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2020年5月の5件の記事

2020年5月31日 (日)

五木寛之、旅行先のモスクワで小説の素材に出会い、そこから一気にスターダム。

 先週取り上げた藤本泉さんは、昭和41年/1966年に商業誌にデビューしました。あんたの小説は純文学じゃないね、大衆文学だね、とか何とか同人誌の仲間から偉そうに批評され、その声を謙虚に受け止めて『オール讀物』そして『小説現代』の新人賞に応募、受賞したことがきっかけです。第6回小説現代新人賞は、その藤本さんを世に出せただけでも十分な成果があったのだ、と言えるんですけど、この回にはもうひとり同時受賞者がいます。五木寛之さんです。

 いまから50年以上もまえの昭和41年/1966年、40歳を超えたおばさん作家より、30代なかばの若々しさあふれた作家のほうに露骨にスポットライトが当たってしまった……というのは少し言いすぎかもしれません。しかし、「直木賞の歴史を変えた!」と言われる受賞者はこれまで何人もいますが、そのなかでも直木賞に与えた影響度、世間に対する衝撃度などでトップクラスに君臨するのが、五木さんです。作家デビューから1年もたたないうちに第56回(昭和41年/1966年・下半期)直木賞を受賞、テレビから新聞・雑誌からこぞってバンバン取り上げられました。いまの直木賞受賞報道なんてチンケなもので、五木さんのときの破壊力はもはや空前絶後。と聞いています。

 それで「直木賞、海を越える」のブログテーマもそろそろ1年がたち、今回で50週目です。今日でこのテーマは最後になるんですが、五木寛之という存在は日本の中間小説の歴史を変えただけでなく、直木賞と海外の関係という点でも偉大にそびえ立っています。とりあえず最終週にふさわしい直木賞受賞者でしょう。

 五木さんにはデビュー直後から(いや、新人賞をとる以前から)現在にいたるまで、膨大な雑文、エッセイ、インタビューがあり、作家の業績をとらえようとする関連書もたくさん出ています。切り口は無数にあるのは間違いありません。なかでも直木賞との関係性で見たとき、どうしても気になるのが、五木さんの国際性です。海外との縁です。

 日本で生まれながら幼少期に海の外の、朝鮮に連れていかれ、昭和22年/1947年14歳のときに引き揚げを経験している、という海外との縁は、とりあえず措いておきます。注目したいのは直木賞と関連した部分です。小説デビュー作も、半年後に直木賞をとった作品も、ともに強烈なほどに海の外のことを描いている。そのことが、何とも新しい作家が直木賞に登場したもんだ! という一般的な印象を、よりいっそう高めたのは明らかです。当時の五木さんが、日本を舞台にした和風な小説で登場していたら、それほど注目されていなかったかもしれません。

 どうして小説の処女作がモスクワを舞台にした海外モノだったのか。というと、直前の昭和40年/1965年にシベリアからモスクワに旅行、数か月を海外で暮らしたからだそうです。どうして行き先がソビエトだったのか。もともと大学進学で露文科を選ぶほどにロシアの文学に興味を覚えていたからとか、いきなり欧米・西洋に行くより日本と親近性がありそうなロシアに足を向けたのだとか、いろいろ理由はあるんでしょう、しばらくゆっくり過ごせる場所ならどこでもよかったのかもしれません。

 ちょうど五木さんをとりまく仕事の状況も変化の時にありました。昭和39年/1964年4月、五木さんの所属していた「三芸プロ」社長の滝本匡孝さんが、社員の雇った殺し屋に殺害されるという事件が起きて、会社は解散。その前進というか母体ともいえる「冗談工房」も幕を引き、メンバーはみな別々の道を歩みはじめます。20代から30代、芸能マスコミの片隅でしゃかりきに突っ走ってきた五木さんも、ふと自分の人生を考えることになって、一度これまでの仕事を清算して次のステップに進むための充電として旅行を企てた、ということらしいです。

 先のことは何も考えない。目的をもたず、ぶらりと海外に行く。……というこの行動がすでにオシャレというか、大衆感覚から半歩から一歩まえに出ています。しかも、からだと心を休めるために休暇に当てたふうを装いながら、赴いた先でこの見聞を小説にしてみよう、とひらめいてしまう。何だか頭の切れるビジネスマンみたいです。

「『さらば――』は、五木サンがマスコミ無宿の生活を精算してソ連を旅しているときに、すでに構想ができあがっていたもの(引用者中略)。「五木寛之」としての処女作は、『さらば――』と、五木サン自身、決めていたのだ。その証拠に、五木サンが友人に宛てた当時の手紙があって、そこには、

「帰国後は旅の体験を源に小説を書こうと思っています。題名は『さらば、モスクワ愚連隊』ということにでもしましょうか。」

と書かれてある。」(昭和52年/1977年5月・大和出版刊、四倉芙蓉・編著『五木寛之全カタログ』より)

 現代のモスクワに住む現地の人たちの姿を、そこでたまさか関わることになった日本人の目から描く。小説現代新人賞で編集者や選考委員たち、あるいは受賞作として『小説現代』に載った作品を読んだ読者たちが、思わずこれはスゴい!と身を乗り出した要因に、素材の清新さがあったのは間違いありません。五木さんも旅立つまえには意図していなかったんでしょうが、旅をしている最中に題名まで決めて、これは小説になると頭が働く瞬発力……べつの表現を使うと「才能」ということになるんでしょう、ひとりの人間の、ひとつの海外旅行が直木賞という文学賞を、いや中間小説の歴史を大きく動かすことになります。

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2020年5月24日 (日)

藤本泉、西ドイツのケルンで生活を送り、最後に確認された場所がフランス。

 盛厚三さんという文学研究者がいます。北海道釧路にまつわる文学者や作品のことに異常にくわしく、また埼玉県春日部あたりの文学についてもよくご存じの方です。

 春日部というと、ワタクシの敬愛する先輩研究者、荒川佳洋さんが住んでいます。直木賞の選考委員をしていた三上於菟吉さんが同地の出身だった関係で、於菟吉関係の催しがあると荒川さんに誘われて足を運んだりするうちに、その集まりが縁で盛さんと知り合いました。

 平成15年/2003年5月から10数年来、盛さんは『北方人』(北方文学研究会・発行)という同人誌を刊行しています。ワタクシ自身、以前から同人誌という形態にあこがれに近い感情をもっていたので、何か書いたら載せてもらえますか、とお願いしてみたところ、何でも自由に書いてちょうだいよ、とすんなり快諾のお返事です。

 だれも読まないだろうと自覚しながら、無償の原稿を書く……。毎週ブログを書いているので、こっちも慣れています。取り上げたい直木賞の受賞者・候補者は山ほどいますから、これまで同誌の誌面を借りて米村晃多郎さん(第31号・平成31年/2019年3月)、桜木紫乃さん(第32号・令和1年/2019年8月)、堤千代さん(第33号・令和1年/2019年12月)のことなどを、あれこれ書いてきました。

 つい先日、令和2年/2020年5月に完成したばかりの『北方人』最新号(第34号)が、ワタクシの手元にも届いたところです。今回は第75回(昭和51年/1976年・上半期)直木賞の候補に挙がった藤本泉さんに焦点を当てて、彼女の前半生の文学生活を中心にまとめてあります。

 そもそも藤本さんについて知りたいのに、公刊された資料やネットを見ているだけでは、わからないことが多すぎるぞ! ……と発狂しそうになったのが昨年のことです。これはもはや動くしかないな、と勇気を出してご親族に連絡をとり、藤本さんの弟ご夫妻と長男ご夫妻それぞれにお話をうかがいました。生い立ちから、兄の戦死、結婚、実家との関係、同人誌『文芸四季』『現象』への参加などなど、興味のある方は『北方人』を入手して読んでもらえればいいんですが、ちなみに実家は藤本、名前は芙美、結婚して姓が変わったので本名「新藤芙美」。平成12年/2000年に『日本ミステリー事典』(新潮社/新潮選書)で杉江松恋さんが記載しているとおりです。また、平成1年/1989年66歳のときから現在まで死亡が確認されたことはなく、ン歳で亡くなったとする情報は基本的には不正確なもので、フランスで消息を絶ってから約30年、たしかに現在も行方不明中だそうです。

 と、人生最終盤のモヤモヤする展開をはじめとして、藤本さんといえば海外のエピソードがふんだんに出てきます。海の向こうとの関わりかたは、直木賞候補になった数々の作家を見渡しても、かなり特異と言っていいでしょう。ドイツに数年住んで、日本に戻ってくる途中のフランスでぱったり足取りが途切れたまま生死も確認されていない人なんて、そりゃ直木賞の候補者では藤本さんしかいません。特異です。

 行方不明の一件はワタクシもよくわかりませんし、ご長男でもいまなお何があったのかわからないご様子だったので、ここで新たに書けることはありませんが、藤本さんと海外のことは『北方人』の原稿では深く掘り下げられませんでした。とりあえずブログのほうに書いておきます。

 藤本さんの海を越えた人生を考えるとき、まず外せないのが父親の藤本一雄さんのことです。

 明治26年/1893年に静岡県で生まれた一雄さんは、東京で教師になって結婚したあと、猛烈に湧き上がる学究意欲を抑えることができず、東京帝大で学び、あげくのはては家族を置いて単身、海を渡ってアメリカの南カリフォルニア大学で学びます。いわゆる勉学の虫です。後年、東海大学の教授となって、『性格教育と宗教 徳育の根本問題』(昭和33年/1958年・明治図書出版刊)、『道徳の根本問題 性格教育の理念と実際』(昭和35年/1960年・明治図書出版刊)、『一般教育基盤としての宗教 道徳の根本問題 学理篇』(昭和41年/1966年・風間書房刊)などの著作も出しましたが、その原稿の整理や清書は、娘の芙美さんが頼まれることもあった、といいます。「お父さんの書くものは、面白くないからねえ」とブツブツ愚痴りながら手伝っていたそうです。

 一雄さんはお寺の生まれですが、一生涯を教育者として貫徹した人で、海外に行って学んだのも教育学でした。影響を受けたのはイギリスの教育学者ニイルの考えかたで、子供の自由を最大限に認める教育を実践する、というもの。日本でその思想を受け継ぎ「叱らない教育」を提唱した霜田静志さんとも交流を深め、またその考えをじっさいに行う場として故郷である静岡の現・菊川市で私設の保育園・幼稚園をつくります。昭和28年/1953年のことです。創設からしばらくは、芙美さんもしばしば実家に帰り、地域の子供たちに囲まれながら世話をしたりお話を創作して聞かせたり、教育現場に立つひとりとして過ごします。

 子供を育てて、その成長を見守る大人の行為には、国境もクソもない。ということなのかどうなのか、教育学もその現場もよく知らないのでうかつなことは言えませんけど、ともかく一雄さんが教育に対する自身の考えを高めるときに海外にその手本を求めたことは間違いありません。ニイルがイングランドに設立したサマーヒル・スクールには一度、二度と視察に訪れた記録もあります。芙美さんのほうは幼少時代に父の実家があった静岡で暮らし、その後東京に出て日本大学を卒業、まもなくの昭和22年/1947年には埼玉県所沢市に住む中学校教諭の新藤さんと結婚して以来、家庭に入ったかたちになりますが、まだまだ欧米に渡ることが特別だった時代に、彼女がとくにヨーロッパ方面におのずと明るくなったのは、父の一雄さんや霜田静志さんという身近な教育実践者をたどった先に、ニイルやサマーヒル・スクールなどのヨーロッパがあったからではないか、と推測します。

 商業誌のデビュー作こそ「媼繁昌記」という、日本の平安時代ごろを題材にした王朝時代モノでしたけど、デビューしてしばらくは『小説現代』『別冊小説現代』あるいは『小説CLUB』などにヨーロッパの各都市を舞台にした現代小説をぞくぞくと発表。あるいは、もはや伝説と化している「毎年夏になると自宅を離れて、地方に行っては家を借り、数ヵ月間そこで暮らす」という、藤本泉って何者なんだエピソードを飾る例の行動をとるときにも、北海道、東北、長野といった国内だけでなく、さらっとパリやケルンを行き先に選んでしまっています。

 『ガラスの迷路』(昭和51年/1976年8月)光文社カッパノベルス版の裏表紙には、「プラハ取材中の著者」とキャプションの付いたモノクロ写真が載っています。その横に書かれた説明書きは、こうです。

「「無器用な作家」を自称する藤本泉の取材方法は、一風変わっている。彼女は、対象とする土地に、何カ月でも居を移して住みついてしまうのだ。本書を書くにあたっても、前後二回にわたってプラハに滞在した。そうした創作態度が、作品に確かな表現力を与えているのだろう。」(『ガラスの迷路』裏表紙より)

 直木賞の候補になったり江戸川乱歩賞をとったりするまえから、とにかく身軽に海を越える人だった、ということです。

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2020年5月17日 (日)

木村荘十、中国を舞台にした「日本人が出てこない」小説で初めて直木賞を受賞する。

 ご多分に洩れず、うちも最近、部屋の片づけに明け暮れています。懐かしい本や資料が何年かぶりで出てくる。ああワタクシもあれから年をくったんだなあ、と回想や感慨にふける。あっという間に夜になる。という展開もまた、ご多分に洩れません。だいたい凡庸な暮らしを送っています。

 そんなこんなで部屋を整理しているとき、積み上げられた本の下から久しぶりに『消えた受賞作 直木賞編』(平成16年/2004年7月・メディアファクトリー刊)が出てきて、思わずギョっとしたものですから、今日はここに収録されている作家のハナシで行きたいと思います。加えて前週、深緑野分さんにかこつけて注目した「日本人が出てこない」受賞作・候補作のつづきでもあります。第13回(昭和16年/1941年・上半期)「雲南守備兵」で受賞した木村荘十さんです。

 同書に「木村荘十 人と作品“放蕩児”」という解説が載っています。自分が書いた文章ですけど、もう16年もまえのものなので、はっきり言って他人です。いまよりまったく直木賞のことを知らず、関連の資料をどこで探したらいいのかもわからず、作家と小説の解説なんか書いたことのないド素人が、よくまあ頑張って背伸びして、まとめたものだと思います。逆に「おれは直木賞に関する知識が豊富だ」という自負が薄い分、いまより読みやすい文章になっているかもしれません。

 この直木賞受賞作アンソロジーをつくるに当たって、当時の担当編集者、安倍(あんばい)さんから最初に提案がありました。収録作家のご遺族に取材しましょう、ご遺族の居場所を探してアポをとるのはこちらでやります、それをもとに川口さんが解説を書いてください、と。

 収録作家は計7人いましたが、安倍さんが全部連絡先を調べてくれて、じっさいに直接ご遺族のところにうかがうことができたのが5人分です(海音寺潮五郎、森荘已池、岡田誠三、小山いと子、藤井重夫)。富田常雄さんについては、くわしいハナシができる人ということで、ご遺族の了承のうえ、富田さんの秘書をしていたという元編集者の野瀬光二さんに取材しました。いまとなって思い返せば、もっといろいろなことが聞けたに違いない、と悔やまれますが、当時は野瀬さんの名前どころか、牧野吉晴と言われても「だれですか、それ」とピンと来てないボンクラなインタビュアーだった我が身を、ただもう恥じるばかりです。「川口さん、ボソボソ言ってないで、もっとちゃんと取材してください!」と、安倍さんにはずいぶん叱られました。

 それで、唯一直接の取材ができなかったのが木村荘十さんです。親族として姪にあたる光枝さんが対応してくださったそうですが、自分には伯父や直木賞のことを語れる思い出が何もないので、という理由で、戦後に小唄を習いはじめてその師匠だった八重子さんと結婚してからの木村さんのことを、お手紙で教えていただくにとどまりました。それと、木村さんの自伝的小説『嗤う自画像』(昭和34年/1959年12月・雪華社刊)を一冊お借りしたので、そこに書かれてあることを中心に必死になって解説をまとめた日の苦しみが、おぼろげながらよみがえってきます。

 以来16年。解説を読み直してみても、いまのワタクシにこれ以上のことは書けません。まったく16年何をしてきたのか、自分の不勉強ぶりが悲しくなりますが、このブログでは「直木賞、海を越える」のテーマに合わせて、直木賞史上はじめて「日本人が出てこない」海外物の小説で受賞したという視点から考えてみます。

 「雲南守備兵」はこんなハナシです。

 昭和15年/1940年の中国雲南府。貧民窟として知られる黄泥巷で生まれ育った孫永才伍長が、機密の手紙を前戦から軍務司長に届けるという任務で久しぶりにこの地に足を踏み入れます。しかし、孫の知っている街とは大きく様相が変わっていて、貧民窟にいた人々も多くが行方不明。うわさによれば多くの下層民たちが、官署の命令によって錫の鉱山に鉱夫として連れていかれたのだと言います。

 その後、孫の上官、沈大佐が、鉱山街である箇旧(コチュウ)の守備隊長に任じられたことから、孫もその鉱区に赴任します。そこで彼は鉱山の有様を目にすることになりますが、子供たちを過酷な労働につかせて、逃亡する者があれば容赦なく射殺する、という地獄絵図です。あまりのひどさにショックを受ける孫伍長。やがて知るところでは、洪開元という将軍が一帯の鉱区をなかば恐怖政治によって支配していて、イギリス人の技師長H・デューラン氏らとともに巨富を築き上げているとのこと。いわば暴利をむさぼる支配者、彼らに富と生活を搾取されつづける貧しい被支配者という構図です。

 自分がこれまで軍隊教育のなかで知らされてきた状況とは、まるで違う現実に、孫は怒りをおぼえます。街で出会った老人には、軽率に行動しても何も変わりやせんよ、と諭されますが、それでも我慢がならない孫はついに実力行使に打って出ることになるのです……。

 と、これは昭和16年/1941年の直木賞選考会でも、戦争小説、時局物ととらえられ、その観点から推薦する白井喬二さんのプッシュがあって受賞が決まりました。当時の日本でこの小説を読んだとしたら、どうなんでしょう。中国の政治、地方の統治にはオモテ沙汰になっていないだけで問題が多い。一般市民が鉱山で働かされて、その状態を改善する手だても打てない。だから日本が代わって支配して、中国の人たちの暮らしを守り、幸せにしてあげようではないか! ……と思わせる空気だったのでしょうか。

 木村荘十さんの作品を、全部読んだわけではないですけど、やはりこの作家は、カネ目になりそうな時流に乗った題材のものを、請われるままに発表していくタイプの書き手だったと思われます。戦後(いや、当時も)さんざん馬鹿にされ、影では批判されたはずの、ホイホイと軍国主義について回る、作家的良心など見られない大衆作家のひとりとしてです。

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2020年5月10日 (日)

深緑野分、「日本人が出てこない」小説に対する直木賞の議論に新地平を切り開く。

 「直木賞、海を越える」のブログも、例年どおり昔のエピソードを中心に進めてきました。でも一週ぐらいは、ほぼリアルタイムな最近の事例を取り上げたい。そう思いながら一年過ごしてきたんですけど、このところ家でじっとしていることが影響して、昔の話題を書こうにもネタが枯渇ぎみです。なので今週は、いまも現役バリバリ絶賛活躍中の若手(?)候補者と直木賞のハナシで乗り切ろうと思います。

 深緑野分さんは、日本人が出てこない海外を舞台にした小説で、第154回(平成27年/2015年・下半期)と第160回(平成30年/2018年・下半期)、二度候補に挙がりました。生まれは昭和58年/1983年。その年齢からして直木賞のなかでは若い候補者の部類に入ります。

 日本人が海外のことを小説化して何の意味があるのか。……という議論は不毛としか言いようがありませんけど、直木賞という文学賞はこれまで80余年、まともな評論を交わす場としてはなかなか一般に認識されず、またそれで何ひとつ問題もなく、いっぱしの権威として頑張ってきました。なぜ日本人が(いや、作家が)小説を書くのか。この不毛にも近い議論を、直木賞のなかで再燃させた画期的な候補者が、深緑さんです。

 客観的に見て、まず言えることがあります。日本人が出てこようが出てこなかろうが、直木賞のとりやすさや、とりにくさには関係がない、ということです。

 過去1,000を超すすべての候補作のうち、ワタクシ自身読めていないのも数作ありますが、おおむね把握できている内容で数えてみますと、以下のような数値が割り出せます。日本人が出てこない海外物(たとえば星新一さんのショートショートとか、宮内悠介さんの作品集だとか、微妙なものもこちらに入れます)を【無】、その他日本人が出てくる、ないし日本が舞台という作品は【有】と記します。

【無】【有】
総数36作996作
受賞7作(19.4%)192作(19.3%)
落選29作(80.6%)804作(80.7%)

 要するにほとんど違いがありません。

 いや、そもそも世のなかには「日本人の出てこない傑作」があふれているのに、そこから候補に選ばれる数が少ないんだ、だから候補に挙がった作品だけを見て「直木賞をとりやすい・とりにくい」を語るのはおかしいのではないか、という声はあるかと思います。ただ、そこに踏み込むと文藝春秋による予選の問題になってきて、情報は完全非公開、何が何の理由で選ばれ、どんな事情で落とされたのかわかりません。日本人が出てくる出てこないとは、別の要素がからみ合いすぎていて手に負えないので、ここでは「最終候補作に残ったなかで」という限定のハナシにとどめておきます。

 少なくとも最終選考会で、名前も顔もだいたいわかる有名作家たちが謙虚に激論したり、偉そうにふんぞり返って当落を決めたりしている、一般に直木賞の選考といって想像される例のイベントでは、日本人登場人物の有無は当落に関係ない、ということがわかりました。なので「いまどき日本人が出てこないという理由で深緑作品を落としている直木賞、クソ」とか批判している人がいたら、自分のイメージだけで物を語る浅はかな人間もいるんだなあ、とやさしく見つめながら、近寄らないのが無難です。

 しかしデータだけで終わってもつまりません。直木賞はデータを見る面白さと同じくらい、ひとつひとつ、事情も背景も違う候補作と当落の関係を考えていく面白さがあります。

 深緑さんの最初の候補作『戦場のコックたち』は、選考委員たちの心に火をつけたらしく、第154回の選考会では多くの時間をかけて議論されたらしいです。1980年代に生まれた日本人が、第二次大戦下のヨーロッパを舞台に、ノルマンディーへの降下からオランダ、ベルギー、ドイツと進軍するアメリカ軍コック兵を描く。べつに問題はありません。しかし林真理子さんが選評で明かすには、彼女自身は「どうしてアメリカ軍の兵士の物語を書かなければならないのか」という疑問が拭えなかったと言います。そういう感覚の人が一部にいることは社会の多様性を示しているだけのことで、これもまた問題ないでしょう。

 日本人が、日本人の出てこない海外の小説を書くことの意味。そこから作家が小説を書くとは何なのか、直木賞とは何なのかを突き詰める議論にもなって、思いのほか時間がかかった、ということです。そのなかで深緑さんの作品が「日本人が出てこないこと」が理由で落ちた、と思える形跡はまず見当たりません。

 票を入れなかったと見られる委員の意見からうかがえる、『戦場のコックたち』最大の落選理由は何か。よく調べたことに感心・感動するがはっきり言ってミステリーとしていまいち面白くない。……どうやら、そういうことのようです。

 つづいて3年後、第160回で『ベルリンは晴れているか』が候補に挙がります。第二次大戦後、連合国軍の統治下に置かれたドイツで、不審な死を遂げたひとりのドイツ人音楽家。戦後の荒廃した国土を目のあたりにしながら、その死の捜査に駆り出される少女の経験や冒険を通して、ナチスの台頭した時代の国内状況も描き出されるという、そうとう重い小説です。

 林さんの評価はみちがえるように大逆転、まえは他国の人を書いている違和感が残ったが、今度の小説はそれがまったくなかったと褒めたたえ、◎印をつけて推しました。ワタクシ自身、各候補作に対する感想が林さんと合致することが多く、いつもショックを受けている口なんですけど、『戦場のコックたち』はともかく、たしかに『ベルリンは晴れているか』は受賞しても不思議じゃない作品だったと思います。ところが残念なことに、やはりこの回も受賞には至りませんでした。ミステリーとしての構成に不満を抱かれたのが、主な原因だと伝えられています。

 いずれまた訪れる(はずの)3度目の候補作では、謎の提示と終盤の解決とに見られる不自然さを、どう払拭してくれるのでしょう。深緑さんと直木賞の未来には、もう楽しみしかありません。

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2020年5月 3日 (日)

伊藤桂一、中国での戦場体験をプラスに変えて直木賞を受賞する。

 いまはシガない社畜として安月給に耐えながら暮らしているけど、いつかはプロの作家になることを夢見てコツコツと小説執筆に励んでいる。そんな冴えない独身男性は、現在の日本にもおそらくたくさんいると思います。

 冴えないかどうかは異論があるでしょうが、ここは一般的な通念から「冴えない」とさせてもらいまして、文学に熱中するあいだに年を食い、頭髪もだんだん薄くなるなかで、勤め先は激務なうえに薄給中の薄給、ストレートに貧乏な生活を送っていた独身の伊藤桂一さんが、直木賞受賞の報を受けたのは、昭和37年/1962年1月に行われた第46回(昭和36年/1961年・下半期)選考会の直後でした。44歳のときです。

 ちなみに伊藤さんを「40代独身」だとしてイジるやり口は、ワタクシの独創ではありません。当時の記事でも、けっこうこの件がイジられていて、そんなのばかり読んでいたものですから、ついブログの書き出しもこんな感じになってしまいました。すみません。

 昭和36年/1961年で44歳ということは、生まれは大正6年/1917年。めでたく20歳の誕生日を迎えたのが、昭和12年/1937年7月に盧溝橋で事件を起こして日本が大掛かりな喧嘩をおっぱじめたその年です。徴兵検査を受けたところが甲種合格で問題なくパスし、昭和13年/1938年1月に習志野騎兵第十五聯隊に入営することになって、1年間を内地で過ごしたあと、いよいよ伊藤さん、海を渡ります。昭和14年/1939年に朝鮮の竜山に赴任。まもなく新たに編成された騎兵第四十一聯隊に配属されて、中国山西省に赴きました。

 以来20代の貴重な青年時代を、思いっきり戦争体験に費やし、あるいは費やされます。いわゆる戦中世代というヤツですが、伊藤さんにとっての海外とは、ほとんど中国大陸での兵役生活と重なる、と言っていいでしょう。

 その体験がなかったら伊藤さんが直木賞をとることもなかった……とはさすがに断言できません。しかし、はじめて芥川賞の候補となって丹羽文雄さんにコイツはなかなか面白いぞと見初められた「雲と植物の世界」とか、その後直木賞に選ばれる「螢の河」とか、受賞に至るまでの数々の作品が生まれていなかったのは、たしかです。

 「螢の河」は、かつて揚子江の支流に駐留した一小隊の兵士が語り手を務めます。すでに野戦の経験のあった「ぼく」が、当時のことを回想するというかたちです。もうひとりの重要な登場人物は、新しく小隊長となった安野という見習士官で、たまたま同じ中隊に居合わせることになった「ぼく」とは、世田谷中学時代の同級生。安野はとにかく部下たちの安全を第一に考える、というあまり見かけないタイプの下士官だったので、隊員たちからも親しみをもって慕われます。

 ある晩、小隊は六、七人ずつ舟に乗って夜の討伐に出かけますが、舟の進む清水河のほとりにはホタルの群れが驚くほどに密集していて、戦場というより幻想的ともいえる光景です。その船上で「ぼく」はウトウトと仮眠してしまい、うっかりと失敗をやらかします。もし中隊長にバレてしまえば、罰として銃殺されることもなくはない、現地の兵士にとっては重大な失敗でしたが、そこで安野が見せた姿と、小隊員たちの行動を、「ぼく」はいまだに忘れることができません。

 ……ということで「ぼく」というのは、ほぼ伊藤さん自身のことでしょう。昭和18年/1943年初頭に再召集を受けた、いわば野戦経験のある古兵だった伊藤さんは、佐倉の歩兵第百五十七聯隊の要員としてふたたび中国大陸に渡り、揚子江岸の南京上流に駐屯。「中支」と呼ばれる一帯での軍務に明け暮れるうちに、上海の近くで終戦を迎えたと言います。

 さかのぼって伊藤さんは、世田谷中学に通っていたころから文学に取りつかれ、校友会雑誌に詩や作文を積極的に投稿していたそうですが、早くから文学とともに生きていく覚悟を固め、小説や詩作に熱中します。それがこの海外体験といいますか戦争体験を境に、日本に帰ってきてから猛烈に小説を書きはじめて、各懸賞に応募、好成績を残すうちに徐々に注目の新進作家になっていった、という展開です。

 伊藤さんいわく、三十年計画という長期的な考えで文学に取り組んでいたらしいので、30歳近くになってじわじわ注目されだしたのは、ひょっとすると計画どおりだったのかもしれません。だけど、日本軍部の悪辣なしわざに対する批判も反省もない、こんな感傷的な「戦記」を文学にして何の意味があるんだ、とかさんざん批判されながら、あえて意識的にナマナマしさを排除した戦場でのあれこれを題材にする姿勢は、やはり愛すべきガンコさだと思います。いや、尊敬すべきガンコさ、と言い換えておきましょう。

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