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2020年5月 3日 (日)

伊藤桂一、中国での戦場体験をプラスに変えて直木賞を受賞する。

 いまはシガない社畜として安月給に耐えながら暮らしているけど、いつかはプロの作家になることを夢見てコツコツと小説執筆に励んでいる。そんな冴えない独身男性は、現在の日本にもおそらくたくさんいると思います。

 冴えないかどうかは異論があるでしょうが、ここは一般的な通念から「冴えない」とさせてもらいまして、文学に熱中するあいだに年を食い、頭髪もだんだん薄くなるなかで、勤め先は激務なうえに薄給中の薄給、ストレートに貧乏な生活を送っていた独身の伊藤桂一さんが、直木賞受賞の報を受けたのは、昭和37年/1962年1月に行われた第46回(昭和36年/1961年・下半期)選考会の直後でした。44歳のときです。

 ちなみに伊藤さんを「40代独身」だとしてイジるやり口は、ワタクシの独創ではありません。当時の記事でも、けっこうこの件がイジられていて、そんなのばかり読んでいたものですから、ついブログの書き出しもこんな感じになってしまいました。すみません。

 昭和36年/1961年で44歳ということは、生まれは大正6年/1917年。めでたく20歳の誕生日を迎えたのが、昭和12年/1937年7月に盧溝橋で事件を起こして日本が大掛かりな喧嘩をおっぱじめたその年です。徴兵検査を受けたところが甲種合格で問題なくパスし、昭和13年/1938年1月に習志野騎兵第十五聯隊に入営することになって、1年間を内地で過ごしたあと、いよいよ伊藤さん、海を渡ります。昭和14年/1939年に朝鮮の竜山に赴任。まもなく新たに編成された騎兵第四十一聯隊に配属されて、中国山西省に赴きました。

 以来20代の貴重な青年時代を、思いっきり戦争体験に費やし、あるいは費やされます。いわゆる戦中世代というヤツですが、伊藤さんにとっての海外とは、ほとんど中国大陸での兵役生活と重なる、と言っていいでしょう。

 その体験がなかったら伊藤さんが直木賞をとることもなかった……とはさすがに断言できません。しかし、はじめて芥川賞の候補となって丹羽文雄さんにコイツはなかなか面白いぞと見初められた「雲と植物の世界」とか、その後直木賞に選ばれる「螢の河」とか、受賞に至るまでの数々の作品が生まれていなかったのは、たしかです。

 「螢の河」は、かつて揚子江の支流に駐留した一小隊の兵士が語り手を務めます。すでに野戦の経験のあった「ぼく」が、当時のことを回想するというかたちです。もうひとりの重要な登場人物は、新しく小隊長となった安野という見習士官で、たまたま同じ中隊に居合わせることになった「ぼく」とは、世田谷中学時代の同級生。安野はとにかく部下たちの安全を第一に考える、というあまり見かけないタイプの下士官だったので、隊員たちからも親しみをもって慕われます。

 ある晩、小隊は六、七人ずつ舟に乗って夜の討伐に出かけますが、舟の進む清水河のほとりにはホタルの群れが驚くほどに密集していて、戦場というより幻想的ともいえる光景です。その船上で「ぼく」はウトウトと仮眠してしまい、うっかりと失敗をやらかします。もし中隊長にバレてしまえば、罰として銃殺されることもなくはない、現地の兵士にとっては重大な失敗でしたが、そこで安野が見せた姿と、小隊員たちの行動を、「ぼく」はいまだに忘れることができません。

 ……ということで「ぼく」というのは、ほぼ伊藤さん自身のことでしょう。昭和18年/1943年初頭に再召集を受けた、いわば野戦経験のある古兵だった伊藤さんは、佐倉の歩兵第百五十七聯隊の要員としてふたたび中国大陸に渡り、揚子江岸の南京上流に駐屯。「中支」と呼ばれる一帯での軍務に明け暮れるうちに、上海の近くで終戦を迎えたと言います。

 さかのぼって伊藤さんは、世田谷中学に通っていたころから文学に取りつかれ、校友会雑誌に詩や作文を積極的に投稿していたそうですが、早くから文学とともに生きていく覚悟を固め、小説や詩作に熱中します。それがこの海外体験といいますか戦争体験を境に、日本に帰ってきてから猛烈に小説を書きはじめて、各懸賞に応募、好成績を残すうちに徐々に注目の新進作家になっていった、という展開です。

 伊藤さんいわく、三十年計画という長期的な考えで文学に取り組んでいたらしいので、30歳近くになってじわじわ注目されだしたのは、ひょっとすると計画どおりだったのかもしれません。だけど、日本軍部の悪辣なしわざに対する批判も反省もない、こんな感傷的な「戦記」を文学にして何の意味があるんだ、とかさんざん批判されながら、あえて意識的にナマナマしさを排除した戦場でのあれこれを題材にする姿勢は、やはり愛すべきガンコさだと思います。いや、尊敬すべきガンコさ、と言い換えておきましょう。

          ○

 ところで、伊藤さんが直木賞を受賞するまでの道のりは、実体験を小説化したことがプラスに働いたものです。

 果たして自分の体験を書いた小説は直木賞では有利なんでしょうか。いやいや、そんな単純なハナシでもない。と、芥川賞ならともかく、直木賞における私小説論争がこれまでまともに議論されたことがあるのか、よくわかりませんけど、戦後のことだけ見れば、伊藤さんが受賞するまでの第21回~第46回で、明らかに作者の実体験を一人称で語るという形式をもった受賞作は、かろうじて戸川幸夫さんの「高安犬物語」が挙げられるぐらいで、他はうまいこと三人称にして客観性を持たせているものが多く、もしくは題材そのものが取材や資料、想像からとられています。要するに、戦場で体験したことをそのまま書いても、なかなか直木賞では評価は得られない、ということです。

 じっさいのところ、「螢の河」は捨て置けない作品だと思いますが、しかしこんな小品で直木賞をあげてもいいものか、と渋る選考委員の気持ちもよくわかります。けっきょくのところ、お互いに懸賞に佳作入選して知り合った斎藤芳樹さんから始まった縁のつながりで、先輩作家や、同じくらいの無名作家、文芸編集者などなどと交友を広げ、その間も絶えず「伊藤カラー」の鮮明な小説を書きつづけた、きまじめで人あたりのいい人柄とネバリが、おのずと多数の選考委員に好感をもたれた、というのが受賞につながったのだと思います。

 ネバリといえば、これもまた伊藤さんに言わせれば、軍隊のなかの一員として中国に行ったことが、ネバリを生むうえで大きくプラスになったらしいです。受賞直後の『オール讀物』恒例、矢野八朗さんによるインタビューに答えています。

「氏が軍服を着ていた期間は、合計すると七年におよぶ。

 そりゃ、おびただしい損害でしたよ。しかし、ぼくの場合は、差引き勘定して、利益になっているとおもうんです。文学の上で、戦争の体験を生かしたという意味で、ね。

(引用者中略)

 (引用者注:中国では)詩的な感性も、はぐくまれました。それと同時に、ヤキが入ったとおもいます。個人の人間性は、頭から黙殺されますね。そこで、いったんまいる。それから、足が地について、なにかが芽生えてきます。つまり、本然的に回復しようとする力ですね。生きることへのネバリとか責任感。これを、ぼくはヤキというのです。

 芸術には、これが大切なのじゃありませんか?」(『オール讀物』昭和37年/1962年4月号 矢野八朗「伊藤桂一との一時間 3 中国戦線への郷愁」より)

 いったん個人主義や自由な生活といったものを奪われ、ギュッと抑えつけられた経験、それが自分にとっては重要だったと言っています。ヤキが入った、という表現を使っていますが、芸術にはこれが大切なのじゃありませんか、とも言っています。

 そう尋ねられても、もちろんワタクシにはよくわかりません。ただ、現在を生きる冴えない独身おじさんや独身おばさんのなかには、そうだ、それで足が地につくんだ、と胸にひびく人がいるかもしれず、将来、第二の伊藤桂一が生まれるかもしれません。「第二の伊藤桂一」という称号を授けられて喜ぶ人は、あまりいる気はしませんけど、でもそういう作家が出てくる日を楽しみに待ちたいと思います。

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