文学バナシばかりするので、ポカーンと口をあけて付いていけなかった、と言います。卒業後に書いた「浦上川」は、明治時代のキリシタン弾圧に材をとったもので、文校の同人機関誌『新文学』に採用されましたが、文学に心を食われ尽くした仲間たちから、通俗的だとか何だとか酷評を浴びせられ、さすがにムッとしたらしいです。

 そのころ、大阪文校の講師として名を連ねていたひとりに、西口克己さんがいます。田中さんは直接、西口さんの講義を受けることはできませんでしたが、のちの昭和40年/1965年5月、文校時代の友人、前田愛子さんに誘われて、西口さんが直接顔を見せるという『文珠九助』の合評会に参加。はじめて謦咳に接し、この方に自作を読んでもらいたい! と強く思います。

 おそらく、仲間に批判されたことも愚痴めいて伝えたんでしょう。西口さんから手紙が届き、こう書いてあったそうです。

「自分もおまえの書くものは、図式的だとか、月並みだとか、浪曲調だとか、講談調だとか、いろんなことをいわれてきた。そういった批評家のいうことを気にした日には、息がつづかない、仲間にくさされたからといって、けっして悲観してはならない、(引用者後略)(昭和62年/1987年3月・かもがわ出版刊『西口克己―廓と革命と文学と』所収 田中ひな子「不肖の弟子」より)

 それからまもなく、田中さんが『新文学』に発表した「善意通訳」が直木賞の候補になったときには、西口さんから「君、これから僕と社会主義競争をしようや」と声をかけられたと言います。要するに、当落なんか気にせず地道にたくさん書いていこうぜ、とハッパをかけられたわけです。

 すみません、文学学校のことからは少しズレてしまいました。生涯師と仰ぐ先輩とか、文学のことからそうでないことまで語り合える友達とか、人との出会いを生む場所として、文学学校の存在は外せません。誰か未知の人と知り合える。……いろいろとあるはずの創作教室の特徴のなかで、トップクラスに君臨する意義は、やはりそこに落ち着くでしょう。総じて《学校》全般がもつ意義でもあります。

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