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2020年6月の5件の記事

2020年6月28日 (日)

昭和7年/1932年、山本有三が明治大学文芸科長への就任要請を引き受ける。

20200628

▼昭和7年/1932年、明治大学に文学部が復活

 前回は、文化学院と直木賞の結びつきに目を奪われて、昭和も後半の、大沢在昌さんのことにまで触れてしまいました。先走りすぎたので、もう一度、時間を巻き戻します。昭和ヒトケタ台、直木賞ができる直前の状況についてです。

 大正10年/1921年創立の文化学院が、創作の実技をとりいれた文学部をつくったのが昭和5年/1930年です。創立と同時でもよかったのに、なぜか誕生するまで10年近くもたっています。これが時代のムーブメントというやつなんでしょうか。1930年代。創作に主眼を置いた似たような教室が、いくつかの大学でつくられた時期に当たります。

 たとえば、先に紹介した野口冨士男さんは、文化学院のほかに、日本大学の芸術科、明治大学の文芸科を並べて挙げました。「教育機関で学生たちに創作を教える」という体制が、昭和のはじめにいきなり(?)日本文学の世界に生まれた、ということです。

 三者三様、当然それぞれの学校の歩みは違うでしょうし、ひと言で言えることがあるのかないのかもわかりません。とりあえず今週はそのうち、明治大学の場合を見てみたいと思います。

 明治36年/1903年に「明治法律学校」から改称した明治大学では、明治38年/1905年9月から1年間、「文学研究会」というかたちで文学の科外講義が行なわれ、その後の明治39年/1906年9月に三ヵ年で卒業となる「文学部」がスタートします。ところが、鳴り物入りで学生を募集したまではよかったものの、こんなところに入学して学びたいと希望するツワモノがあまりにも少なかったために、マジかよ、これっぽっちしか集まらないのかよ、と大学当局も絶句する有り様です。

 けっきょく3年たって、第一回生として送り出せた卒業生が、たったの3人。だめだこりゃ……ということで、たちまち大学は文学部を閉鎖、新規募集をやめてしまいます。学生が集まらなきゃ学校経営が成り立たないのは、いまの時代も明治のころも、大して変わりません。

 『明治大学文学部五十年史』(昭和59年/1984年3月・明治大学文学部刊)によると、その後、文科を復活せよ、復興せよ、と一部の文学亡者たちからうるさい声が何度も挙がったそうです。いや、「文学亡者」などと言っては怒られますね。文学教育が立派な社会人になり得る人材を養成し、いずれは社会幸福に寄与する存在になる、と信じる明大の卒業者や関係者たちが少なからずいた、ということです。

 それから飛んで昭和5年/1930年。この年は早大、慶大、明大などで授業料の値下げを争点にした学生運動がにぎわった年だそうですが、大学生たちのパワーと破壊力は、なかなか馬鹿にできません。それは、のちの1960年代とか1970年代とかの学生運動を見てもわかります。

 ともかく明大の場合、学生たちの要求のなかに「文科の復活」も挙げられていたそうです。それが徐々に現実味を帯びていくなかで、昭和6年/1931年には明治大学創立50周年式典、というタイミングが重なります。学内でも文科復活の機運が盛り上がっていくと、昭和7年/1932年の年が明けて、理事会、そして商議委員会という、「文学のことなんか何もわからんけど、それ儲かるの?」と、カネ勘定にばかり興味のあるジジイたちが議論を牛耳る、はてしなく大きな壁を乗り越えて、昭和7年/1932年4月の文学部開講へとこぎつけました。

 ナミダ、ナミダの復活劇……。といったところでしょうが、一度、入学募集者が少なすぎて失敗したことがある、という歴史も大きかったでしょう。そのため、あまりに実の出ない道には進めないというか、社会に出ても何の役にも立たない頭でっかちの学問ばかりは教えられない、という足かせがあったのは否定できません。

 それと、復活できたのがたまたま1930年代初頭のこの時期だった、というところにも明大の運を感じます。幸運か悪運か、わかりません。しかし、大学で文学なんか習ったってけっきょく学校の先生か、口だけ達者な社会落伍者ばかり生む、というような風潮が温まっていたのは、やはり明治時代でも大正でもなく、昭和初期、このころならではのことです。前に紹介した菊池寛さんも文化学院文学部長に就任するにあたって、卒業生が社会に出てもっと役立つような文科でありたい、みたいなことを言っていました。既成の文学部なるものに不信感をもっていた人がいたわけです。

 その感覚は、明大で文学部の復活に動いた人たちのあいだにも共有されていたらしいですけど、さらにこの考えに染まっていたのが、文芸科長への就任を要請された山本有三さんです。

 頼まれたときには、文学なんて人に教えられないよ、しかもおれはすごく忙しいんだ、と反応したそうで、それはそうだと思います。そのうえで、自分の作家稼業を犠牲にしてまで科長の職を引き受けるなら、いっそこれまでの大学の文科とは違う、現実の社会情勢に即した教育機関にしたい、と語ります。

 直截にいうと、作家を養成することを目的にしていた、とも言われています。実技指導で創作を教える、ということもあったでしょう。ここに山本さんなりの考えが混ぜ合わさった結果、こんなふうになりました。

「私はこの科を普通の学校というよりは、文芸修業者のための一つの道場として考へている。教へるとか、詰込むとか、暗誦させるというようなことに重きをおかないで、学生みづからが自身の力で「味わう。」「端的に会得する。」「自分の中にある芽を伸ばす。」そういう点に主眼をおいている。

(引用者中略)

私はまた教師に於る講義以外に、特に見学、座談というようなものを設けることにした。そして学生諸君と共に茶をすすりながら会談したり、あるいは演劇を、映画を、美術を、鉱山を、刑務所を、精神病院を見学するようなことをもやっている。」(『駿台新報』344号[昭和8年/1933年3月18日]山本有三「研磨会得の道場」より ―昭和54年/1979年3月・明治大学文学部五十年史資料叢書II『資料文科専門部の創設』所収)

 このころを知る、当時じっさいの学生だった桜井薫さんは、とにかく明大文芸科というのはすべてがユニークな学校だったと回想しています。同じく神田駿河台にあった文化学院も引き合いに出しながら、文化学院は明大より規模も小さかったはずだ、などとも言っているんですが、規模が大きいのに自由で闊達な気風な守られている、だから明大は稀有だったんだ、と胸を張りたかったのかもしれません(桜井薫「久保田万太郎氏のことなど――わが思い出のひとこま――」昭和54年/1979年10月・明治大学文学部五十年史資料叢書V『文芸科時代I(1932~1951)』所収)。

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2020年6月21日 (日)

昭和23年/1948年、能の研究に打ち込んだ杉本苑子が文化学院を卒業する。

20200621

▼昭和23年/1948年、杉本苑子が文化学院の卒業論文で「世阿弥」を選択

 先週、令和2年/2020年6月16日に、新しい直木賞の候補作が発表されました。

 そのなかに京都の淡交社から出た、能楽に縁深い作品が入っています。能と直木賞。これまでも濃密に交わってきた組み合わせだと思いますけど、パッと思いつくのが第48回(昭和37年/1962年・下半期)の受賞者、杉本苑子さんのことです。

 淡交社といったら今東光さんだ。……というよく知られたトリビアを、ここでストレートに口に出せないのが、うちのブログのイマイチなところですが、そもそも昭和31年/1956年に『淡交』という雑誌に連載中だった今さんの「お吟さま」を、毎月感心しながら読んでいたのが吉川英治さんで、ウワサによるとその吉川さんが、これを今度の直木賞の候補作にどうだろうかと推薦した、とも言われています。吉川さんが褒めていた、ということは、足しげく吉川邸に通っていた杉本さんも『淡交』を読んでいたかもしれません。ちなみに直木賞受賞後の杉本さんには、淡交社でのお仕事もいくつかあります。

 と、それはあまりに遠い縁ですが、しかし「能と直木賞」でハナシを進めるのであれば、やはり杉本さんの名は外せないでしょう。

 前週のブログでは文化学院のことに触れました。直木賞の受賞者・候補者のなかにも、同院に通っていた人が何人かいます。昭和5年/1930年に創設された文化学院文学部には野口冨士男さんが転入学、またそのころ文学部の人たちと仲良くなって同人雑誌を出していたのが、美術部にいた飯沢匡さんです。戦後には杉本苑子さん、さらに時代はくだって1970年代には大沢在昌さんなどが、ここで学びました。

 ということで、まずは直木賞受賞者になったひとり目、杉本さんですが、彼女の場合は在学中の素行が、どうにもナゾめいています。いや、それは「のちに作家になった人」という視点で見ているからで、素直に考えれば、とくに目立つことのない、どうということのない学生だったのかもしれません。

 杉本さんが入学したのは、同院が戦時中の強制閉校から復活を遂げた昭和21年/1946年、卒業したのは昭和23年/1948年12月です。当時も創作を学ぶ講義というのはあったはずですが、杉本さんが創作を学んだ痕跡は残されていません。10代から20代にかけての多感な青春時代、とにかく杉本さんは能の世界、観能、もしくは能楽史研究に夢中になったので、いまとなってはそちらのほうの逸話ばかりが目にとまります。

 戦局が深まりを見せる昭和10年代に、駒沢高女から千代田女専の国文科に進学したあたりから、杉本さんは能にくわしくて熱心だった先生とめぐりあい、能楽研究の面白さを知って没頭。小林静雄『世阿弥』(昭和18年/1943年12月・檜書店刊)など、能研究の最先端をゆく専門書を買い求めては、何度も何度もくりかえし読んだそうです(平成4年/1992年8月・光風社出版刊、杉本苑子・著『霧の窓』所収「青春の一冊―小林静雄氏の『世阿弥』」)。そうして千代田女専に通っていたころ、文化学院から転入してきた(転入せざるを得なかった)ひとりの女学生と出逢ったことが、のちに杉本さんが同院に入るきっかけとなったのだ、と磯貝勝太郎さんが『杉本苑子全集 第12巻』(平成10年/1998年3月)の月報で紹介してくれています(「杉本苑子さんと無名の女学生と西村伊作」)。

 学院に入学しても、能だ能だと、そればかり追い求めて手のつけられない学生だった。……かどうかはわかりませんが、卒業論文のテーマにはやはり「世阿弥」を選び、これが学院長の西村伊作さんの目を引いたのは、たしかなようです。

 歴史、とくに能の歴史に興味をもったひとりの女性がいたのはわかります。どうして杉本さんはここから小説の創作に向かったのでしょうか。

 あるいは、懸賞小説の応募といえば相場はカネ目当てだ、ということなのかもしれません。わかりません。とりあえず学院を出てから3年、昭和26年/1951年3月末が締め切りの、『サンデー毎日』創刊三十年記念百万円懸賞小説の歴史小説部門に「申楽新記」を応募。本人の回想によると、世阿弥の生涯を扱った短篇だったそうですが、これが予選を通り、吉川英治、大佛次郎、海音寺潮五郎3人による本選考にかけられます。一席入選が松谷文吾さん(本名・沢寿郎)の「筋骨」、二席入選が黒板拡子さん(のちの筆名・永井路子)の「三条院記」、杉本さんは選外佳作にとどまりました。

 杉本さんが本格的に創作の勉強を始めるのは、翌年『サンデー毎日』大衆文芸第42回分に入選した前後、吉川英治さんに押しかけ弟子のようなかたちで師事するようになってからです。ちなみに、このときに入選した「燐の譜」は、能面師の氷見宗忠を描いたものですから、杉本さん本人が、能と出会わなかったら自分は作家になることもなかっただろう、と回想しているのもうなずけます。つまりは、能楽がひとりの直木賞受賞者を生んだのだ、と言っていいでしょう。

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2020年6月14日 (日)

昭和5年/1930年、できたばかりの文化学院文学部に野口冨士男が転入学する。

20200614

▼昭和5年/1930年、菊池寛が文化学院の文学部長に就任

 世に菊池寛ファンというのは意外と多くて、先週取り上げた文春初期の名企画「文藝講座」なども、いろんな人が褒めています。たとえば松本清張さんは、あの時代に「講義録」じゃなく「講座」と名づけたネーミングセンス、キクチカンすげえぜ(昭和57年/1982年10月・文藝春秋刊『形影 菊池寛と佐佐木茂索』)とか何とか賞賛しているんですが、そもそも出版物に「講座」とつけた先例はいくつもあるのに、どうしてそこまで手放しで褒めることができるのか、よくわかりません。ファン心理というのは恐ろしいものだ。ということにしておきましょう。

 菊池寛という人物が後から見ても面白いのは、小説を書く、戯曲を書く、といったことの他に多様な方面に手を伸ばした人だからです。書かれた作品だけから昔の作家を考えてみる、なんて辛気くさいことは、おそらく全人類のうち微々たる割合の人しか興味をもたない、尊いような馬鹿バカしいような営為でしょうけど、菊池さんの場合は他の文学的な人物とは違って、出版、映画、演劇、放送、政治、競馬、麻雀、あるいは外見の美醜、女遊び、カネもうけなどなど、いろんな方面で成功したり失敗したり、硬軟とりまぜて人物像を追うことが可能です。敵も相当多かったみたいですが、信奉者が増えていくのも大いにうなずけます。

 ところで出版物のシリーズに「講座」と名付けた、文春のこのやり方。どこから発想されたものなんでしょうか。

 清張さんを上回る菊池寛ファンの総帥こと、永井龍男さんは「この「講座」というのも、菊池さんがつくった新語です。」(『海』昭和53年/1978年3月号「終焉の菊池寛」、昭和57年/1982年2月・講談社刊『永井龍男全集第十一巻』所収)と言っています。永井さんあたりの人が言ってしまうと、信用しなきゃいけない気持ちになって、それがおおよそ後世に間違った認識を残す害になったりもしますが、さすがに菊池さんの新語というのはフカしすぎです。いまはもう検索の社会ですので「講座」のついた書籍を検索してみると、『文藝春秋』のできる前の大正はじめ、1910年代からゴロゴロと出てきます。

 いっぽうで井上ひさしさんは「菊池寛は「文芸講座」という「講座もの」を始めました。その前に「日本資本主義講座」という大変売れた左翼系の本があり、それをもじったわけですね。」(平成11年/1999年1月・ネスコ刊『菊池寛の仕事』所収「講演 菊池寛の仕事」)と紹介しています。なるほど、そんなものがあったか。と思って少し調べたんですが、共産党の指揮下で出されたという『日本資本主義発達史講座』は昭和7年/1932年、『日本資本主義講座』は昭和28年/1953年で、菊池さんの「文藝講座」より全然あとです。井上さんの文章は、高松市で行われた講演を起こしたものらしいので、じっさいは「日本資本主義講座」のほうが菊池さんのをもじったんだよ、としゃべったのかもしれません。

 まあ、こんなことばかり気にしているとまるで先に進みませんけど、ともかく「講座」と聞いて連想される事柄といえば、何でしょう。本や冊子ではなく、一般的には学校・教室・スクールだと思います。そして、えっ学校なんてものに権威があったのかよ! と、いまを生きる私たちが驚くほどに、やはり明治、大正、昭和のころの「学校」には、知識を与えてくれる、立派で真面目で崇め奉る対象としての格式があったのは間違いないところです。

 というところで、少しハナシはズレまして、菊池さんおよび彼の周囲を取り巻いた当時の学校のことに目を向けてみます。菊池さんに関する多数の視点のなかに「教育」というものがあるからです。

 大正11年/1922年暮、34歳のときに『文藝春秋』を創刊した菊池さんは、その後同社で「講座もの」と呼ばれる講義録ふう評論エッセイ集を刊行しながら各方面でボス扱いされるうち、昭和5年/1930年4月、文化学院の文学部長に就任します。41歳のときのことでした。

「この四月から、文化学院で、文学部と云ふのをやることになつた。これは、専門学校程度の文科を、創作科、編輯科、演劇映画科と云ふのに別けて、実際的な教育をやらうと云ふのである。現代の官私立大学の文科は、創作家乃至文芸家として立つ者の準備教育としては貧弱を極めてゐる。(引用者中略)卒業して教師になる者以外、現在の文科に入ることは、無意義であるとさへ、自分には思はれるので、かう云ふ実際的文科をやつて見る気になつたのである。」(『文藝春秋』昭和5年/1930年3月号より)

 と菊池さん本人は言っています。文化学院は国家による教育機関ではなく、専門学校のような位置づけらしいですが、昭和5年/1930年に文学部というものができた当初から「創作」も授業に取り入れられていたようです。菊池さんの口利きでその講師には、じっさいに作家や評論家として活躍していた実作のある人たちが就任し、なにがしかの収入が発生して、出版界の経済を回していた……という意味では、やはりこれも菊池さんお得意の、文人に安定した職を確保するひとつだったわけです。

 そうは言ってもけっきょく授業のテーマは「文学」だったはずだ、大衆文芸の直木賞とは何の関係もないじゃないか。と言い張るのは、どう考えても浅はかでしょう。当時、文化学院の学生だった人が、のちに(かなり、のちに)直木賞の候補に挙がっています。第40回(昭和33年/1958年・下半期)『二つの虹』で候補になった野口冨士男さんです。

 幼稚舎から慶應義塾に通っていた野口さんは、普通部、大学文学部予科と進みながら、ついにそこを飛び出して昭和5年/1930年5月、文化学院に転入学します。以降3年ほど同学院に通い、しかしまともに授業にも出ず、だらだら暮らしていたそうですけど、野口さんの回想をもとに当時の文化学院文学部の陣容を挙げてみます。

 文学部長=菊池寛、1年足らずで後任に千葉亀雄が就任。創作指導=川端康成、中河与一。英語・英文学=戸川秋骨、十一谷義三郎、その後阿部知二、石浜金作、三宅幾三郎。フランス語=前川堅市、木村太郎、秋田玄務。国文=与謝野晶子、藤田徳太郎。漢文=奥野信太郎。演劇=三宅周太郎、岸田国士、北村喜八。編集=土岐善麿、菅忠雄。法律=末広巌太郎。自然科学史=岡邦雄。

 この昭和5年/1930年前後というのは、文学史でいうと大衆文芸の膨張(人にはよっては堕落と表現される)、もしくはプロレタリア文学の急激な、急激すぎる拡大があったとされる時代です。ここで芸術であることを心のよすがとする文学が、一学校の一組織というかたちで設立され、次代を担う若者たちへの教育に使われたのは、なぜなのか。偶然といおうか必然といおうか、書き手も受け取り手も増えていくいわば「大衆」の時代に、芸術たらんことを目指す文学が、カネの動く経済成長のなかで一つ生き残るところが、学校という場所だった、とも言えるでしょう。

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2020年6月 7日 (日)

昭和3年/1928年、文藝春秋社『文藝創作講座』を刊行、直木三十五も講師のひとりとなる。

20200607

▼大正13年/1924年、『文藝春秋』創刊1年すぎで企画された『文藝講座』出版

 直木賞が創設されたのは昭和9年/1934年です。芥川賞も同じです。その当時、出版事業の一角には「懸賞小説」という制度がすでに存在していましたが、既成文壇の人たちから、懸賞なんかからホンモノの文学が生まれるわけねーだろ、と冷めた目で見られていました。いまでも、そういう偏見を持っている人はいるかもしれません。

 ともかく直木賞も芥川賞も、新人を発掘する目的で始められた事業です。始めるに当たって、懸賞の制度をメインに打ち出してもよかったはずですけど、なぜか発表済の作品を対象にした別の企画として制定されました。それこそが両賞が成功した要因のひとつでもあるのだ、と主張する小田切進さんのような人もいます。たしかにそうかもしれません。

 世のなかには、菊池寛さんの偉業をことさら称えたい、いわゆる菊池寛ファンと呼ばれる連中がいます。そういう人たちは両賞の成功を、菊池さんのプランメーカーとしての才能に結びつけたがるようですが、正直、菊池さんに発案の功はあっても、プランメークの才があるようには思えません。あまり過大評価しないほうがいいと思います。

 しかし菊池さんの率いる文藝春秋社という組織があったおかげで、直木賞が生まれたのはたしかですから、あまり菊池さんを悪く言っても仕方ないですね。すみません。大正11年/1922年暮に創刊した月刊誌『文藝春秋』、その発行所としてスタートを切った「文藝春秋社」が、直木賞をつくったのは創業わずか12年ほどしか経っていない時期のことでした。このころ文藝春秋社が成功させたと言われる事業はいくつかありますが、その栄光の歴史!(?)のなかで名が挙がるものを見ると、文学賞の創設のほかに、ひとつ目にとまるものがあります。『文藝講座』の刊行です。

 文藝講座。いったい何なんでしょう。雑誌『文藝春秋』を順調に刊行し、世の読者に好評裡に受け入れられた菊池さんが、得意の思いつきをいちばんはじめに実現させた「文藝春秋社最初の事業」だそうです。発表されたのは大正13年/1924年7月号同誌上で、責任講師に徳田秋声、芥川龍之介、久米正雄、山本有三、菊池寛の5人が就き、会期を6か月として、月1円20銭を払った会員たちに毎月2回、講義録(というか書下ろしの文学論エッセイを集めた冊子)を配本するという、出版を通じて文芸教育を広めるための企画でした。

「時勢に鑑みて、文藝教育の普及を計りたいのがその名分だが、もう一つには小説雑文だけでは食えない同人及び関係者に仕事を与えたいためもある。「文藝講座」は芥川、久米、山本及び自分が中心となり、創作本位で、しかも学問的根拠のある立派な真面目なものにしたいと思っている。」(『文藝春秋』大正13年/1924年7月号より)

 という文章を菊池さんが書いています。この物言いが何ともキクチカンです。後年の直木賞創設のときにも見せた「事業の目的はひとつではないんだ」という姿勢が出ている、といいましょうか。純粋に公益に資したいという思いと、自分たちの組織の金儲けのためにするんだ、という半々の姿勢をはっきりと表明しています。

 それで金儲けして、どうするのでしょう。贅沢したいとか、いいモノ食っていい女を抱きたいとか、個人的な欲望に直結した気持ちもそりゃあったと思います。ただ菊池さんに、そもそもカネを稼げなきゃ人間生きていけないじゃないか、と作家稼業を職業としてとらえる考えがあったのもたしかです。『文藝講座』の企画には、その思想が確実に宿っています。

 直木賞もやはりそうです。小説を書く人たちの経済的な生活の安定と、彼らがお金をやりとりして生きていく業界の経済的な発展を見据えて始められた、という面は無視できません。菊池さんのアイディアがよりかたちになりやすかった大正末期から昭和初期、文藝春秋社の創業10数年の短いあいだに現われた「文藝講座」と文学賞創設という2つの企画。両者を似たものとして考えるのは、あながち突飛ではないはずです。

 「文藝講座」は責任講師のほかに、要は小説雑文だけでは食えない連中に文春が仕事をまわすための企画でもある、と菊池さんは言いました。そのひとりだった今東光さんが、文藝講座の仕事を引き受けておきながら、けっきょくサボり、菊池さんを怒らせてしまいます。いや、「文学士」と名乗れる学歴をもたない東光さんを、あえて文春側がこの企画から外したことで、東光さんがひどく怒ったのだ、とかいうハナシもあります。いずれにしても、この一件が大正13年/1924年、今VS.菊池の因縁の喧嘩別れに帰結したのだとも言われていて、何でもかんでも社会や人間が菊池さんの思うようにいくとは限らないんだ、ということがわかりますが、当初4,000名以上は会員がいないときちんとした仕事ができない、と言いながら会員を募集したところ、9月末の締め切りまでに7,500名から8,000名程度の申し込みがあったらしく、大正13年/1924年9月から配本の始まった『文藝講座』は全14冊、翌年の大正14年/1925年5月までで無事に終了しました。事業としては大成功だった、と語られる文章をしばしば見かけます。

 ところで最初の企画発表にもあったように、会期は半年6か月です。なぜ1年ではなく半年なんでしょうか。直木賞や芥川賞が、半年ごとに選考する事業であることを考えると、「半年」にしたこの発想に、両賞が年2回である理由のナゾが隠されているような気もします。いま何かをドヤ顔で言える証拠は手もとにないので、追ってここら辺も調べたいところです。

 ともかくも文春の「文藝講座」は、菊池さんをはじめ、講師となる書き手が実作の伴う作家たちを揃えたところに特徴がありました。「創作本位」、要するに自分で小説を書いている人たちが、その実体験のなかから文芸の精粋を語る、という建前だったわけですが、この成功を受けた文春は、さらに新しい講座モノに手を出すことになります。昭和3年/1928年に企画した「文藝創作講座」です。

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第14期のテーマは「小説教室」。文学史のなかでは傍流中の傍流、つまり直木賞のお仲間といってもいい事業についてです。

 ブログ形式で書きはじめて14年になります。どんなにくだらないことでも、14年もやっていると、いろいろな考えが頭をよぎるものです。

 たまさか直木賞という文学賞のたたずまいに興味を持ってしまい、その受賞作、候補作、周辺の本を読んだりしながら、受賞者、候補者、選考委員、裏で支える人たち、まわりでワーワー言っているだけの野次馬のことなどを、手当たり次第に調べてきました。まだ手始めも手始めで、ぜんぜん物足りません。

 何ひとつ終わりが見えず、なにかを学んだ気にすらなりません。まあ、俗にいう「人生の浪費」というヤツなんですけど、それでもまったく飽きることなく、「直木賞のすべて」というサイトとブログを続けていられるのは、やはり直木賞にまつわる事柄が多種多彩だからでしょう。

 それで直木賞のことを調べていると、気にかかる周辺テーマも増えるいっぽうなんですが、そのひとつに、小説教室というものがあります。

 小説を書きたい。プロの作家になりたい。あるいは、何となく興味を惹かれたとか友人に誘われたとか、動機はいろいろあるんでしょう。世のなかには小説の創作をお金を払って学びに行く人たちがいます。それを教える人たちがいます。小説講座とか、創作教室とか、文芸創作科とか、名称はさまざまありますが、単に文学を学問として学ぶという以上に、小説ライティングに特化したスクールが、現代の日本ではいたるところに存在します。

 ワタクシ自身そういうところに行ったこともなければ、行く気もないので、文学賞について調べるまではよく知りませんでした。いま現在、小説教室の存在意義を真っ向から否定する意見はあまり見かけませんし、当然のように、そこにあります。しかし歴史的に見ると、近代の日本文学が芽生えた明治の頃から自然に社会に根づいていた、というわけではなさそうです。徐々にその文化が広がっていくなかで「小説の書き方なんて、人に教えられるものかよ、ぷぷっ」とか「そんなことじゃ大作家は生まれないぜ」とか「世も末だ」とか、旧来の文学者や文学愛好家から馬鹿にされ、おちょくられ、なんだか怪しいものだと白眼視されていた、という暗黒の歴史を抱えていることは、直木賞を調べながら何となく横目に入ってきていました。

 そういうことでいえば、直木賞も似たようなものです。いまでも文学賞を、単なる出版社の宣伝だ、話題づくりに堕したショーにすぎない、などと馬鹿にする人は数多くいますが、これは現在に始まったことではなく、昭和の初期、直木賞が生まれた時代から一定の批判が消えたことがありません。しかしいっぽうで、直木賞を受賞したおかげで職業作家になる基盤となった、という例は腐るほどにありますし、なにより文学と関係ない方面が寄せる「直木賞」ブランドへの評価、尊敬は尋常ではありません。賞の事業をやたら低く見る人と、やたら高く見る人。そのギャップが混然と存在していることが、直木賞の面白さを生んでいるのだ、と言っても過言ではないでしょう。

 とまあ、現段階では、これから1年間どういうブログを書いていこうか、全然まとまっていないんですけど、文学賞と小説教室は、まともな文学史をひもといても、まず中心的なテーマになりづらいもの同士です。いったい小説教室とはどういうかたちで発生し、どんな貢献をし、どんな弊害を生み出して文化現象として発達してきたのか。なるべく直木賞のことにも触れながら見ていこう、というのが今年のテーマの主旨になります。

 ふと目をあげれば、何かを調べたくても十全には進みそうにない社会状況がありますが、一週ずつの読み切りにこだわらず、ゆっくり少しずつ進んでいければと思います。ということで第1週目は、歴史をさかのぼって直木賞の発生した昭和初期、ちょうど直木三十五さんとも関わりの深い環境で登場した創作講座のことです。

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