昭和7年/1932年、山本有三が明治大学文芸科長への就任要請を引き受ける。
▼昭和7年/1932年、明治大学に文学部が復活
前回は、文化学院と直木賞の結びつきに目を奪われて、昭和も後半の、大沢在昌さんのことにまで触れてしまいました。先走りすぎたので、もう一度、時間を巻き戻します。昭和ヒトケタ台、直木賞ができる直前の状況についてです。
大正10年/1921年創立の文化学院が、創作の実技をとりいれた文学部をつくったのが昭和5年/1930年です。創立と同時でもよかったのに、なぜか誕生するまで10年近くもたっています。これが時代のムーブメントというやつなんでしょうか。1930年代。創作に主眼を置いた似たような教室が、いくつかの大学でつくられた時期に当たります。
たとえば、先に紹介した野口冨士男さんは、文化学院のほかに、日本大学の芸術科、明治大学の文芸科を並べて挙げました。「教育機関で学生たちに創作を教える」という体制が、昭和のはじめにいきなり(?)日本文学の世界に生まれた、ということです。
三者三様、当然それぞれの学校の歩みは違うでしょうし、ひと言で言えることがあるのかないのかもわかりません。とりあえず今週はそのうち、明治大学の場合を見てみたいと思います。
明治36年/1903年に「明治法律学校」から改称した明治大学では、明治38年/1905年9月から1年間、「文学研究会」というかたちで文学の科外講義が行なわれ、その後の明治39年/1906年9月に三ヵ年で卒業となる「文学部」がスタートします。ところが、鳴り物入りで学生を募集したまではよかったものの、こんなところに入学して学びたいと希望するツワモノがあまりにも少なかったために、マジかよ、これっぽっちしか集まらないのかよ、と大学当局も絶句する有り様です。
けっきょく3年たって、第一回生として送り出せた卒業生が、たったの3人。だめだこりゃ……ということで、たちまち大学は文学部を閉鎖、新規募集をやめてしまいます。学生が集まらなきゃ学校経営が成り立たないのは、いまの時代も明治のころも、大して変わりません。
『明治大学文学部五十年史』(昭和59年/1984年3月・明治大学文学部刊)によると、その後、文科を復活せよ、復興せよ、と一部の文学亡者たちからうるさい声が何度も挙がったそうです。いや、「文学亡者」などと言っては怒られますね。文学教育が立派な社会人になり得る人材を養成し、いずれは社会幸福に寄与する存在になる、と信じる明大の卒業者や関係者たちが少なからずいた、ということです。
それから飛んで昭和5年/1930年。この年は早大、慶大、明大などで授業料の値下げを争点にした学生運動がにぎわった年だそうですが、大学生たちのパワーと破壊力は、なかなか馬鹿にできません。それは、のちの1960年代とか1970年代とかの学生運動を見てもわかります。
ともかく明大の場合、学生たちの要求のなかに「文科の復活」も挙げられていたそうです。それが徐々に現実味を帯びていくなかで、昭和6年/1931年には明治大学創立50周年式典、というタイミングが重なります。学内でも文科復活の機運が盛り上がっていくと、昭和7年/1932年の年が明けて、理事会、そして商議委員会という、「文学のことなんか何もわからんけど、それ儲かるの?」と、カネ勘定にばかり興味のあるジジイたちが議論を牛耳る、はてしなく大きな壁を乗り越えて、昭和7年/1932年4月の文学部開講へとこぎつけました。
ナミダ、ナミダの復活劇……。といったところでしょうが、一度、入学募集者が少なすぎて失敗したことがある、という歴史も大きかったでしょう。そのため、あまりに実の出ない道には進めないというか、社会に出ても何の役にも立たない頭でっかちの学問ばかりは教えられない、という足かせがあったのは否定できません。
それと、復活できたのがたまたま1930年代初頭のこの時期だった、というところにも明大の運を感じます。幸運か悪運か、わかりません。しかし、大学で文学なんか習ったってけっきょく学校の先生か、口だけ達者な社会落伍者ばかり生む、というような風潮が温まっていたのは、やはり明治時代でも大正でもなく、昭和初期、このころならではのことです。前に紹介した菊池寛さんも文化学院文学部長に就任するにあたって、卒業生が社会に出てもっと役立つような文科でありたい、みたいなことを言っていました。既成の文学部なるものに不信感をもっていた人がいたわけです。
その感覚は、明大で文学部の復活に動いた人たちのあいだにも共有されていたらしいですけど、さらにこの考えに染まっていたのが、文芸科長への就任を要請された山本有三さんです。
頼まれたときには、文学なんて人に教えられないよ、しかもおれはすごく忙しいんだ、と反応したそうで、それはそうだと思います。そのうえで、自分の作家稼業を犠牲にしてまで科長の職を引き受けるなら、いっそこれまでの大学の文科とは違う、現実の社会情勢に即した教育機関にしたい、と語ります。
直截にいうと、作家を養成することを目的にしていた、とも言われています。実技指導で創作を教える、ということもあったでしょう。ここに山本さんなりの考えが混ぜ合わさった結果、こんなふうになりました。
「私はこの科を普通の学校というよりは、文芸修業者のための一つの道場として考へている。教へるとか、詰込むとか、暗誦させるというようなことに重きをおかないで、学生みづからが自身の力で「味わう。」「端的に会得する。」「自分の中にある芽を伸ばす。」そういう点に主眼をおいている。
(引用者中略)
私はまた教師に於る講義以外に、特に見学、座談というようなものを設けることにした。そして学生諸君と共に茶をすすりながら会談したり、あるいは演劇を、映画を、美術を、鉱山を、刑務所を、精神病院を見学するようなことをもやっている。」(『駿台新報』344号[昭和8年/1933年3月18日]山本有三「研磨会得の道場」より ―昭和54年/1979年3月・明治大学文学部五十年史資料叢書II『資料文科専門部の創設』所収)
このころを知る、当時じっさいの学生だった桜井薫さんは、とにかく明大文芸科というのはすべてがユニークな学校だったと回想しています。同じく神田駿河台にあった文化学院も引き合いに出しながら、文化学院は明大より規模も小さかったはずだ、などとも言っているんですが、規模が大きいのに自由で闊達な気風な守られている、だから明大は稀有だったんだ、と胸を張りたかったのかもしれません(桜井薫「久保田万太郎氏のことなど――わが思い出のひとこま――」昭和54年/1979年10月・明治大学文学部五十年史資料叢書V『文芸科時代I(1932~1951)』所収)。





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