第14期のテーマは「小説教室」。文学史のなかでは傍流中の傍流、つまり直木賞のお仲間といってもいい事業についてです。
ブログ形式で書きはじめて14年になります。どんなにくだらないことでも、14年もやっていると、いろいろな考えが頭をよぎるものです。
たまさか直木賞という文学賞のたたずまいに興味を持ってしまい、その受賞作、候補作、周辺の本を読んだりしながら、受賞者、候補者、選考委員、裏で支える人たち、まわりでワーワー言っているだけの野次馬のことなどを、手当たり次第に調べてきました。まだ手始めも手始めで、ぜんぜん物足りません。
何ひとつ終わりが見えず、なにかを学んだ気にすらなりません。まあ、俗にいう「人生の浪費」というヤツなんですけど、それでもまったく飽きることなく、「直木賞のすべて」というサイトとブログを続けていられるのは、やはり直木賞にまつわる事柄が多種多彩だからでしょう。
それで直木賞のことを調べていると、気にかかる周辺テーマも増えるいっぽうなんですが、そのひとつに、小説教室というものがあります。
小説を書きたい。プロの作家になりたい。あるいは、何となく興味を惹かれたとか友人に誘われたとか、動機はいろいろあるんでしょう。世のなかには小説の創作をお金を払って学びに行く人たちがいます。それを教える人たちがいます。小説講座とか、創作教室とか、文芸創作科とか、名称はさまざまありますが、単に文学を学問として学ぶという以上に、小説ライティングに特化したスクールが、現代の日本ではいたるところに存在します。
ワタクシ自身そういうところに行ったこともなければ、行く気もないので、文学賞について調べるまではよく知りませんでした。いま現在、小説教室の存在意義を真っ向から否定する意見はあまり見かけませんし、当然のように、そこにあります。しかし歴史的に見ると、近代の日本文学が芽生えた明治の頃から自然に社会に根づいていた、というわけではなさそうです。徐々にその文化が広がっていくなかで「小説の書き方なんて、人に教えられるものかよ、ぷぷっ」とか「そんなことじゃ大作家は生まれないぜ」とか「世も末だ」とか、旧来の文学者や文学愛好家から馬鹿にされ、おちょくられ、なんだか怪しいものだと白眼視されていた、という暗黒の歴史を抱えていることは、直木賞を調べながら何となく横目に入ってきていました。
そういうことでいえば、直木賞も似たようなものです。いまでも文学賞を、単なる出版社の宣伝だ、話題づくりに堕したショーにすぎない、などと馬鹿にする人は数多くいますが、これは現在に始まったことではなく、昭和の初期、直木賞が生まれた時代から一定の批判が消えたことがありません。しかしいっぽうで、直木賞を受賞したおかげで職業作家になる基盤となった、という例は腐るほどにありますし、なにより文学と関係ない方面が寄せる「直木賞」ブランドへの評価、尊敬は尋常ではありません。賞の事業をやたら低く見る人と、やたら高く見る人。そのギャップが混然と存在していることが、直木賞の面白さを生んでいるのだ、と言っても過言ではないでしょう。
とまあ、現段階では、これから1年間どういうブログを書いていこうか、全然まとまっていないんですけど、文学賞と小説教室は、まともな文学史をひもといても、まず中心的なテーマになりづらいもの同士です。いったい小説教室とはどういうかたちで発生し、どんな貢献をし、どんな弊害を生み出して文化現象として発達してきたのか。なるべく直木賞のことにも触れながら見ていこう、というのが今年のテーマの主旨になります。
ふと目をあげれば、何かを調べたくても十全には進みそうにない社会状況がありますが、一週ずつの読み切りにこだわらず、ゆっくり少しずつ進んでいければと思います。ということで第1週目は、歴史をさかのぼって直木賞の発生した昭和初期、ちょうど直木三十五さんとも関わりの深い環境で登場した創作講座のことです。
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