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2020年7月の5件の記事

2020年7月26日 (日)

大正13年/1924年、『女性改造』が懸賞小説募集と小説作法の講座を、同時に始める。

20200726

▼大正2年/1913年ごろにブランシュ・コルトン・ウイリアムズの創作コース開始

 創作教室はどこでどのように始まったのか。とりあえず20世紀初頭、アメリカの大学で誕生したらしいことはわかりましたが、それ以上知ったところで、腹の足しにもなりません。さっさと飛ばして、今日の本題に行きたいと思います。

 先週調べたように、おそらく日本で最初に創作の授業をやった(と自負する)人に、木村毅さんがいます。彼が参考にしたアメリカのテキストのひとつは、クレイトン・ハミルトン(Clayton Hamilton)の"A Manual of the Art of Fiction"(大正7年/1918年・ダブルデイ刊)でした。そして木村さんと同じ時期に、同じハミルトンの著作をベースにして小説論を書いたのが森田草平さんです。

 ……と、さっさと先を急ごうと思ったんですが、やはり気になるので補足しときます。アメリカでの、創作教室のハナシです。

 木村毅さんは『文学修業』(昭和31年/1956年5月・洋々社刊)「第一〇章 百万人のための小説作法」で、小説の研究書のことを紹介しています。いわく、世に流布する小説研究の本には三種類あるそうで、一つ目は「学」としての書物。ハミルトンの本は、どうやらここに入るらしいです。二つ目が、作家の立場から書かれた小説作法書。それまで英米にもたくさんあったし、日本でも田山花袋さんや川端康成さんの他、何十人もの作家が著しています。そこまで珍しいものではありません。

 注目したいのは、三つ目です。

「もう一つは、大学で小説作法の実習を指導している青年教授の著書で、これはアメリカ以外では、おそらく出ておらぬだろう。心構えとか、人間修養とかには一切ふれず、全く技術として、図解や、数学的解剖によって、説くのである。コロンビヤの助教授のウイリヤムズなどが始めて、アメリカの諸方の夏期大学では、なかなか盛んである。私が戦時中出版した改版の『小説の創作と鑑賞』には、主としてその方式が採用してある。」(木村毅・著『文学修業』より)

 コロンビヤのウイリヤムズ助教授のことは、先週も触れました。"A Handbook on Story Writing"(大正6年/1917年・ドッド・ミード刊)を書いたブランシュ・コルトン・ウイリアムズ(Blanche Colton Williams)です。

 英語版のWikipediaを見ると、きちんとウイリアムズさんが立項されています。明治12年/1879年に生まれ、昭和19年/1944年に亡くなった女性の英文学者で、明治41年/1908年にニューヨークのコロンビア大学で修士号、大正2年/1913年には博士号をとっています。その間、明治43年/1910年にはニューヨーク市のハンターカレッジで講師に就任しながら、大正7年/1918年~昭和7年/1932年まで《O・ヘンリー賞受賞作品集》の初代編集者を務めたり、大正13年/1924年『Opportunity』誌のストーリー・コンテストの審査員を務めたりと、海の向こうの文学賞史にも名を刻んでいる人です。

 木村毅さんは、彼女が大学の夏期講座で創作コースを始めたひとりだ、と言っています。おお、そうなのか、と思って、Amazonで"A Handbook on Story Writing"を見てみたところ、ちょうど序文の一部が読めるので、おそるおそる覗いてみました。

 明治43年/1910年、ウイリアムズさんはハンターカレッジで、短編小説の授業を受け持ちます。しかし、創作理論に関する教科書があまりに少ないことに愕然。と同時に研究者ダマシイに火のついたウイリアムズさんは、ああでもないこうでもないと試行錯誤、物語をつくるための理論をどうにか構築して生徒に教えてみたところ、あらら不思議、みんな見ちがえるように、どんどんと小説が書けるようになるじゃありませんか。オー、アメイジング!

 さらに大正2年/1913年ごろには、コロンビア大学エクステンション講座で、創作コースというのを担当することになって、この理論が十分役立つことが判明します。世のなかには、短編小説を書く技術に法則なんてあるわきゃねえだろ、と根拠なく断言するヤカラもいるようだけど、いやいや、ほんとにそうだろうか。うんぬん……

 ウイリアムズさんいわく、生徒たちの作品は『The Atlantic』『Scribner's』『The Century』『The Metropolitan』『Everybody's』など、有名どころの雑誌に載るほどの出来栄えを見せたのだ、とか何とか言っているんですが、さすがにそれがほんとうかどうかは調べていません。まあ、とりあえず創作には効果的な理論があり、それを教えることも可能だ、とウイリアムズさんが豪語しているのはたしかなことで、これをいち早く日本で採り入れたのが木村毅さんだったわけです。

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2020年7月19日 (日)

大正15年/1926年頃、木村毅が本格的な小説研究(および創作作法)を講じ始める。

20200719

▼大正14年/1925年、木村毅が『小説研究十六講』を刊行

 いまの日本で、歴代すべての直木賞候補者を把握できている人は、果たしてどれだけいるんでしょうか。ワタクシ自身、直木賞専門サイトを20年以上やっていますけど、まだ全員のことは把握できていません。

 というのも、直木賞の歴史には「木村問題」という難題があるからです。

 直木賞の資料のひとつに「予選通過作一覧」というものがあります。過去、文藝春秋や日本文学振興会が何種類かの一覧を発表してきました。ただ、うちのブログでも何度かツッコんだことがありますが、その内容はそれぞれ微妙に違っていて、正直どれが正解なのかわかりません。とくに戦前についてはグレーゾーンの闇の中。解釈次第で、誰を候補者と見なすかに違いが出てきます。たとえば、第1回(昭和10年/1935年上半期)の候補者として「木村哲二」という作家の名が挙がることがありますが、この回の選評を見ても「木村君」と、姓しか書かれていません。

 いっぽうで木村毅さんの回想文があります。毅さんは哲二さんと違って、昭和10年/1935年当時すでに文筆家としてけっこう売れていましたし、その後も昭和54年/1979年まで生きて、膨大な量の読み物、小説、エッセイ、研究書を残しました。そのなかにこんな一節が出てきます。

「後に私は、大衆小説家となるとき「旅順攻囲軍」というのを処女作とした。第一回の直木賞の候補の呼び声があったらしく、菊池寛が私をよんで、

「しかし君は、直木と同級で、そんな物もらっても喜ぶまいと思うから、僕が独断ではずした。諒承を乞う」

と言ったことがある。」(昭和54年/1979年9月・青蛙坊/青蛙選書、木村毅・著『私の文学回顧録』「二一 内務班病気天国」より)

 ほお、こうなってくると、第1回の選評で吉川英治さんが書いた「木村君」とは、木村毅さんのことではないのか。……という想像も、あながち的外れではなさそうです。

 しかし、この説が悲しいのは、ほかに当時の事情を知る人からの補足証言もなく、菊池さんから聞いたという本人による思い出でしかないことです。信憑性という点では、かなり分が悪い。と言うしかないですけど、ともかく「小説教室」との関連で直木賞を語るなら、木村さんを外すわけにはいきません。もしかしたら菊池寛さんより重要な人物かもしれません。

 それは、日本で最初に、創作を中心にした教室もしくは講座を始めたのは誰なのか、という難問中の難問に、木村さんが関わっているからです。

 先週まで何回かにわたって、1930年前後の専門学校や大学における創作科について触れてきました。しかし、日本初はどれなんでしょうか。小説とはそもそもどのように成り立っているのか、それを書くにあたって具体的にはどうするべきなのか。大勢の生徒が顔を合わせるリアルな教室で、創作を教えた日本人が誰だったのか、その起源が気になります。しかし、はっきり言ってよくわかりません。

 創作講座のなかでも、書籍や活字によるものは、けっこう以前からあります。

 何といっても、小説の書き方・指南書という意味では、坪内逍遥さんの『小説神髄』(明治18年/1885年、明治19年/1886年・松林堂刊)なんてものが有名です。いやいや、馬鹿ヤロ、あんなものを読んでじっさいに小説なんか書けるかよ、と思うでしょうか。それとも、十分に小説教室の前身でしょ、と言い張れるでしょうか。いろいろ異論はあるでしょうけど、少なくとも坪内さんは早稲田で創作の授業をした人ではありません。

 川端康成さんによると、この『小説神髄』は小説作法としては日本最初かもしれない、しかし「わが国で小説の綜合的な科学的研究を最初に行ったもの」は、木村毅さんの『小説研究十六講』(大正14年/1925年1月・新潮社/思想・文藝講話叢書)なんだそうです(昭和16年/1941年8月・三笠書房/現代叢書『小説の構成』)。木村さんは早稲田で直木さんと同級ですから、大正終わりにだいたい30歳を迎えたお年頃。かたわら直木さんは、一年ごとに筆名を変えるとかいう珍妙なパフォーマンスをやっていた時代にあたります。ご両人ともおおよそ同じころに、ジャーナリズムに名前が売れ出したわけです。

 『小説研究十六講』も、じっさいは教育の現場から生まれたものではありません。発想は海の向こうのイギリスやアメリカなどで先行していた小説論がもとになった、と言われます。同書の凡例には、典拠とした参考書が挙げられていて、第二講「西洋小説発達史」はEdmond Gosseの"Novel"(Encyclopedia Britanica所載)、第四講から第十五講の「小説の目的」「リアリズムとロマンティシズム」「小説の基礎」「プロットの研究」「人物・性格・心理」「背景の進化とその哲学的意義」「視点及び基調の解剖」「力点の芸術的職能」「叙事詩・戯曲・小説」「長篇・中篇・短篇」「短篇小説の構成」「文体・対・内容と形式」の部分はClay-ton Hamiltonの"A Manual of the Art of Fiction"、第十六講「作家を中心としての小説の考察」はBliss Perryの"A Study of Prose-Fiction"が紹介されています。

 とまあ、ずらずらと書いてしまいましたが、木村さんがうちのブログに登場するのにふさわしいのは、研究的な小説論をしたためたためではありません。欧米の創作論・小説論を吸収し、じっさいに日本の教育現場でこれを実践した最初の人が、木村さんだったからです。

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2020年7月15日 (水)

第163回直木賞(令和2年/2020年上半期)決定の夜に

 この社会状況のなかで、よくまあ選考会やったなあ。……っていうのが、正直な感想です。「何人かの中年および高齢者が、一か所に集まって議論する」会合をひらくことが、いま以上に難しくなる状況が今後訪れないことを、切に祈ります。

 第163回(令和2年/2020年上半期)の直木賞の選考会が、真っ昼間の午後2時からひらかれ、午後4時すぎに結果が発表されました。受賞作はご存じのとおりです。

 ……まあ、ご存じのとおり、と言ったって、日本国民のほぼ大半にとっては、べつにどうでもいいことでしょう。おおよその回は、次から次に押し寄せるニュースの洪水に流されて、パッと大衆のまえに現われるのは一瞬のこと。選考会とか受賞会見とか、はっきり言えば、それで十分といえば十分な催しです。

 今日も含めて選考会のまえに、かずかずの受賞予想が世に出ましたが、単に予想して終わってしまっているものは、急速に色褪せていきます。さびしくも悲しいですけど、それがこの社会であり、人間の営みなのかもしれません。

 ワタクシも年をとったせいか記憶力が薄れてきましたので、今回直木賞の候補になった5つの作品について、おそらく急速に忘れていくものと思います。さびしい。そして悲しい。しかし、5人の人が書いた5つの小説を読み、直木賞はどれがとるんだろう、どれがとってもいいなあ、とワクワクしながら過ごしたこの1か月があったのは、事実です。すべての候補者に対する感謝のことばを書き残しておくことで、この1か月間の幸せな時間を、しっかり刻んでおきたいと思います。

 遠田潤子さんの作品って、なんだかんだ言っても一種の〈品〉があるのが魅力的です。『銀花の蔵』はその品のよさが、よりいっそう積み重なっていて、これからの遠田作品はますますスゴいレベルに上がっていくんだろうな、とうれしくなりました。直木賞ですか。まあ、これまで「○○のことを落とした文学賞」ということで(も)有名な賞ですから、そのうち「アノ遠田潤子を落とした文学賞」として直木賞が語られるようになるかもしれません。いや、これからまだまだ受賞のチャンスがくるかもしれないし、未来のことはわかりません。遠田さん、ぜひ末永いお付き合いのほどを。

 そういえば、今村翔吾さんって、まだ今回が直木賞候補2度目だとか何だとか。もう5~6回ぐらい候補になっているかと錯覚しました。そのぐらいの貫禄が、『じんかん』の迫力あふれる筆致から伝わってきて、すえ恐ろしいと言いますか、いまも十分恐ろしいと言いますか、その作家活動すべてに圧倒されてしまいます。直木賞ですか。まあ、これまで「○○のことを落とした文学賞」ということで(も)有名な……って、テンドン繰り返している場合じゃありませんね。次の機会には、やってくれることでしょう。やっちまってください。飛んで暴れて、直木賞なんざ斬りきざんでやってください。

 『若冲』『火定』『落花』ときて、『稚児桜』。淡交社なのも驚きましたけど、澤田瞳子さんの4度目の直木賞との交差が、こういう作品集になったことにも驚きました。コッテコテで厚塗りの、ぎっちり内容テンコモリな長編小説だけが、サワダトウコの本領ではないんだ! というところを示された気がします。いずれにしても、いままでにないこういう選考日を、直木賞の候補者として体験できた貴重なおひとりとして、きっと蓄えられたものもあったはずです。いつか澤田さんが「私の体験した直木賞エピソード」として、堂々と語れる日が訪れることを願いつつ。またお会いしましょう。

 ああ岩手に行ってみたいな。と、この時期に思わせてくれた伊吹有喜さんは、果たして天使なのか悪魔なのか。……天使に決まっているんでしょうが、『雲を紡ぐ』の見事なエンターテイメント小説感! 直木賞というのはダークサイドを好む、ダークサイドな賞でもあるので、きっと選評などではダークサイドに落ちた人たちから、いろいろ書かれるんでしょうけど、随所に現われる明るさこそが伊吹作品の美点です。おそらくそんなところが読者に愛されるゆえんだと思いますし、ワタクシも、その明るさが大好きです。これからもまぶしい光で世界を照らせ、イブキユキ!

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2020年7月12日 (日)

第163回直木賞を語るはずの「文学賞メッタ斬り!スペシャル(結果編)」の予想。

 毎回恒例のラジオ日本「文学賞メッタ斬り!スペシャル(結果編)」は、令和2年/2020年7月20日(月)25時~26時に放送予定です。今回もまた、あまりに楽しみなので、以下その放送内容を予想してみます。――

          ~(タイトルコール・BGM)~

植●第163回直木賞の選考会が7月15日午後2時より、築地・新喜楽で開催。授賞作が決定しました。ということでラジオ日本の名物企画「文学賞メッタ斬り!」では、例によってどの作家が直木賞をとるのか、書評家でSF翻訳家の大森望さん、そして書評家の豊崎由美さんに先週ずばり予想していただきました。果たして予想結果は当たっているのか。

 それでは「文学賞メッタ斬り!」の介錯人のこのお二人。ご紹介しましょう。大森望さん、豊崎由美さん。こんばんは。

大・豊●こんばんは。

植●それではさっそく、第163回直木賞を、あらためて「文学賞メッタ斬り!」的ににぎにぎしく発表させていただきます。

          ~(略)~

豊●結果についてはですね、何も申し上げることがございません。おめでとうございます。以上。っていう感じですね。

 もう直木賞はいいから、今日は芥川賞のことだけでいいんじゃですか。

大●今回はやっぱり受賞者の会見がいちばんの見どころでしたね。いつもは記者とか出版社の編集者とかぎっしり入っている会見場が、この情勢を考えて、みんなソーシャルディスタンスで。

豊●会見とか、これからもリモートでやればいいんですよ。候補者は地方に住んでいる人もけっこういるのに、わざわざ全員、東京に呼んで待機させて、何サマだって感じですよ。

大●いやいや、あれは強制じゃないですから。来られない人は、無理して来なくてもいい、っていうスタンスなんですけど、やっぱり会見に顔を出して生の声でしゃべることで、受賞作の売れ行きもどうハネるかわからないですから、版元としてはできるなら会見に出ていただきたい、っていうことでしょう。

豊●それで出たくもない会見に出て、ろくに候補作を読んでない記者から、くだらない質問ばかりされて。ほんと、かわいそうですよ。

大●ええと、今回の選考経過はですね、今回は北方謙三さんが選考会のあとに会見したんですけど、やっぱりまずは、前代未聞のコロナ禍のなかでの選考になった、それについて語ったと。こんな状況、こんな時代からこそプライベートな空間でも社会とか時代とかとつながることのできる小説の意義について語ったと。

豊●ずっと「夜の街」のイメージを背負ってこられた北方センセイが、ここで率先して感染防止を訴えてくださって。素晴らしいですね。

大●馳星周さんの『少年と犬』については、プロの作家としてのまぎれもない高い技術には、みんな選考委員の人たちも異論は出なかった、と。個人的にはもう少し早い時期に差し上げる機会があったと思っているが、それができなかったことは、ひとりの選考委員として素直にお詫びをしたい。……と言って頭を下げたらしいですね。

豊●先週も話が出ましたけど、5年まえでしたっけ、『アンタッチャブル』で受賞できなかったのは、ほんとうに傍目で見ても、ひどかったですからね。いまさら謝られても仕方ないでしょうけど。

大●幅の広い作家であることは十分確認できた、馳さんはこれからもっと大きな作家になれる人だと信じている……っていうのも、いまさら言う言葉かと。とっくのとうにほとんどの人が、馳さんが幅の広い作風でやっていける人だということは、気づいていたと思いますけど。

豊●その作家にとって、これぞっ! っていう作品でとらせてあげればいいのにね。……

          ~(略)~

大●それから北方さんは、最終決選に残った今村翔吾さんの『じんかん』も、かなり最後まで粘ったと。力のある書き手で、次の世代のエンターテイメントの小説界を担っていく人材だと。しかし一部の選考委員のなかには、あまりにも主人公の九兵衛……松永久秀ですね、彼が謙虚で、ものわかりがよくて、民衆の幸せのことを考えていて、いい人すぎるのが、いかがなものか。歴史のひとつの解釈といえば解釈なんでしょうけど、あまりにヒーローを美しく描きすぎなのではないかという反対意見がありました、……ということです。

豊●魅力的な悪をどう表現するか、というところで苦労されてきたセンセイ方にとっては許せなかったんでしょうね。でも、それを言ってしまうと、伊吹さんのとか、もう救われないじゃないですか。小説全体として目指していることを、全部まるごと否定されちゃったら、かわいそうですよね。

大●『じんかん』に関しては、前半部分をメインにして、もう少しボリュームを削ぎ落したほうがいい、という声もあったと。それはそれは難しいところだと思いますけど。生涯がもう決まっている歴史上の人物で、史料に出てくる後半の部分こそが見せどころ、という部分もありますからね。

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2020年7月 5日 (日)

昭和12年/1937年前後、日本大学芸術科が創作科のなかに大衆文芸専攻を設ける。

20200705

▼昭和6年/1931年、日本大学芸術科が大学部と専門部を設置

 文化学院、明治大学と来ました。今週はこの流れで日本大学を取り上げます。

 それぞれの学校に創作指導的な学科ができたのが、1930年代より少し前のこと。文化学院文学部は昭和5年/1930年4月、明治大学文学部は昭和7年/1932年4月です。それに先駆けて三校で最も早かったのが日本大学芸術科で、前身となる「美学科」が創設されたのは、大正10年/1921年だったと言われます。

 その創設趣意書のなかには、こうあります。「大学に美学科を新設し、芸術大学の実を有せしめ、新芸術の創造を期し、天才の出現、評論家の輩出、芸術の民衆化等に於て新文化創造の一翼を荷はんと欲する」。……とりあえず念頭におかれていたのは絵画や彫塑といった分野の美術家、あるいは音楽家の養成だったのかもしれません。それがまもなく松原寛さんという哲学の学者が学科運営の長となって、大正13年/1924年4月に「芸術科」と改称……。ということになっているんですけど、専門部ないし学部というかたちで一般に認識されるようになったのは、それよりもう少し遅く、昭和4年/1929年からだった、ということのようです。文芸に関する教育もこのころから盛んになっていった、と見ていいでしょう。

 1930年前後というのは、創作教室の盛り上がりの第一波が日本に訪れた時代にあたります。その時代の風のなかで日大芸術科が姿を変えたのは間違いありません。日大芸術科が大学部と専門部の両部を設置し、そのもとで演劇、舞踊、映画、美術、音楽などの分野とともに文学を専攻科目として打ち出したのが、昭和6年/1931年4月だからです。

 この大学というか創作教室は、日本の文化にどんな功績を残したのでしょうか。正直いってよくわかりませんけど、とくに文学賞の……芥川賞の歴史でいうと、ひとつの同人雑誌をつくり、それを継続して出しつづけたことが挙げられます。

 誌名は、まんま『藝術科』と名付けられて、昭和7年/1932年12月に創刊。以来、そこに通う学生たちの作品が掲載される創作意欲の受け皿となった雑誌です。

 『藝術科』は全国で出ている他の同人誌と並んで、芥川賞の下読みの対象に組み入れられました。そのなかから吉川江子さんとか李殷直さんとか元木国雄さんとか三田華子さんとか、そういう人たちの作品が取り上げられ、最終的な候補作となって本選で議論されたりします。正直、いまでも名前が残っている作家たちか、と問い詰められると、泣いて逃げ出すしかないんですが、昭和10年代、群雄割拠の同人誌のなかで、たまさか同じ学校に通って小説を学んでいた、というつながりしかない人たちの雑誌が、芥川賞候補として何度も取り上げられたことによって歴史に名を刻んだのは事実です。

 創設当初に講師のひとりだったのは川端康成さんですが、だんだんと足を運ばなくなり、代わりにその席についたのが伊藤整さんです。のちにこんな回想を残しています。

「今まで書いたことはないが、日大芸術科という極小の分派が昭和の日本文壇にある。東大、早大、三田等に較ぶべくもないが、それは仲間意識をもって存在している。

(引用者中略)

池田みち子さんは私が行った当時教室の十名ほどの学生の中にいた。その夜学生の中には、いま共同通信にいる堀川潭君、金達寿君、妻木新平君、岩波健一君、その他多くの忘れがたい人々がいるが、今は触れている余裕がない。私より年上の学生もいて、それぞれに昼間働いている人々なので、私などより世の中のことを知っていた。その人々の書いて来るものを読み合い、批評し合うゼミナールは大変活気があって面白かった。」(伊藤整「十返肇氏の思い出」より ―初出『文芸』昭和38年/1963年11月号)

 夜間の学校だったと言っています。学生たちも、他に勤めのあるオトナたちが多く、そういう人たちがあまりの創作熱をひとりで抱えることに耐え切れず、なけなしの生活費のなかから学費を払い、教室に通って自分で文章を書いては、批評し合っていたと言います。伊藤さんの同僚講師だった福田清人さんにも、やはりこの教室のことを語った文章があるんですが、他の分野に比べて文学は、それだけで世に出て食っていける、という類いのジャンルじゃないので、通ってくる人たちもだんだん「ここからデビューしてやるぞ!」みたいな考えは薄くなっていくようだ、うんぬんと書いています(昭和17年/1942年8月・国文社刊『文学ノート』所収「文学教師」)。

 創作できる人材を世に送り出す、とは言いながら、デビューできるのはひと握り。活躍しつづけられるのは、さらにひと握り……というのが、現実の世界です。いまも昔も、創作教室というものが持つ宿命と言っていいでしょう。

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