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2020年8月の5件の記事

2020年8月30日 (日)

昭和38年/1963年、大阪文学学校が『新文学』を創刊、同人雑誌の世界でも存在感を示す。

20200830

▼昭和39年/1964年頃から、文学学校の同人雑誌が『文學界』でも取り上げられ始める。

 戦後の日本文学を眺めまわして、目につく現象はいろいろありますけど、絶対に外せないものがあります。文学賞(懸賞小説)と、同人雑誌と、そして小説教室。いわゆる「三種の神器」ってやつです。

 いや、「神器」と呼ぶのはさすがに語弊がありました。すみません。何と言いますか、この世に「文学」というものがあるのだとして、それは文芸誌とか文芸出版社だけがつくり出してきたわけじゃない、なんてことは子供でもわかる常識レベルの話でしょう。広く社会に根差した文学、一般庶民まで巻き込んだ文学の現象、という観点で見たとき、この3つが果たしてきた役割には多大なものがあった……ということが言いたかったんです。

 とりあえず、うちのブログでは小説教室の歴史的な流れを追っています。いまのところ、なかなか直木賞との接点を取り上げる機会がなく、それだけが悲しいんですが、いつかそこに至るものと信じながら続けることにしまして、小説教室の流れが、文学賞や同人雑誌の動きと無縁ではないことは言うまでもありません。それで今日は同人雑誌の観点から、小説教室の推移を見てみることにします。

 参考にするのは『文學界』の「同人雑誌評」です。昭和26年/1951年4月号に始まり、平成20年/2008年12月号で終わった57年半の歴史をもった企画です。

 ちょうど昭和20年代後半というと、日本文学学校、大阪文学学校と、組織的なスクール制度の創作教室が草の根運動のように始まったっ時期に当たります。そのスタートが「同人雑誌評」と重なるのは偶然とは思えません。ものを読みたい。そして書きたい。ひとりじゃできないから、みんなで集まってやるしかない。……というその衝動が全国的な広がりを見せる「文学大衆化」の波のうえに、同人雑誌も小説教室も乗っかっています。さらにここに、多少ながらもお金のやりとりが発生するビジネスの視点が交わったとき、両者は見違えるような発達を遂げることになるわけです。

 と、昭和26年/1951年に始まった「同人雑誌評」ですが、ここに文学学校の存在が出てくるのは、多少の時間がかかります。文校の同窓生がつくった同人誌として『錚錚』と『文学世紀』の作品に触れられたのが、昭和39年/1964年1月号です。

 50年代から60年代はじめの約10年。この時期に何があったかと言えば、いちばんの変化は日本の経済成長でしょう。全体的にカネのめぐりがよくなった。ということがめぐりめぐって、ガリ版でせっせと字を書かなくても、活版を組む印刷会社にお願いできるという選択肢が、一般的に広がります。文校同窓生のつくった同人誌のなかでも『文学世紀』は、時代を切り開いた画期的な存在ともいわれますが、これが「同人雑誌評」で取り上げられ、やがて直木賞の候補作を生み出すことになるのですから、ビジネスも一概に馬鹿にできません。

 ちなみに大阪文校の機関誌『新文学』が、今月創刊したものとして誌名だけ紹介されたのも、昭和38年/1963年10月号と、ほぼ同時期です。この号の同人雑誌評では担当の駒田信二さんが、田辺聖子さんの「神々のしっぽ」(『大阪文学』10号)と「感傷旅行」(『航路』7号)の二つを挙げて褒めているという、まあ直木賞の歴史から言っても(いや、もうひとつの文学賞の歴史から言っても)重要なタイミングに当たっています。文学学校やその生徒・卒業生たちが同人雑誌という武器を持ったことで、商業出版のほうでも活躍できるのだ、ということを示しはじめたのが1960年代なかばだった、と見ていいでしょう。

 その頃、久保田正文さんがこんなことを書いています。昭和41年/1966年2月号の文章です。

「文学は教えることができるか、というふうなことがこのごろ問題になっている。文学学校というふうなものが成り立つか、という問題である。各地に文学学校ができ、そこから何人かの作家が出てきている。(引用者中略)教えることができるかできぬか、というよりも学び方の問題ではないだろうか。学ぶ気がなかったら、教えることもできるはずはない。しかし、文学も〈学〉という字がつくのだから、学校と学ぶこととにやはり縁があるだろうと私はおもう。全国あちこちに文学学校がうまれ、そこから雑誌が出はじめていることを私はやはり歓迎する。」(『文學界』昭和41年/1966年2月号 久保田正文「目立つ達者な語りぐち」より)

 このときに挙げられた雑誌を補足しておくと、名古屋市の文学学校生徒による『造子』、福島県立会津短大の『会津文学』、文学学校福岡教室の生徒による『緑と太陽』などです。

 各地で続々と……といった状況のなかでも、このころ同人雑誌界をリードした文校といえば、やはり大阪文学学校に尽きるでしょう。『文學界』の同人雑誌評界をリードした、と言い換えたほうがいいかもしれません。同校の『新文学』からは、伊豆田寛子「向日葵」(昭和41年/1966年1月号)、谷原幸子「序曲」(昭和44年/1969年8月号)、奥野忠昭「空騒」(昭和45年/1970年4月号)、高見堯「貼り絵の街」(昭和49年/1974年5月号)、福元早夫「工場」(昭和50年/1975年1月号)、大江耀子「二人三脚」(昭和51年/1976年2月号)と、カッコ内に示した『文學界』年月号への転載作が出て大評判。さらには同誌が『文学学校』と誌名を変えた昭和54年/1979年以降も順調に取り上げられて、在校生作品集から上田真澄「真澄のツー」という芥川賞候補作まで生み出してしまいます。

 ほかにも、同校からは『夢玩具(ムガング)』とか『0番線』とか、生徒たちの創作熱の高まりが結実した同人誌がつくられるなど、小説教室と同人誌ってこんなに相性がよかったのか、と多くの人がハタと膝を打つ事態に。これもそれもけっきょくは、順調に社会経済がまわり、書き手の情熱とお財布事情がうまくかみ合ったおかげ、というのは容易に想像がつくところです。

 全国の文学学校花ざかり、といった1960年代からの進捗のおかげで、学校と同人雑誌とのさまざまな体験が積みあがっていた1970年代後半、ついに刺激的なスパークが起きます。カルチャーセンター創作教室の登場です。

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2020年8月23日 (日)

昭和47年/1972年、「文学の学校などあり得るのか」という疑問がわく、と書かれる。

20200823

▼昭和29年/1954年、大阪文学学校が開校する。

 昭和28年/1953年に東京にできた日本文学学校。昭和29年/1954年に発足した大阪文学学校。ともに、短い昭和の時代、短い歴史しかない日本の近現代文学史に、たしかな足跡を残した小説教室です。

 日本文学学校は平成25年/2003年に「文藝学校」と名が変わり、希薄な存在感を身にまとって、ほそぼそと続いています。いっぽう大阪文学学校は、しぶとく残っていることは同じですが、出身者の顔ぶれ、講座の充実度、受講生たちのにぎわいは、東京と比べものになりません。小説教室が群雄割拠のこのご時世、信頼と伝統の灯りをともしているという意味では、正直、大阪のほうに軍配が上がるでしょう。

 いったいどうして両者に差が付いてしまったのか。……それは、最後まで新日本文学会というマジメな組織でマジメな文学に固執してしまった前者と、ミステリーもファンタジーも、立派に文学の枠組みで勉強したっていいじゃないか、と柔軟にシフトした後者との、幅と深さの違いが歴然たる差となって現われたのだ、と一般には言われています。

 ……無論、そんなことが一般に言われているわけがありません。忘れてください。

 とりあえず大阪文校のマジメな歴史は、『いま、文学の森へ 大阪文学学校の50年』(平成16年/2004年3月・大阪文学学校・葦書房刊)という充実した一冊にまとめられています。立派なホームページでも確認できます。マジメに知りたい向きは、そちらをご確認ください。

 かいつまみますと、東京の文学学校と同様、私的な集まりと言っていい勉強会が終戦直後に開かれたところが、はじめの発端です。昭和24年/1949年夏、大阪市立文化会館の一室で月に一回、詩を愛するちまたの人たちが集まって、みんなで読んだり書いたりしはじめます。《夜の詩会》と称されたそうです。

 これが3年ほど続いたあと、時代のあわただしい情勢もあって解散しますが、詩会の中心にいた小野十三郎さんがたまたま、大阪総評の事務局にいた松岡昭宏という文学大好き青年と出会ったのが運のツキです。小野さん、ぼくらが世話しますから、《夜の詩会》みたいに誰でも気軽に参加できる詩の教室、やってみませんか。ということでハナシが進み、昭和29年/1954年に《大阪詩の教室》の参加者を募集したところ、やってきたのが150人という大賑わい。まもなく、東京の日本文学学校の力も借りて、同年、大阪文学学校を開校します。

 ここで強烈に感じるのは、松岡昭宏さんと仲間たちの、エゲツないほどの情熱と行動力でしょう。おっさんもおばはんも、街のみんなが、文学のひとつも学ばな、といってお金を出して足を運ぶ社会。そういう絵ヅラはなかなか想像しがたいものがありますが、ひとつひとつできることから始めてみないと何も達成できない、と思って動いた彼らの信念の尊さを感じます。

 もうひとつ気にかかるのが、私的なサークルや研究会だったものが、《教室》そして《学校》という制度・機関に発展していったその流れです。

 これまで大正から昭和初期の、日本の創作教室のことに触れてきました。海外とくにアメリカからの受け売りではありましたが、大学ないし専門学校の枠組みのなかで創作を指導する、いくつかの試みがあったことが確認できます。当然そのころ、もっと小規模で、仲間ウチだけの文学研究会とか文学サークルとかが、全国にたくさんあったはずです。しかしそれらは、あくまで私的な、いわゆる文学マニアな連中だけの閉鎖空間にすぎず、教室や学校にまではなり得なかった……というのが、戦前の特徴でしょう。

 本来、文学なんてものは、わかる奴だけがわかりゃいいんだ、それで十分じゃないか。という感覚もあったものと思います。あったもの、と言いますか、いまでもあるかもしれません。戦争をはさんで、日本じゅうあらゆる分野の大衆化が進むなかで、学校とか学習とかも、当然大衆化の路線を走ることになりますが、ここに文学(小説、読み物、活字文化と言い換えてもいいですけど)の大衆化が重なったことで、これまでの学校組織とは一線を画す、一般勤労者向けの自由な《学校》組織がつくられた、ということになります。昭和20年代の終わりのことです。

 しかし、「文学なんてものは、わかる奴だけしかわからない」式の感覚が、一瞬で消え去るわけがありません。このころ文学学校を紹介する文章に、揶揄っぽい表現が出てくるのを見ても、その旧弊な感覚とのせめぎ合いがあったことが、よくわかります。

「これまでも「文学を教える学校」(おかしなものです)は日大芸術科や文化学院、または明大文学科などいろいろあったがこんど日本文学学校というのが、開設された。(引用者中略)これまでの日大芸術科にしろ文化学院にしろ、あんまり卒業生から作家が出ていないから、どの程度効果があるかわからんが、(引用者後略)(『週刊読売』昭和28年/1953年12月13日号「言いたい放題 文学学校」より ―署名:志門津)

 何がどういうふうに「おかしなものです」なのか、まったく解説しようとしていません。そんなの、言わなくたってわかるでしょ、ね……という暗黙の共有認識だったんでしょう。

 それから約20年。大阪文学学校に対して放たれた紹介文にも、まだその風合いが残っています。意外と、暗黙の共有認識ってやつは、しつこいです。

「一般的には「文学の学校などあり得るのか」という疑問がわく。半面、小説でも書いて一発あててやるかといった風潮も強い昨今、「そんな便利な学校があるなら」と考える人も少なくあるまい。」(『朝日新聞』昭和47年/1972年3月27日「大阪文学学校 18年の歩み」より)

 こんなふうな、昭和30年代から昭和40年代に吹き荒れた(?)創作教室への逆風は、また追って探っていこうと思います。

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2020年8月16日 (日)

昭和30年/1955年ごろ、職業作家をめざして日本文学学校に入学した人が、やめていく例、後を絶たず。

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▼昭和30年/1955年、藤原審爾が日本文学学校の講師を務める。

 昭和の文学的な現象には、日本共産党やら社会主義イデオロギーやら、そういうヌメヌメした物体がつきものです。直木賞でも、小説教室でも、あまり事情は変わりません。うえっ、何だかメンドくさっ。と、つい逃げ出したくなりますけど、とりあえず日本文学学校については簡単に確認しておきたいと思います。

 日本文学学校準備委員、野間宏・徳永直の連名で「日本文学学校設立趣意書」がつくられたのは、昭和28年/1953年8月20日のことでした。ときに戦争が終って7年、8年……。貧窮する人たちの暮らしづらさが日本じゅうに広がるなか、みんなで文学作品を読み、自分でも書いてみる、という行為を通して、仲間をつくったり、男女がイチャついたりする労働者たちの地域サークル・職場サークルが、各地で熱を帯びはじめたころです。

 そんな社会状況のいまだからこそ、民主主義の確立をめざすのだ。そうだ。サークル活動なんかにとどめずに、労働者が通える文学の学校をつくったらどうだろうか。……という発想をする意識高い系の人たちが、昭和20年代後半になって生まれます。針生一郎さんによりますと、そもそもは、野間宏さんを筆頭に足柄定之、木島始、郷静子、玉井五一、松本昌次などなどの参加した〈トロイカ文学集団〉とか、小林勝、黒井千次、井出孫六などによる文学研究会の集団とか、そこら辺りから文学学校の発想が生まれたんだ。とかいう噂もあるそうです。

 ともかく、はじめのころに想定されていたのは、毎日汗水流して働いている人たちが通う、そんな学校です。入学の審査はマジで肉体労働者が優先されていたらしく、イイ大学を出てスーツを着込んで働いている人なんかは、書類と面接で落とされることもあったんだとか。それはそれで、どうなんだ、と思いますけど、弱い立場の人のことを第一に考える。大切な姿勢でしょう。

 それで、彼らを集めて何をやったんでしょうか。まずは「あなたはどうやって育ってきたんですか」とか、「いまどんな仕事をして、どんな問題を抱えていますか」とか、そういう身近なことを綴方・作文・生活記録に書きましょう、みたいなことを講座のなかで実践しはじめます。

 ところが、すぐに壁にぶち当たります。生活記録を書かせるだけでは、うまくいかないことが徐々にわかってきた、と言うのが針生一郎さんです。以下は、『文学』昭和31年/1956年3月号に載った京都文学教室の報告文を受けての文章ですが、はじまって2~3年の日本文学学校でも同じように、生活記録を文学の創作として進めていく方向性に行きづまりを感じたんだそうです。

「京都文学教室の(引用者中略)報告には「止めていった人の中には、文壇を志した人が多かった。あるいは、『教室の雰囲気が片寄っているのでどうもなじめなかった』と後でいっている人もあった」というふうに書かれている(引用者中略)。ぼくらもそういう失敗をしばしばくり返してきました。」(昭和44年/1969年11月・田畑書店刊 針生一郎・著『超デザイン・ノート 針生一郎評論3』「生活記録と文学」より)

 生徒たちはいろんな動機で入学してきます。なかには、文壇に出たいとか、職業作家になりたいとか、明確な意思をもつ人も存在していました。このとき、学校として教室として、どう対応するか。小説教室という文化の大きな転換点だったろうと思います。

 というところで、昭和30年/1955年に至って風穴をあけかけた(?)作家が、ここに参戦することなるのです。前週の終わりにチラッと名前の出てきた藤原審爾さんです。

 藤原さんはそれから約30年後、昭和58年/1983年に『新日本文学』誌上で当時のことを回想しながら、文学学校の問題点などを針生さんと語り合っています。これがまた、やたらと面白い対談で、80年代前半というとカルチャー・センターの創作講座が隆盛した頃の会話だからでしょう、「自分の目で、自分に身近なことを題材にして」書かせる50年代の生活記録から、フィクションを取り込んで小説の方式で書かせるやり方が主流になっていく戦後30年の歩みが、よく現われています。「小説教室」の歴史から見ても、かなり重要な記事です。

 せっかくなので、藤原さんが文学学校に持ち込んだという、フィクションによる創作指導の一端を引いておきます。

「針生 ちょうど一九五五年ごろから、日本経済が復興して高度成長がはじまるわけね。それにつれて、生活記録的素朴リアリズムと貧しい、苦しいという被害者意識で社会にたちむかってゆく姿勢は、日常生活のなかに基盤がなくなって、それだけではゆきづまってしまう。どうしてもフィクションが必要になるんですね。そこで文学学校の課題創作でも、最初の月が「私の生いたち」、次の月が「私の職場」、三番目にはフィクションを入れてっていうんで、藤原さんが一度出題して下さったことがありますね。銀座の毛皮屋のショウウィンドウで、百万円でしたかね、要するに手のとどかないような値段の正札がついているミンクのコートを、二十歳前の少女がじっとみている、という場面を設定して、そこから自由にストーリーを展開させよという。」(『新日本文学』昭和58年/1983年10月号 藤原審爾・針生一郎「対談 いま文学を学ぶ意味」より)

 このまま突き抜けていけば、作家養成のほうに舵を切って、きっと日本文学学校のその後も変わっていたでしょう。しかし、「文学」とはもっと幅広く、奥深いものだという感覚が崩れることはなく、プロ作家を育てるためにやっているんじゃない、という文校の方針が揺らぐことはありませんでした。結果、藤原さんの文学教室は、学校とは関係のない私的なところで華ひらき、新しい職業作家を生むことになります。

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2020年8月 9日 (日)

昭和28年/1953年、生徒120人を迎えた日本文学学校が日ソ図書館で始まる。

20200809

▼昭和25年/1950年、江馬修、豊田正子たちが『人民文学』を創刊する。

 豊田正子さんの代表作は、何といっても『綴方教室』です。そのままの状態で時が流れていたら、「アダ花のように消えた悲運の少女」の伝説になったかもしれません。しかしその後、豊田さんを「かつての実情を暴露して、大木先生の恩を仇で返した怖いオバさん」に変貌させるとともに、彼女に作家としての道筋をつけてしまったエロ爺いがいます。江馬修さんです。

 ……と、そういうゴシップ方面を追いはじめると、あまりに楽しくて本論からズレる一方です。とりあえず江馬さんと豊田さんは、戦後に発展する小説学校の誕生に、大きな足跡を残した人たちでもあります。そこだけ取り上げます。

 江馬さんは昭和に入ってまもないころに、うきうきわくわくプロレタリア陣営の仲間となって、弾圧と迫害を受けながら共産主義にひた走りますが、昭和21年/1946年に、晴れて日本共産党に入党。飛騨地区の委員長に選ばれます。

 戦後の共産党というと何でしょうか。文学の話題でいえば、昭和20年/1945年12月に結成された新日本文学会と、切っても切り離せません。

 それはそれで、複雑な歴史をもつ機関ですから、外野の人間が気軽に入り込むわけにはいきませんけど、新日本文学会を抜きに小説教室のハナシを語れないのは事実です。

 ざっくり言いますと、敗戦とともにスタートした同会では、まず戦時下にドヤ顔で躍動していた文学者たちの追及や反省がおこなわれます。国家とか資本家とか、支配権力は諸悪の根源で、そんなところから生まれる文学を認めるわけにはいきません。これからの文学を担っていくのは全国の勤労者だ! と問題意識を訴え、機関誌の『新日本文学』に次ぐ準機関誌として『勤労者文学』(昭和23年/1948年3月~昭和24年/1949年8月)をつくったりします。

 ところが昭和25年/1950年、日本共産党の内部のほうで、コミンフォルムの機関紙『恒久平和と人民民主主義のために!』に発表された「日本の情勢について」という解説記事をめぐって、犬も食わない大ゲンカが勃発。その煽りを食った新日本文学会も一枚岩ではいられなくなったところで、同年11月、『人民文学』という雑誌がいきなり創刊されます。この創刊に加わったのが、地元の岐阜からたびたび上京していた江馬さんでした。編集長に就任します。

 やがて亡くなった宮本百合子さんに対して、異常な批判の姿勢を見せるなど、「他人に厳しく、自分に甘い」という軽蔑すべき誌面構成を展開。相変わらず江馬ジイさん、元気にやっとりますなあ、という感じです。そんなさなかに、名前だけは有名だけど当時はさしたる作品を書いていなかった豊田正子さんと、いっしょに『人民文学』を編集したことで知り合って、急速に愛をはぐくみますが、妻子のある身で別の女性に手を出すと、野次馬たちが目くじらを立ててキーキー騒ぎ出す、というのは、いまを生きるワタクシたちもよく見かける光景です。

 いや、不倫関係が直接叩かれたのではないかもしれません。くわしくは優秀な文壇ゴシッパーたちにおまかせしますが、昭和26年/1951年夏ごろには、江馬さんは『人民文学』の編集から離れます。

 しかし、江馬・豊田コンビが携わった『人民文学』の誕生(というか『新日本文学』からの分裂)が、日本の小説学校発達史のなかに、画期的な楔を打ち込んだのは、まぎれもない事実です。

 『人民文学』昭和26年/1951年3月号に載った、島田政雄さんの「文学運動の新しい方向」という論文があります。ある筋ではいろいろと悪評高い論文だそうですけど、これを『人民文学』の創刊当時の考えをよく示しているものとして紹介しているのが窪田精さんです。

「島田政雄はこの論文のなかで、「大衆路線」ということを主張し、(引用者中略)「あらゆる重要産業と経営のなかに、闘争と密着する文学の書記集団――文学サークルをつくり」「下手であれ、上手であれ、ともかくも、速やかに職場や地域の現実を反映し、闘争を反映したルポルタージュ、スケッチ、詩、小説、川柳、歌などを、どんどん生み出さなければならない。それは刻々の闘いに役立つものでなければならない」と主張している。

もちろん、戦後の民主主義文学運動は、運動に参加する文学者や文学サークルなどの、そのような「文化工作隊」的な活動を否定してはいない。そういう活動についても、それを評価している。しかし島田政雄のこの主張は、文学・芸術運動を総合的なものとしてみていないところに、根本的な誤りがあった。」(昭和53年/1978年6月・光和堂刊 窪田精・著『文学運動のなかで 戦後民主主義文学私記』「第八部 『北多摩文学』のころ」より)

 島田論文は、キモち悪いイデオロギーさえ除けば、内容はいいこと言っているのになあ、という見本のようなものかもしれません。他人を傷つけることで自分を守ろうとする、イヤな連中。江馬さん率いる初期の『人民文学』には欠かせない特色でしょう。

 それはともかく、上記の窪田さんの本を読むと、民主主義文学の運動というのは、おのずと文学サークル的なものや、労働者ひとりひとりが文学をつくり出す動きと結びつくのだ、ということが見て取れます。貧しい自分の家庭環境を綴方で表現することで物書きとして認められた豊田さんが、大衆みずからの手で文学を! の活動に共鳴したのは、ある意味自然だったんでしょう。

 江馬・豊田カップルは『人民文学』からすぐに離れてしまいましたが、その熱気は徐々にかたちをなしていき、野間宏さんなどがグループの中心となった後期にいたって、そうだ、文学の学校をつくろうじゃないか、という展開になるわけです。学生でも、サラリーマンでも、農民でも、自分に身近な生活のなかで文学を読み、あるいは文学をつくり出す。たしかに素晴らしい発想です。

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2020年8月 2日 (日)

昭和12年/1937年、大木顕一郎が綴方(作文)指導のケーススタディ本を出して大ヒットする。

20200802

▼昭和12年/1937年、大木顕一郎が綴方指導の成果を本にする。

 先週からのつづきです。森田草平さんが大正13年/1924年に「小説作法講話」を書いた、というおハナシでしたが、そのころ森田さんの近くにいた人物にも、少し手を広げてみたいと思います。

 森田さんといえば、法政大学の教壇に立ちながら、作家としても有名だった人です。まわりには、たくさんの文学志望者たちが群がっていただろうと思います。そのなかのひとりの青年が、小説家になる夢に破れたあと、超絶に有名な創作の指導者として、出版界のみならず、ジャーナリズム全般をにぎわせることになるのですから、これは無視できません。

 いや。間違えました。「創作の指導者」じゃありません、「綴方の指導者」でした。大木顕一郎さんです。お子ちゃまたちを相手に作文の書き方を教えた人です。

 明治29年/1897年、千葉県印旛郡に生まれた大木さんは、旧制成田中学で鈴木三重吉さんの教え子だったことがあり、それが後年大木さんの人生を大きく変えることになりますが、青年時代は千葉県内の小学校に勤めながら文学にお熱を上げます。三重吉さんの縁を頼って、大正9年/1920年、千葉県木下町に住んでいた森田さんを訪ねたことがきっかけで、「師匠と弟子」のようなかたちで親しくなっていったそうです。

 大正の後期、森田さんが『女性改造』に「小説作法講話」を連載していたちょうどその頃、大木さんも自分で長編小説を書いては森田さんの指導を受けていた、と言います(昭和21年/1946年9月・柏書店刊、豊田正子・著『続思ひ出の大木先生』所収 森田草平「大木顕一郎君と私」)。けっきょくその作品はモノになりませんでしたが、森田さんから「人生の歩みは早いのだからぼくの目玉の黒いうちになにか一つだけ仕事をしろ」と、厳しい言葉を叩きつけられたのが、おそらく大正末期から昭和初期のころです(『別冊週刊サンケイ』昭和34年/1959年10月号 大木みや子「豊田正子への公開状 汚されなかった綴方教室」)。大木さん、20代後半から30代に差しかかろうかという頃合いでした。

 家庭の事情もあって東京に移った大木さんは、葛飾区の四ツ木小学校、本田小学校に奉職します。おれは作家にはなれなかった。じゃあ教師として打ち込めるものは何なのか。と考えるうちに熱中したのが、児童たちに綴方の書き方を通して教育を施すということです。

 綴方(作文)の書き方を教える行為は、小説の書き方指導と似ているようで、まったくの別モノかもしれません。まあ、それを言い出すと、エッセイと作文は何が違うのかとか、作文と読み物小説は、どこに区別があるのかとか、クダらない文学談議に突入して嘔吐感に苦しまなくてはならないので、足を踏み入れるのはやめておきます。とりあえず大木さんは、かつての恩師、鈴木三重吉さんの主導する『赤い鳥』系列の綴方運動に大きな魅力と可能性を感じ、小学校という教育の現場で、綴方とはどういうものなのかを教え子たちに説き、じっさいに書かせてみるという授業を展開します。

 すると、あらまあ不思議なことに『赤い鳥』に入選する児童が何人も出てきたじゃありませんか。綴方なんてイヤだイヤだと言っていた児童たちが、乗り気になって書きはじめます。よかったよかった。……と、これだけでも森田さんの言っていた「一つの仕事」を立派に成したと言っていいと思いますけど、その優秀な児童のなかに、家庭は貧乏だけど、けなげで素直、しかも見た目も可愛らしい女の子がいたために、大木さんの名前が一気に有名になってしまったわけです。

 その少女、豊田正子さんが尋常小学の四年生として本田小学校に転校してきたのは、昭和7年/1932年のことでした。大木さんの指導を受けてメキメキと綴方がうまくなり、彼女自身も楽しんで続けたところから、『赤い鳥』入選七回という見事な結果を残します。そのうちに、この指導と成果を本にして残したいぞ! と思った大木さんは原稿の作成に取り組みますが、大木さんが指導して入選した児童は他にも何人もいます。なかで豊田さんをケーススタディに選んだのは、最初は全然ダメだった児童が、徐々にきちんと綴方を書けるようになった、という教育事例として最も適切だと判断したのかもしれません。

 同じく綴方の教育に熱心だった清水幸治さんと協力して、そのやり方や実情をまとめた原稿ができあがると、自費出版でもいいから世に問いたいと思って、知り合いの意見を聞いたり、出版社にお願いにまわったりします。しかし、どうもこの豊田正子って子の作文が、特色がないんだよねえ、とか何とか断られるうち、元『赤い鳥』の編集者で、大木さんの知り合いだった中央公論社の木内高音さんが、よっしゃうちで出してやろうと決断。題名も木内さんが考えて『綴方教室』とすることが決まり、昭和12年/1937年8月の刊行までこぎつけます。

 翌年これが演劇化され、さらには映画化までされることになって、世を挙げての大騒動。単行本の『綴方教室』は10万部ぐらい売れた、と言いますから、人間っていうのはいつの時代も「天才少女」みたいなものに弱いんだな、もしくは、他人の家庭事情を覗き見るのが好きなんだな、と思いますけど、何といっても恐ろしいのは、本なんてあまり読んだこともなかったし、自分が物書きになるなんて考えていない、とずっと言っていた豊田さんが、けっきょくその後、江馬修さんとの出逢いなどもあって、ほんとに「作家」になってしまったことです。

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