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2020年5月24日 (日)

藤本泉、西ドイツのケルンで生活を送り、最後に確認された場所がフランス。

 盛厚三さんという文学研究者がいます。北海道釧路にまつわる文学者や作品のことに異常にくわしく、また埼玉県春日部あたりの文学についてもよくご存じの方です。

 春日部というと、ワタクシの敬愛する先輩研究者、荒川佳洋さんが住んでいます。直木賞の選考委員をしていた三上於菟吉さんが同地の出身だった関係で、於菟吉関係の催しがあると荒川さんに誘われて足を運んだりするうちに、その集まりが縁で盛さんと知り合いました。

 平成15年/2003年5月から10数年来、盛さんは『北方人』(北方文学研究会・発行)という同人誌を刊行しています。ワタクシ自身、以前から同人誌という形態にあこがれに近い感情をもっていたので、何か書いたら載せてもらえますか、とお願いしてみたところ、何でも自由に書いてちょうだいよ、とすんなり快諾のお返事です。

 だれも読まないだろうと自覚しながら、無償の原稿を書く……。毎週ブログを書いているので、こっちも慣れています。取り上げたい直木賞の受賞者・候補者は山ほどいますから、これまで同誌の誌面を借りて米村晃多郎さん(第31号・平成31年/2019年3月)、桜木紫乃さん(第32号・令和1年/2019年8月)、堤千代さん(第33号・令和1年/2019年12月)のことなどを、あれこれ書いてきました。

 つい先日、令和2年/2020年5月に完成したばかりの『北方人』最新号(第34号)が、ワタクシの手元にも届いたところです。今回は第75回(昭和51年/1976年・上半期)直木賞の候補に挙がった藤本泉さんに焦点を当てて、彼女の前半生の文学生活を中心にまとめてあります。

 そもそも藤本さんについて知りたいのに、公刊された資料やネットを見ているだけでは、わからないことが多すぎるぞ! ……と発狂しそうになったのが昨年のことです。これはもはや動くしかないな、と勇気を出してご親族に連絡をとり、藤本さんの弟ご夫妻と長男ご夫妻それぞれにお話をうかがいました。生い立ちから、兄の戦死、結婚、実家との関係、同人誌『文芸四季』『現象』への参加などなど、興味のある方は『北方人』を入手して読んでもらえればいいんですが、ちなみに実家は藤本、名前は芙美、結婚して姓が変わったので本名「新藤芙美」。平成12年/2000年に『日本ミステリー事典』(新潮社/新潮選書)で杉江松恋さんが記載しているとおりです。また、平成1年/1989年66歳のときから現在まで死亡が確認されたことはなく、ン歳で亡くなったとする情報は基本的には不正確なもので、フランスで消息を絶ってから約30年、たしかに現在も行方不明中だそうです。

 と、人生最終盤のモヤモヤする展開をはじめとして、藤本さんといえば海外のエピソードがふんだんに出てきます。海の向こうとの関わりかたは、直木賞候補になった数々の作家を見渡しても、かなり特異と言っていいでしょう。ドイツに数年住んで、日本に戻ってくる途中のフランスでぱったり足取りが途切れたまま生死も確認されていない人なんて、そりゃ直木賞の候補者では藤本さんしかいません。特異です。

 行方不明の一件はワタクシもよくわかりませんし、ご長男でもいまなお何があったのかわからないご様子だったので、ここで新たに書けることはありませんが、藤本さんと海外のことは『北方人』の原稿では深く掘り下げられませんでした。とりあえずブログのほうに書いておきます。

 藤本さんの海を越えた人生を考えるとき、まず外せないのが父親の藤本一雄さんのことです。

 明治26年/1893年に静岡県で生まれた一雄さんは、東京で教師になって結婚したあと、猛烈に湧き上がる学究意欲を抑えることができず、東京帝大で学び、あげくのはては家族を置いて単身、海を渡ってアメリカの南カリフォルニア大学で学びます。いわゆる勉学の虫です。後年、東海大学の教授となって、『性格教育と宗教 徳育の根本問題』(昭和33年/1958年・明治図書出版刊)、『道徳の根本問題 性格教育の理念と実際』(昭和35年/1960年・明治図書出版刊)、『一般教育基盤としての宗教 道徳の根本問題 学理篇』(昭和41年/1966年・風間書房刊)などの著作も出しましたが、その原稿の整理や清書は、娘の芙美さんが頼まれることもあった、といいます。「お父さんの書くものは、面白くないからねえ」とブツブツ愚痴りながら手伝っていたそうです。

 一雄さんはお寺の生まれですが、一生涯を教育者として貫徹した人で、海外に行って学んだのも教育学でした。影響を受けたのはイギリスの教育学者ニイルの考えかたで、子供の自由を最大限に認める教育を実践する、というもの。日本でその思想を受け継ぎ「叱らない教育」を提唱した霜田静志さんとも交流を深め、またその考えをじっさいに行う場として故郷である静岡の現・菊川市で私設の保育園・幼稚園をつくります。昭和28年/1953年のことです。創設からしばらくは、芙美さんもしばしば実家に帰り、地域の子供たちに囲まれながら世話をしたりお話を創作して聞かせたり、教育現場に立つひとりとして過ごします。

 子供を育てて、その成長を見守る大人の行為には、国境もクソもない。ということなのかどうなのか、教育学もその現場もよく知らないのでうかつなことは言えませんけど、ともかく一雄さんが教育に対する自身の考えを高めるときに海外にその手本を求めたことは間違いありません。ニイルがイングランドに設立したサマーヒル・スクールには一度、二度と視察に訪れた記録もあります。芙美さんのほうは幼少時代に父の実家があった静岡で暮らし、その後東京に出て日本大学を卒業、まもなくの昭和22年/1947年には埼玉県所沢市に住む中学校教諭の新藤さんと結婚して以来、家庭に入ったかたちになりますが、まだまだ欧米に渡ることが特別だった時代に、彼女がとくにヨーロッパ方面におのずと明るくなったのは、父の一雄さんや霜田静志さんという身近な教育実践者をたどった先に、ニイルやサマーヒル・スクールなどのヨーロッパがあったからではないか、と推測します。

 商業誌のデビュー作こそ「媼繁昌記」という、日本の平安時代ごろを題材にした王朝時代モノでしたけど、デビューしてしばらくは『小説現代』『別冊小説現代』あるいは『小説CLUB』などにヨーロッパの各都市を舞台にした現代小説をぞくぞくと発表。あるいは、もはや伝説と化している「毎年夏になると自宅を離れて、地方に行っては家を借り、数ヵ月間そこで暮らす」という、藤本泉って何者なんだエピソードを飾る例の行動をとるときにも、北海道、東北、長野といった国内だけでなく、さらっとパリやケルンを行き先に選んでしまっています。

 『ガラスの迷路』(昭和51年/1976年8月)光文社カッパノベルス版の裏表紙には、「プラハ取材中の著者」とキャプションの付いたモノクロ写真が載っています。その横に書かれた説明書きは、こうです。

「「無器用な作家」を自称する藤本泉の取材方法は、一風変わっている。彼女は、対象とする土地に、何カ月でも居を移して住みついてしまうのだ。本書を書くにあたっても、前後二回にわたってプラハに滞在した。そうした創作態度が、作品に確かな表現力を与えているのだろう。」(『ガラスの迷路』裏表紙より)

 直木賞の候補になったり江戸川乱歩賞をとったりするまえから、とにかく身軽に海を越える人だった、ということです。

          ○

 藤本さんの身軽な感じは、作家となってからどんどん強くなっていきます。

 昭和41年/1966年小説現代新人賞を受賞して商業誌デビューしたのが43歳。以来、昭和43年/1968年『東京ゲリラ戦線』での単行本デビュー45歳。昭和51年/1976年『呪いの聖域』で第75回直木賞候補53歳。昭和52年/1977年「時をきざむ潮」で第23回乱歩賞受賞54歳。昭和61年/1986年西ドイツ・ケルン市に執筆・取材・観光をかねて居住63歳。アクティブおばさんからアクティブばあちゃんに変貌しながら作家活動をつづけました。

 しかし、本来自分の書きたいことと編集者から求められることのギャップに悩んでいたとも言い、そこまで多くの作品を発表できたわけではありません。だれからも命じられたり縛られたりしない環境に、自然とシフトしていったと言ってもいいでしょう。そこで書くことや調べることをやめず、北海道江差町で出されている『江さし草』という冊子に3年にわたって「古典の謎を考える」という連載を完全無償で投稿したり、『「源氏物語」多数作者の証』(昭和63年/1988年)とか『「土佐日記」から「奥の細道」まで』(平成1年/1989年)という本を、自費出版のかたちで出したりします。藤本さんのそこら辺の動きが、同人誌というような営為にあこがれるワタクシにとっては、がぜん興味のそそられるところです。

 それはそれとして、海外との関係です。

 平成1年/1989年2月、2年半におよぶケルンでの生活にけりをつけて、ようやく日本に戻ろうと決めた藤本さんは、ブラジルにいる知人を訪ねてから帰国する、という内容のハガキをフランスから寄越したきり、いっさい音信不通となります。心配したご長男がフランス当局に問い合わせて現地でも調べてもらったらしいですが、出国した形跡はなく、しかし足取りはつかめず、まったく生死もわからないままだそうです。

 さらに教えていただいたところ、ご長男のもとに未発表の原稿が残されている、ということで原稿用紙に手書きで書かれた表紙部分を見せてもらいました。

「どちらでも、よいと思うタイトルをえらんで下さい

タイトル(1)

光源氏とフランスの恋人たち

藤本 泉

タイトル(2)

『源氏物語』とフランス文学の間

――そのふしぎな関係――」

 だれか翻訳家に翻訳をお願いしていたみたいですが、けっきょく完成を見ることなく、日本でも刊行はされていません。

 藤本さんが日本の古典文学に異様な関心を寄せていたことは、その著作からひしひしと感じていましたけど、いやはや、日本を越えて『源氏』のフランス文学との関係性に迫ろうとしていたとは!

 直木賞と関係ないハナシになってしまいましたね。すみません。「直木賞、海を越える」のブログテーマに全然合っていないですけど、しかし藤本さんが現在確認できる最後のところで、日本の外に目を向けた作家活動に飛ぼうとしていたことが知れて、それでワタクシとしては満足です。

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