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2020年6月21日 (日)

昭和23年/1948年、能の研究に打ち込んだ杉本苑子が文化学院を卒業する。

20200621

▼昭和23年/1948年、杉本苑子が文化学院の卒業論文で「世阿弥」を選択

 先週、令和2年/2020年6月16日に、新しい直木賞の候補作が発表されました。

 そのなかに京都の淡交社から出た、能楽に縁深い作品が入っています。能と直木賞。これまでも濃密に交わってきた組み合わせだと思いますけど、パッと思いつくのが第48回(昭和37年/1962年・下半期)の受賞者、杉本苑子さんのことです。

 淡交社といったら今東光さんだ。……というよく知られたトリビアを、ここでストレートに口に出せないのが、うちのブログのイマイチなところですが、そもそも昭和31年/1956年に『淡交』という雑誌に連載中だった今さんの「お吟さま」を、毎月感心しながら読んでいたのが吉川英治さんで、ウワサによるとその吉川さんが、これを今度の直木賞の候補作にどうだろうかと推薦した、とも言われています。吉川さんが褒めていた、ということは、足しげく吉川邸に通っていた杉本さんも『淡交』を読んでいたかもしれません。ちなみに直木賞受賞後の杉本さんには、淡交社でのお仕事もいくつかあります。

 と、それはあまりに遠い縁ですが、しかし「能と直木賞」でハナシを進めるのであれば、やはり杉本さんの名は外せないでしょう。

 前週のブログでは文化学院のことに触れました。直木賞の受賞者・候補者のなかにも、同院に通っていた人が何人かいます。昭和5年/1930年に創設された文化学院文学部には野口冨士男さんが転入学、またそのころ文学部の人たちと仲良くなって同人雑誌を出していたのが、美術部にいた飯沢匡さんです。戦後には杉本苑子さん、さらに時代はくだって1970年代には大沢在昌さんなどが、ここで学びました。

 ということで、まずは直木賞受賞者になったひとり目、杉本さんですが、彼女の場合は在学中の素行が、どうにもナゾめいています。いや、それは「のちに作家になった人」という視点で見ているからで、素直に考えれば、とくに目立つことのない、どうということのない学生だったのかもしれません。

 杉本さんが入学したのは、同院が戦時中の強制閉校から復活を遂げた昭和21年/1946年、卒業したのは昭和23年/1948年12月です。当時も創作を学ぶ講義というのはあったはずですが、杉本さんが創作を学んだ痕跡は残されていません。10代から20代にかけての多感な青春時代、とにかく杉本さんは能の世界、観能、もしくは能楽史研究に夢中になったので、いまとなってはそちらのほうの逸話ばかりが目にとまります。

 戦局が深まりを見せる昭和10年代に、駒沢高女から千代田女専の国文科に進学したあたりから、杉本さんは能にくわしくて熱心だった先生とめぐりあい、能楽研究の面白さを知って没頭。小林静雄『世阿弥』(昭和18年/1943年12月・檜書店刊)など、能研究の最先端をゆく専門書を買い求めては、何度も何度もくりかえし読んだそうです(平成4年/1992年8月・光風社出版刊、杉本苑子・著『霧の窓』所収「青春の一冊―小林静雄氏の『世阿弥』」)。そうして千代田女専に通っていたころ、文化学院から転入してきた(転入せざるを得なかった)ひとりの女学生と出逢ったことが、のちに杉本さんが同院に入るきっかけとなったのだ、と磯貝勝太郎さんが『杉本苑子全集 第12巻』(平成10年/1998年3月)の月報で紹介してくれています(「杉本苑子さんと無名の女学生と西村伊作」)。

 学院に入学しても、能だ能だと、そればかり追い求めて手のつけられない学生だった。……かどうかはわかりませんが、卒業論文のテーマにはやはり「世阿弥」を選び、これが学院長の西村伊作さんの目を引いたのは、たしかなようです。

 歴史、とくに能の歴史に興味をもったひとりの女性がいたのはわかります。どうして杉本さんはここから小説の創作に向かったのでしょうか。

 あるいは、懸賞小説の応募といえば相場はカネ目当てだ、ということなのかもしれません。わかりません。とりあえず学院を出てから3年、昭和26年/1951年3月末が締め切りの、『サンデー毎日』創刊三十年記念百万円懸賞小説の歴史小説部門に「申楽新記」を応募。本人の回想によると、世阿弥の生涯を扱った短篇だったそうですが、これが予選を通り、吉川英治、大佛次郎、海音寺潮五郎3人による本選考にかけられます。一席入選が松谷文吾さん(本名・沢寿郎)の「筋骨」、二席入選が黒板拡子さん(のちの筆名・永井路子)の「三条院記」、杉本さんは選外佳作にとどまりました。

 杉本さんが本格的に創作の勉強を始めるのは、翌年『サンデー毎日』大衆文芸第42回分に入選した前後、吉川英治さんに押しかけ弟子のようなかたちで師事するようになってからです。ちなみに、このときに入選した「燐の譜」は、能面師の氷見宗忠を描いたものですから、杉本さん本人が、能と出会わなかったら自分は作家になることもなかっただろう、と回想しているのもうなずけます。つまりは、能楽がひとりの直木賞受賞者を生んだのだ、と言っていいでしょう。

          ○

▼昭和52年/1977年?、大沢在昌が文化学院の文学科創作コースを中途離脱

 ハナシがだいぶ逸れました。ブログの本題は、小説教室のことです。文化学院の創作講座のことです。

 杉本苑子さんが、文化学院から生まれた作家なのは事実でしょう。ただ、そこで創作を学んだ人、とはとても言い難いものがあります。対して、いまひとりの大沢在昌さんは正真正銘、文化学院の文学科創作コースに通った直木賞受賞者です。

 しかしこの場合も注記を加えなければならない。というのが悲しいところなんですが、創作コースに入りながら、けっきょく途中でやめた人です。

 慶應義塾大学に入学して、都会で遊び呆ける学生生活を謳歌していたのもつかの間、授業にも出ず試験も受けず、でもどうにかなるだろうとタカをくくっていた大沢さんが突きつけられたのが、大学除籍の知らせです。ガーン、とショックを受けながら、これからどうしていけばいいのか、そうだ昔から恋焦がれていた小説家への道にチャレンジしてみよう、ということで文化学院に入ります。

 もちろん同級生もたくさんいました。みんな作家になりたくて入ってきているんだろう。と思っていたんですが、創作の教室で課題を書いてくる学生は、週を追うごとに減っていき、数か月後には何か作品を書いてくるのは大沢さんひとりになってしまった、と言います。

 大沢さんが見るところ、同級生たちは、毎週のように課題に応じて作品を書くなんてほんとうの創作じゃない、作品を生み出すというのはもっと精神を突き詰め、長い期間をかけて磨いていくものだ……と思っている連中ばかりだったそうです。要するに「文学」ふうな体裁やイメージに憧れをもち、それに根拠なき自信を抱えた人たちが多かったようで、ワタクシもたいがい何かを馬鹿にして日々を送っていますが、何かを馬鹿にしている純文学愛好者が見苦しいことはよくわかります。大沢さんもそんな同級生たちに、かなり辟易したようです。

 あるとき、おまえはどんな文学を目指しているんだ、と酒席でカラまれた大沢さん。おれは「銀座にベンツに軽井沢」だと答えたところ、同級生のひとりに「お前に文学をやる資格はない!」と怒鳴られます。

「文学をやる資格がない――そう、叫ばれたとき、私は呆然とした。

呆然としたというのは、資格がないといわれたことに対してではない。

「文学」に「資格」がいる、と考えている彼らと私のズレの大きさに呆然としたのだ。

何をいってるんだ!? こいつらは……。

それが正直、私の頭に浮かんだ思いだった。」(平成27年/2015年9月・集英社刊、大沢在昌・著『鮫言』所収「陽のあたるオヤジ 一九九三年~一九九五年」より)

 自分はプロになりたくて、ここに来ている。彼らにその願いが真剣にあるとは思えない。という違いにハタと気づいたエピソードです。

 はじめて大沢さんが小説の新人賞に応募したのは21歳のとき、第51回オール讀物新人賞(昭和52年/1977年9月選考)だった。ということなので、時期から見て、その応募作を書いたのは文化学院に通っていたころか、行かなくなった直後ぐらいに当たります。創作コースで学んだことも、新人賞の最終候補に残るまでのあいだに、多少は役立ったことでしょう。しかし、そこでデビューはできず、学院に行かなくなって、2年後に小説推理新人賞のほうで受賞、イバラのようなプロ作家生活が始まることになるので、その創作講座で大沢さんの身になったことは、ほとんどなかった、と見ることもできます。

 杉本さんはとにかく能の研究に邁進し、大沢さんは途中でプイと通わなくなる。そう考えると、文化学院の創作の授業が、直木賞の受賞にいたった例はひとつもない。ということになるのかもしれません。

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