昭和3年/1928年、文藝春秋社『文藝創作講座』を刊行、直木三十五も講師のひとりとなる。
▼大正13年/1924年、『文藝春秋』創刊1年すぎで企画された『文藝講座』出版
直木賞が創設されたのは昭和9年/1934年です。芥川賞も同じです。その当時、出版事業の一角には「懸賞小説」という制度がすでに存在していましたが、既成文壇の人たちから、懸賞なんかからホンモノの文学が生まれるわけねーだろ、と冷めた目で見られていました。いまでも、そういう偏見を持っている人はいるかもしれません。
ともかく直木賞も芥川賞も、新人を発掘する目的で始められた事業です。始めるに当たって、懸賞の制度をメインに打ち出してもよかったはずですけど、なぜか発表済の作品を対象にした別の企画として制定されました。それこそが両賞が成功した要因のひとつでもあるのだ、と主張する小田切進さんのような人もいます。たしかにそうかもしれません。
世のなかには、菊池寛さんの偉業をことさら称えたい、いわゆる菊池寛ファンと呼ばれる連中がいます。そういう人たちは両賞の成功を、菊池さんのプランメーカーとしての才能に結びつけたがるようですが、正直、菊池さんに発案の功はあっても、プランメークの才があるようには思えません。あまり過大評価しないほうがいいと思います。
しかし菊池さんの率いる文藝春秋社という組織があったおかげで、直木賞が生まれたのはたしかですから、あまり菊池さんを悪く言っても仕方ないですね。すみません。大正11年/1922年暮に創刊した月刊誌『文藝春秋』、その発行所としてスタートを切った「文藝春秋社」が、直木賞をつくったのは創業わずか12年ほどしか経っていない時期のことでした。このころ文藝春秋社が成功させたと言われる事業はいくつかありますが、その栄光の歴史!(?)のなかで名が挙がるものを見ると、文学賞の創設のほかに、ひとつ目にとまるものがあります。『文藝講座』の刊行です。
文藝講座。いったい何なんでしょう。雑誌『文藝春秋』を順調に刊行し、世の読者に好評裡に受け入れられた菊池さんが、得意の思いつきをいちばんはじめに実現させた「文藝春秋社最初の事業」だそうです。発表されたのは大正13年/1924年7月号同誌上で、責任講師に徳田秋声、芥川龍之介、久米正雄、山本有三、菊池寛の5人が就き、会期を6か月として、月1円20銭を払った会員たちに毎月2回、講義録(というか書下ろしの文学論エッセイを集めた冊子)を配本するという、出版を通じて文芸教育を広めるための企画でした。
「時勢に鑑みて、文藝教育の普及を計りたいのがその名分だが、もう一つには小説雑文だけでは食えない同人及び関係者に仕事を与えたいためもある。「文藝講座」は芥川、久米、山本及び自分が中心となり、創作本位で、しかも学問的根拠のある立派な真面目なものにしたいと思っている。」(『文藝春秋』大正13年/1924年7月号より)
という文章を菊池さんが書いています。この物言いが何ともキクチカンです。後年の直木賞創設のときにも見せた「事業の目的はひとつではないんだ」という姿勢が出ている、といいましょうか。純粋に公益に資したいという思いと、自分たちの組織の金儲けのためにするんだ、という半々の姿勢をはっきりと表明しています。
それで金儲けして、どうするのでしょう。贅沢したいとか、いいモノ食っていい女を抱きたいとか、個人的な欲望に直結した気持ちもそりゃあったと思います。ただ菊池さんに、そもそもカネを稼げなきゃ人間生きていけないじゃないか、と作家稼業を職業としてとらえる考えがあったのもたしかです。『文藝講座』の企画には、その思想が確実に宿っています。
直木賞もやはりそうです。小説を書く人たちの経済的な生活の安定と、彼らがお金をやりとりして生きていく業界の経済的な発展を見据えて始められた、という面は無視できません。菊池さんのアイディアがよりかたちになりやすかった大正末期から昭和初期、文藝春秋社の創業10数年の短いあいだに現われた「文藝講座」と文学賞創設という2つの企画。両者を似たものとして考えるのは、あながち突飛ではないはずです。
「文藝講座」は責任講師のほかに、要は小説雑文だけでは食えない連中に文春が仕事をまわすための企画でもある、と菊池さんは言いました。そのひとりだった今東光さんが、文藝講座の仕事を引き受けておきながら、けっきょくサボり、菊池さんを怒らせてしまいます。いや、「文学士」と名乗れる学歴をもたない東光さんを、あえて文春側がこの企画から外したことで、東光さんがひどく怒ったのだ、とかいうハナシもあります。いずれにしても、この一件が大正13年/1924年、今VS.菊池の因縁の喧嘩別れに帰結したのだとも言われていて、何でもかんでも社会や人間が菊池さんの思うようにいくとは限らないんだ、ということがわかりますが、当初4,000名以上は会員がいないときちんとした仕事ができない、と言いながら会員を募集したところ、9月末の締め切りまでに7,500名から8,000名程度の申し込みがあったらしく、大正13年/1924年9月から配本の始まった『文藝講座』は全14冊、翌年の大正14年/1925年5月までで無事に終了しました。事業としては大成功だった、と語られる文章をしばしば見かけます。
ところで最初の企画発表にもあったように、会期は半年6か月です。なぜ1年ではなく半年なんでしょうか。直木賞や芥川賞が、半年ごとに選考する事業であることを考えると、「半年」にしたこの発想に、両賞が年2回である理由のナゾが隠されているような気もします。いま何かをドヤ顔で言える証拠は手もとにないので、追ってここら辺も調べたいところです。
ともかくも文春の「文藝講座」は、菊池さんをはじめ、講師となる書き手が実作の伴う作家たちを揃えたところに特徴がありました。「創作本位」、要するに自分で小説を書いている人たちが、その実体験のなかから文芸の精粋を語る、という建前だったわけですが、この成功を受けた文春は、さらに新しい講座モノに手を出すことになります。昭和3年/1928年に企画した「文藝創作講座」です。
○
▼昭和3年/1928年、『文藝創作講座』に直木三十五が「大衆文芸作法」を連載
よりいっそう「創作」に比重をおき、数々の活字メディアで活躍する既成の作家たちが、自分の創作作法を開陳しながら、文学者をめざす若い人たちにその創作方法を学んでもらおう、というものです。いわば小説教室の一形態と見ていいでしょう。昭和が始まった1920年代後半ごろ、この企画もまずまずうまく行ったと言われます。
なるほど、エンターテイメント小説の書き方、みたいなものが登場したのは歴史的にそこまで新しいことじゃないんだな。とわかるのは、この「文藝創作講座」に、小説(純文学ってやつですね)とか戯曲、映画脚本、詩文、俳句などと並んで、大衆文芸の創作講座も割り当てられているからです。ちなみに「大衆文芸創作講座」の枠のなかで「大衆文芸作法」を担当したのが、このころ急激に菊池さんと仲良くなっていた直木三十五さんでした。
直木さん自身が創作を始めたのは大正13年/1924年からです。実作経験はまだ5年ぐらいしかありません。年齢でいうと30代なかば。なのに、やたら偉そうに書いています。
「大衆文芸作法」の全文は青空文庫を読んでもらえればいいんですが、大衆文芸は目的とか思想とか生マジメなものがなくても、おもしろおかしい興味本位という一点だけあれば成立し得るとか、大衆文芸と芸術小説を分ける唯一のものは、文章が多くの人にとって読みやすいかそうでないかだとか、直木さんなりの解釈が楽しめる一編です。これが書かれた当時、まだ大衆文芸というものが世を賑わせはじめて10年も経っていません。その割には、いま読んでも勉強になるほどしっかり書かれていますし、直木さんが直木賞の名前に冠されるにふさわしいのは、『南国太平記』とかの実作の成果ではなく、文藝創作講座として書かれた「大衆文芸作法」があるからだ、と断言したいぐらいです。
「一般に、芸術的非芸術的を別にして小説をうける(原文傍点)ように、売れるようにするには、即ち通俗的に面白くするにはどんな要素を具備していたらいいだろうか、という問題にたち戻って考えよう。
第一には、勿論、性欲――エロティシズムである。性欲を検閲の許す範囲内で充分センセーショナルに取扱う、即ち、所謂エロチックに、感覚的に描写する。
(引用者中略)
この上に「泣かせる」ことを加えることが肝要だ、ということが云えるだろう。(引用者中略)将来はやるであろうところの「涙」は、たとえ同じ「涙」にしても、明るく、ほがらかで軽快で、ユーモアに富んだものでなくてはならぬ。
(引用者中略)
最後に、テンポの問題である。(引用者中略)大衆文芸も今や、テンポを持たねばならない。テンポを速めるといっても、何も無闇に速くすることを意味してはいない。緩急度を得て、しかも全体から見て場面のあきない変化と、軽快な速力で疾駆する爽快さを、読者に与えることである。」(直木三十五「大衆文芸作法」より)
思ったことを露悪に近い感覚でズケズケと書いていく、という直木さん生来の文章は、わかりやすさの点でも何かを教える講師役にうってつけだと思います。
直木さんの「大衆文芸作法」を読んで小説創作に励み、やがて直木賞をとるにいたった……という例は残念ながら聞いたことはありませんが、当時、何千人ないし何万人かは直木さんの講座を読んだはずです。文学賞をつくるまえから、世間の物書き予備軍たちに創作作法というかたちで小説執筆への興味を煽った文藝春秋社。闇は深い、といいますか、昭和初期にこの文化現象が発生しているところに、直木賞がつくられた背景も透けて見えてきます。
| 固定リンク
« 第14期のテーマは「小説教室」。文学史のなかでは傍流中の傍流、つまり直木賞のお仲間といってもいい事業についてです。 | トップページ | 昭和5年/1930年、できたばかりの文化学院文学部に野口冨士男が転入学する。 »
「小説教室と直木賞」カテゴリの記事
- 平成29年/2017年、川越宗一、メールでの小説添削講座を受講する。(2021.05.30)
- 平成11年/1999年、山村正夫の急逝で、森村誠一が小説講座を受け継ぐ。(2021.05.23)
- 平成27年/2015年、書店を運営する天狼院が、小説家養成ゼミを始める。(2021.05.16)
- 平成25年/2013年、石田衣良から小説指導が受けられる、ということが特典の「ノベリスタ大賞」始まる。(2021.05.09)
- 平成15年/2003年、大塚英志が『キャラクター小説の作り方』を刊行する。(2021.05.02)
コメント