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2020年6月14日 (日)

昭和5年/1930年、できたばかりの文化学院文学部に野口冨士男が転入学する。

20200614

▼昭和5年/1930年、菊池寛が文化学院の文学部長に就任

 世に菊池寛ファンというのは意外と多くて、先週取り上げた文春初期の名企画「文藝講座」なども、いろんな人が褒めています。たとえば松本清張さんは、あの時代に「講義録」じゃなく「講座」と名づけたネーミングセンス、キクチカンすげえぜ(昭和57年/1982年10月・文藝春秋刊『形影 菊池寛と佐佐木茂索』)とか何とか賞賛しているんですが、そもそも出版物に「講座」とつけた先例はいくつもあるのに、どうしてそこまで手放しで褒めることができるのか、よくわかりません。ファン心理というのは恐ろしいものだ。ということにしておきましょう。

 菊池寛という人物が後から見ても面白いのは、小説を書く、戯曲を書く、といったことの他に多様な方面に手を伸ばした人だからです。書かれた作品だけから昔の作家を考えてみる、なんて辛気くさいことは、おそらく全人類のうち微々たる割合の人しか興味をもたない、尊いような馬鹿バカしいような営為でしょうけど、菊池さんの場合は他の文学的な人物とは違って、出版、映画、演劇、放送、政治、競馬、麻雀、あるいは外見の美醜、女遊び、カネもうけなどなど、いろんな方面で成功したり失敗したり、硬軟とりまぜて人物像を追うことが可能です。敵も相当多かったみたいですが、信奉者が増えていくのも大いにうなずけます。

 ところで出版物のシリーズに「講座」と名付けた、文春のこのやり方。どこから発想されたものなんでしょうか。

 清張さんを上回る菊池寛ファンの総帥こと、永井龍男さんは「この「講座」というのも、菊池さんがつくった新語です。」(『海』昭和53年/1978年3月号「終焉の菊池寛」、昭和57年/1982年2月・講談社刊『永井龍男全集第十一巻』所収)と言っています。永井さんあたりの人が言ってしまうと、信用しなきゃいけない気持ちになって、それがおおよそ後世に間違った認識を残す害になったりもしますが、さすがに菊池さんの新語というのはフカしすぎです。いまはもう検索の社会ですので「講座」のついた書籍を検索してみると、『文藝春秋』のできる前の大正はじめ、1910年代からゴロゴロと出てきます。

 いっぽうで井上ひさしさんは「菊池寛は「文芸講座」という「講座もの」を始めました。その前に「日本資本主義講座」という大変売れた左翼系の本があり、それをもじったわけですね。」(平成11年/1999年1月・ネスコ刊『菊池寛の仕事』所収「講演 菊池寛の仕事」)と紹介しています。なるほど、そんなものがあったか。と思って少し調べたんですが、共産党の指揮下で出されたという『日本資本主義発達史講座』は昭和7年/1932年、『日本資本主義講座』は昭和28年/1953年で、菊池さんの「文藝講座」より全然あとです。井上さんの文章は、高松市で行われた講演を起こしたものらしいので、じっさいは「日本資本主義講座」のほうが菊池さんのをもじったんだよ、としゃべったのかもしれません。

 まあ、こんなことばかり気にしているとまるで先に進みませんけど、ともかく「講座」と聞いて連想される事柄といえば、何でしょう。本や冊子ではなく、一般的には学校・教室・スクールだと思います。そして、えっ学校なんてものに権威があったのかよ! と、いまを生きる私たちが驚くほどに、やはり明治、大正、昭和のころの「学校」には、知識を与えてくれる、立派で真面目で崇め奉る対象としての格式があったのは間違いないところです。

 というところで、少しハナシはズレまして、菊池さんおよび彼の周囲を取り巻いた当時の学校のことに目を向けてみます。菊池さんに関する多数の視点のなかに「教育」というものがあるからです。

 大正11年/1922年暮、34歳のときに『文藝春秋』を創刊した菊池さんは、その後同社で「講座もの」と呼ばれる講義録ふう評論エッセイ集を刊行しながら各方面でボス扱いされるうち、昭和5年/1930年4月、文化学院の文学部長に就任します。41歳のときのことでした。

「この四月から、文化学院で、文学部と云ふのをやることになつた。これは、専門学校程度の文科を、創作科、編輯科、演劇映画科と云ふのに別けて、実際的な教育をやらうと云ふのである。現代の官私立大学の文科は、創作家乃至文芸家として立つ者の準備教育としては貧弱を極めてゐる。(引用者中略)卒業して教師になる者以外、現在の文科に入ることは、無意義であるとさへ、自分には思はれるので、かう云ふ実際的文科をやつて見る気になつたのである。」(『文藝春秋』昭和5年/1930年3月号より)

 と菊池さん本人は言っています。文化学院は国家による教育機関ではなく、専門学校のような位置づけらしいですが、昭和5年/1930年に文学部というものができた当初から「創作」も授業に取り入れられていたようです。菊池さんの口利きでその講師には、じっさいに作家や評論家として活躍していた実作のある人たちが就任し、なにがしかの収入が発生して、出版界の経済を回していた……という意味では、やはりこれも菊池さんお得意の、文人に安定した職を確保するひとつだったわけです。

 そうは言ってもけっきょく授業のテーマは「文学」だったはずだ、大衆文芸の直木賞とは何の関係もないじゃないか。と言い張るのは、どう考えても浅はかでしょう。当時、文化学院の学生だった人が、のちに(かなり、のちに)直木賞の候補に挙がっています。第40回(昭和33年/1958年・下半期)『二つの虹』で候補になった野口冨士男さんです。

 幼稚舎から慶應義塾に通っていた野口さんは、普通部、大学文学部予科と進みながら、ついにそこを飛び出して昭和5年/1930年5月、文化学院に転入学します。以降3年ほど同学院に通い、しかしまともに授業にも出ず、だらだら暮らしていたそうですけど、野口さんの回想をもとに当時の文化学院文学部の陣容を挙げてみます。

 文学部長=菊池寛、1年足らずで後任に千葉亀雄が就任。創作指導=川端康成、中河与一。英語・英文学=戸川秋骨、十一谷義三郎、その後阿部知二、石浜金作、三宅幾三郎。フランス語=前川堅市、木村太郎、秋田玄務。国文=与謝野晶子、藤田徳太郎。漢文=奥野信太郎。演劇=三宅周太郎、岸田国士、北村喜八。編集=土岐善麿、菅忠雄。法律=末広巌太郎。自然科学史=岡邦雄。

 この昭和5年/1930年前後というのは、文学史でいうと大衆文芸の膨張(人にはよっては堕落と表現される)、もしくはプロレタリア文学の急激な、急激すぎる拡大があったとされる時代です。ここで芸術であることを心のよすがとする文学が、一学校の一組織というかたちで設立され、次代を担う若者たちへの教育に使われたのは、なぜなのか。偶然といおうか必然といおうか、書き手も受け取り手も増えていくいわば「大衆」の時代に、芸術たらんことを目指す文学が、カネの動く経済成長のなかで一つ生き残るところが、学校という場所だった、とも言えるでしょう。

          ○

▼昭和7年/1932年頃?、野口冨士男が川端康成の授業でレポートとして創作を提出

 こうなってくると、じっさいに文化学院でどんな創作の授業が行われていたのか、知りたくなります。

 野口冨士男さんに「雨宿り」(初出『風景』昭和46年/1971年5月号)という、川端康成さんのことを書いたエッセイがあり、ここに当時の授業内容の一端が紹介されています。ちなみに、あとで野口さんが川端さんに聞いたところ、当時の講師の月給は5円という安さだったそうです。他との掛け持ちでなければなかなか創作の講師だけで生活はできなかった状況を示しています。そりゃそのぐらいが相場だろう、という気もします。

「その講義の内容だが、川端先生は新潮社から新興芸術派叢書の一冊として出版された自著『僕の標本室』をテキストに使用しておられた。のちに「掌の小説」と呼ばれるに至ったコント集で、その一作々々の成立過程や、どうしてそのような表現がとられたかというふうな創作上の実例を具体的に解剖してみせられたのであったから、熱心に聴講していたら大変な勉強になっていただろう。が、もともと気まぐれで入学した私はどの講義も怠け放題で、川端先生のレポートである「小説」にしろロクなものは書けなかった。」(昭和56年/1981年6月・作品社刊、野口冨士男・著『作家の椅子』所収「雨宿り」より)

 実作で食っている人からこれほど丹念に創作過程を聞けるのですから、たしかに学ぶ姿勢があれば十分な価値があったと思います。翻って言えば、昔も今も、どんなに贅沢な講義でも、聴くほうが熱心でなければあまり意味はない、ということかもしれません。

 ちなみにこのエッセイの後半は、生徒たちが提出した小説に対して川端さんが講評する授業のことが紹介されています。野口さんはちょうど遅刻して教室に入ったために、自作に対する先生の評は聞けませんでしたが、あとから級友に聞いたところ、「この人は、作家になれない人ですね」と言われたらしい、うんぬん……というオチです。

 野口さんは、たしかに自分は文芸の道に入ったのが間違いではなかったかと、しばしば思うことがあるし、川端先生のその言葉が忘れられない、と書いています。しかし客観的に見れば、長じて作家として進んでいるわけですから、優秀な評論家でもあった川端さんが口にした「作家になれない人だ」という予言が外れていたのは明らかです。

 先生や先輩などの、偉そうな分析の言葉は、けっこう当てにならないことがある。他の一般的なすべての事柄でもそうですし、創作に関しても、それは例外ではない、ということでしょう。

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