昭和12年/1937年前後、日本大学芸術科が創作科のなかに大衆文芸専攻を設ける。
▼昭和6年/1931年、日本大学芸術科が大学部と専門部を設置
文化学院、明治大学と来ました。今週はこの流れで日本大学を取り上げます。
それぞれの学校に創作指導的な学科ができたのが、1930年代より少し前のこと。文化学院文学部は昭和5年/1930年4月、明治大学文学部は昭和7年/1932年4月です。それに先駆けて三校で最も早かったのが日本大学芸術科で、前身となる「美学科」が創設されたのは、大正10年/1921年だったと言われます。
その創設趣意書のなかには、こうあります。「大学に美学科を新設し、芸術大学の実を有せしめ、新芸術の創造を期し、天才の出現、評論家の輩出、芸術の民衆化等に於て新文化創造の一翼を荷はんと欲する」。……とりあえず念頭におかれていたのは絵画や彫塑といった分野の美術家、あるいは音楽家の養成だったのかもしれません。それがまもなく松原寛さんという哲学の学者が学科運営の長となって、大正13年/1924年4月に「芸術科」と改称……。ということになっているんですけど、専門部ないし学部というかたちで一般に認識されるようになったのは、それよりもう少し遅く、昭和4年/1929年からだった、ということのようです。文芸に関する教育もこのころから盛んになっていった、と見ていいでしょう。
1930年前後というのは、創作教室の盛り上がりの第一波が日本に訪れた時代にあたります。その時代の風のなかで日大芸術科が姿を変えたのは間違いありません。日大芸術科が大学部と専門部の両部を設置し、そのもとで演劇、舞踊、映画、美術、音楽などの分野とともに文学を専攻科目として打ち出したのが、昭和6年/1931年4月だからです。
この大学というか創作教室は、日本の文化にどんな功績を残したのでしょうか。正直いってよくわかりませんけど、とくに文学賞の……芥川賞の歴史でいうと、ひとつの同人雑誌をつくり、それを継続して出しつづけたことが挙げられます。
誌名は、まんま『藝術科』と名付けられて、昭和7年/1932年12月に創刊。以来、そこに通う学生たちの作品が掲載される創作意欲の受け皿となった雑誌です。
『藝術科』は全国で出ている他の同人誌と並んで、芥川賞の下読みの対象に組み入れられました。そのなかから吉川江子さんとか李殷直さんとか元木国雄さんとか三田華子さんとか、そういう人たちの作品が取り上げられ、最終的な候補作となって本選で議論されたりします。正直、いまでも名前が残っている作家たちか、と問い詰められると、泣いて逃げ出すしかないんですが、昭和10年代、群雄割拠の同人誌のなかで、たまさか同じ学校に通って小説を学んでいた、というつながりしかない人たちの雑誌が、芥川賞候補として何度も取り上げられたことによって歴史に名を刻んだのは事実です。
創設当初に講師のひとりだったのは川端康成さんですが、だんだんと足を運ばなくなり、代わりにその席についたのが伊藤整さんです。のちにこんな回想を残しています。
「今まで書いたことはないが、日大芸術科という極小の分派が昭和の日本文壇にある。東大、早大、三田等に較ぶべくもないが、それは仲間意識をもって存在している。
(引用者中略)
池田みち子さんは私が行った当時教室の十名ほどの学生の中にいた。その夜学生の中には、いま共同通信にいる堀川潭君、金達寿君、妻木新平君、岩波健一君、その他多くの忘れがたい人々がいるが、今は触れている余裕がない。私より年上の学生もいて、それぞれに昼間働いている人々なので、私などより世の中のことを知っていた。その人々の書いて来るものを読み合い、批評し合うゼミナールは大変活気があって面白かった。」(伊藤整「十返肇氏の思い出」より ―初出『文芸』昭和38年/1963年11月号)
夜間の学校だったと言っています。学生たちも、他に勤めのあるオトナたちが多く、そういう人たちがあまりの創作熱をひとりで抱えることに耐え切れず、なけなしの生活費のなかから学費を払い、教室に通って自分で文章を書いては、批評し合っていたと言います。伊藤さんの同僚講師だった福田清人さんにも、やはりこの教室のことを語った文章があるんですが、他の分野に比べて文学は、それだけで世に出て食っていける、という類いのジャンルじゃないので、通ってくる人たちもだんだん「ここからデビューしてやるぞ!」みたいな考えは薄くなっていくようだ、うんぬんと書いています(昭和17年/1942年8月・国文社刊『文学ノート』所収「文学教師」)。
創作できる人材を世に送り出す、とは言いながら、デビューできるのはひと握り。活躍しつづけられるのは、さらにひと握り……というのが、現実の世界です。いまも昔も、創作教室というものが持つ宿命と言っていいでしょう。
○
▼昭和10年/1935年、伊藤整が日本大学芸術科の講師に就任
伊藤整さんが、上の文章で追悼している十返肇さんは、のちに評論家ないし文壇リポーターとして活躍した人です。戦後の文芸ジャーナリズムで盛んに芥川賞や直木賞のハナシを世に発信しつづけた、まあ直木賞にとっても恩人のひとりですが、学校に通っていたときは小説を書き、『藝術家』にも掲載されたといいます。
そのころの十返さんは吉行エイスケさんに心酔して、家に遊びに行ったりしていたらしく、その縁で吉行さんに紹介されたのが武田麟太郎さんでした。
「彼(引用者注:武田麟太郎)は吉行氏が私を紹介し、よろしく頼むというと、
「君が『芸術科』に書いていた小説を読んだよ、吉行そっくりだね」
といった。」(昭和37年/1962年10月・角川書店刊、十返肇・著『文壇放浪記』所収「下積み放浪」より)
といった感じで、「文学」というものを商売道具にした、十返さんの泥くさい執筆人生が幕をあけるわけですが、けっきょく十返さんといえども、創作で食っていくことはできませんでした。創作主体を掲げた日大芸術科を出たところで、そうでない人たちと同様、職業作家になれるのは何万分(何十万分)の一の世界だ、ということになります。
のちに作家にまでなった、そのわずかな例のひとりに池田みち子さんがいます。戦後、第30回(昭和28年/1953年・下半期)のときに直木賞の候補にもなった人です。あるいは、伊藤さんの日大芸術科時代の教え子、八匠衆一さんも第34回(昭和30年/1955年・下半期)候補に選ばれました。
芸術科から続く日大芸術学部まで含めると、赤江瀑さん(中退)、宗田理さん、林真理子さん、早坂暁さん、堀和久さん(中退)などの出身者が直木賞の候補になっています。他の創作系大学に比べて、最も直木賞と交わりをもった学科なのはたしかでしょう。
歴史的に日大芸術科が、早いうちから直木賞の方面にも視線を向けていた。といいますか、職業的な物書きを育成することに果敢に挑んでいた、というのは、その専攻コースを見てもわかります。
昭和12年/1937年3月20日の『東京朝日新聞』に載った日大芸術科の学生募集の広告があるんですけど、ここに「大学部」「専門部」の学科構成が書かれています。大学部は文藝学専攻、演劇学専攻、映画学専攻、美学及美術史専攻、音楽美学専攻、専門部のほうは創作科、映画科、演劇科、音楽科、美術科とあって、その「創作科」に3つの専攻が明記されています。いわく、純文学、大衆文学、編輯法(各専攻)とのことです。
昭和10年代のはじめといえば、ご存じのとおり大衆文芸なんて、文学方面からさんざん馬鹿にされていた頃です。そのなかで、わざわざ創作科のなかに大衆文学専攻のコースを置いていたというのです。英断といいますか、臆面なきカネ儲け主義といいますか。
いったい純文学専攻と、どれだけ違う授業が行われていたのか。誰が講義をおこなっていたのか、ここから出て大衆文芸の作家になった人に、どんな人材がいたのか。文学の勉強なら、「作家になれなくても日常生活を送るうえでの精神修養のためになる」とか何とか、おためごかしでいくらでもゴマかせそうですが、大衆文学の創作教室です。よりいっそう、文壇へのデビューとか、すえは職業的な物書きになりたいという希望が、習う人たちのなかにも強くあったに違いありません。
実態はよくわかりません。あまり大した成果は上がらなかったんだろうな、とは容易に想像できるところですが、くわしい資料の存在をご存じの方は、ぜひ教えてください。
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