木村荘十、中国を舞台にした「日本人が出てこない」小説で初めて直木賞を受賞する。
ご多分に洩れず、うちも最近、部屋の片づけに明け暮れています。懐かしい本や資料が何年かぶりで出てくる。ああワタクシもあれから年をくったんだなあ、と回想や感慨にふける。あっという間に夜になる。という展開もまた、ご多分に洩れません。だいたい凡庸な暮らしを送っています。
そんなこんなで部屋を整理しているとき、積み上げられた本の下から久しぶりに『消えた受賞作 直木賞編』(平成16年/2004年7月・メディアファクトリー刊)が出てきて、思わずギョっとしたものですから、今日はここに収録されている作家のハナシで行きたいと思います。加えて前週、深緑野分さんにかこつけて注目した「日本人が出てこない」受賞作・候補作のつづきでもあります。第13回(昭和16年/1941年・上半期)「雲南守備兵」で受賞した木村荘十さんです。
同書に「木村荘十 人と作品“放蕩児”」という解説が載っています。自分が書いた文章ですけど、もう16年もまえのものなので、はっきり言って他人です。いまよりまったく直木賞のことを知らず、関連の資料をどこで探したらいいのかもわからず、作家と小説の解説なんか書いたことのないド素人が、よくまあ頑張って背伸びして、まとめたものだと思います。逆に「おれは直木賞に関する知識が豊富だ」という自負が薄い分、いまより読みやすい文章になっているかもしれません。
この直木賞受賞作アンソロジーをつくるに当たって、当時の担当編集者、安倍(あんばい)さんから最初に提案がありました。収録作家のご遺族に取材しましょう、ご遺族の居場所を探してアポをとるのはこちらでやります、それをもとに川口さんが解説を書いてください、と。
収録作家は計7人いましたが、安倍さんが全部連絡先を調べてくれて、じっさいに直接ご遺族のところにうかがうことができたのが5人分です(海音寺潮五郎、森荘已池、岡田誠三、小山いと子、藤井重夫)。富田常雄さんについては、くわしいハナシができる人ということで、ご遺族の了承のうえ、富田さんの秘書をしていたという元編集者の野瀬光二さんに取材しました。いまとなって思い返せば、もっといろいろなことが聞けたに違いない、と悔やまれますが、当時は野瀬さんの名前どころか、牧野吉晴と言われても「だれですか、それ」とピンと来てないボンクラなインタビュアーだった我が身を、ただもう恥じるばかりです。「川口さん、ボソボソ言ってないで、もっとちゃんと取材してください!」と、安倍さんにはずいぶん叱られました。
それで、唯一直接の取材ができなかったのが木村荘十さんです。親族として姪にあたる光枝さんが対応してくださったそうですが、自分には伯父や直木賞のことを語れる思い出が何もないので、という理由で、戦後に小唄を習いはじめてその師匠だった八重子さんと結婚してからの木村さんのことを、お手紙で教えていただくにとどまりました。それと、木村さんの自伝的小説『嗤う自画像』(昭和34年/1959年12月・雪華社刊)を一冊お借りしたので、そこに書かれてあることを中心に必死になって解説をまとめた日の苦しみが、おぼろげながらよみがえってきます。
以来16年。解説を読み直してみても、いまのワタクシにこれ以上のことは書けません。まったく16年何をしてきたのか、自分の不勉強ぶりが悲しくなりますが、このブログでは「直木賞、海を越える」のテーマに合わせて、直木賞史上はじめて「日本人が出てこない」海外物の小説で受賞したという視点から考えてみます。
「雲南守備兵」はこんなハナシです。
昭和15年/1940年の中国雲南府。貧民窟として知られる黄泥巷で生まれ育った孫永才伍長が、機密の手紙を前戦から軍務司長に届けるという任務で久しぶりにこの地に足を踏み入れます。しかし、孫の知っている街とは大きく様相が変わっていて、貧民窟にいた人々も多くが行方不明。うわさによれば多くの下層民たちが、官署の命令によって錫の鉱山に鉱夫として連れていかれたのだと言います。
その後、孫の上官、沈大佐が、鉱山街である箇旧(コチュウ)の守備隊長に任じられたことから、孫もその鉱区に赴任します。そこで彼は鉱山の有様を目にすることになりますが、子供たちを過酷な労働につかせて、逃亡する者があれば容赦なく射殺する、という地獄絵図です。あまりのひどさにショックを受ける孫伍長。やがて知るところでは、洪開元という将軍が一帯の鉱区をなかば恐怖政治によって支配していて、イギリス人の技師長H・デューラン氏らとともに巨富を築き上げているとのこと。いわば暴利をむさぼる支配者、彼らに富と生活を搾取されつづける貧しい被支配者という構図です。
自分がこれまで軍隊教育のなかで知らされてきた状況とは、まるで違う現実に、孫は怒りをおぼえます。街で出会った老人には、軽率に行動しても何も変わりやせんよ、と諭されますが、それでも我慢がならない孫はついに実力行使に打って出ることになるのです……。
と、これは昭和16年/1941年の直木賞選考会でも、戦争小説、時局物ととらえられ、その観点から推薦する白井喬二さんのプッシュがあって受賞が決まりました。当時の日本でこの小説を読んだとしたら、どうなんでしょう。中国の政治、地方の統治にはオモテ沙汰になっていないだけで問題が多い。一般市民が鉱山で働かされて、その状態を改善する手だても打てない。だから日本が代わって支配して、中国の人たちの暮らしを守り、幸せにしてあげようではないか! ……と思わせる空気だったのでしょうか。
木村荘十さんの作品を、全部読んだわけではないですけど、やはりこの作家は、カネ目になりそうな時流に乗った題材のものを、請われるままに発表していくタイプの書き手だったと思われます。戦後(いや、当時も)さんざん馬鹿にされ、影では批判されたはずの、ホイホイと軍国主義について回る、作家的良心など見られない大衆作家のひとりとしてです。
○
もちろん後世に生まれた平和ボケ世代がテキトーな感想を言ったところで何の意味もありません。そりゃあ木村さんにだって言い分があるでしょう。のちにこんな表現をしています。
「私には、何等自信の持てるような、思想的な主張はなかつた。
(引用者中略)
この時局の前には卑小な私の主張や感情などは濁流に押し流される藁屑にも及ばない存在だつた。それに、日本勃興の盛時に人となつて、海外に長く生活し、国旗の有難さを身にしみて体験している私には国家の興亡を無視することは出来なかつた。
私は、こうなつたら、軍に協力する外はないと思つた。北村氏(引用者注:木村荘十が師事した北村小松)も、それには同感だつたらしい。(引用者中略)私のその心の底には、〈今、軍に反抗すれば、監禁されて憲兵下士官かなんかに、靴で蹴られるだけである。それで筆を絶たれたら自分は一篇の満足出来る作品も残さず終る。俺は命のある限り書きたい、徴用にも、従軍にも応じよう。報道作品の基調は、被圧迫民族の解放に置けばいい〉という気持があつた。」(木村荘十・著『嗤う自画像』「ペンへの妄執」より)
と、けっきょく『嗤う自画像』から引用してしまいましたが、要するに物書きとして生き延びるために軍への協力を決めた、ということです。「被圧迫民族の解放」に基調を置く、というところが木村さんなりの精一杯の人間的良心でしょう。「雲南守備兵」も明らかにその上で成り立っています。
ちなみに「雲南守備兵」では登場人物はみな外国人です。中国の雲南地方の鉱区周辺を描いています。作品のどこを読んでも「中国にはこんなかわいそうな人たちがいるんだ、だから日本が救ってあげよう」とは書かれていません。そう窺わせる気配すらありません。しかし、書いている人も、当時読んでいた人も、これを日本人が日本の雑誌に発表することの違和感をおぼえなかった。というところが、正直この小説が直木賞をとって後世に残されることになった最大の価値だと思います。
他の言い方をすると、アンソロジーにおさめた16年まえ、あるいはいま読んだときに、別種の感想が生まれるということです。アンソロジーの解説では「実はここでの日中戦争はステロタイプな描かれ方をしていない。」と、川口某が相変らず底の浅い感想を書いていますが、今回再読してみてもやはりこの小説は、あえて日本人が日本人の役で出てこないところが素晴らしいな、と思いました。
そのおかげで、たとえば小説の舞台を日本にして、登場人物をまるまる日本人に置き換えることも容易です。そして、それでもけっこうハナシの内容が通ってしまう。立場の弱い人たちに非情な仕打ちをして自分は富を築き上げてウハウハ笑っている人というのは、中国にもいたでしょうが、日本にもいるでしょうし、どこにだっています。その不公平さ、理不尽さを知ってしまった若い人が、老人の悟りきったふうの助言を振り切って、激情にかられて行動することの尊さを描いた小説なのだ。と見れば、白井さん以下、当時の選考委員たちが見たような「戦争小説」とは、一概に割り切ることのできない作品です。
木村さん本人にも、その感覚があったのかどうか、よくわかりません。ただ戦時下の小説として「被圧迫民族の解放」……弱い立場の人たちがいかにして救われるか、という一点だけを保とうとした意識が、いまとなっても読める小説に結実したのは間違いありません。
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