赤羽堯、20代前半に安宿を渡りあるいて海外を放浪、のちに国際スパイ小説を書きはじめる。
明治や大正に生まれた人たちが戦時中にどうしたこうした。と、最近うちのブログではそんなハナシばかりしています。戦争によって海の外に渡った日本人たちが、のちに直木賞に影響を与え、直木賞を変えることになったのは事実でしょう(いや、直木賞に限ったことではないでしょう)。だけど今週は気分を変えて、昭和10年代に東北の片田舎で生まれた国際派作家の話題でいきたいと思います。
赤羽堯さんです。作家としてデビューしたのが昭和54年/1979年8月、『スパイ特急』(光文社刊)を書下ろしで出したのが42歳になった頃と言いますから、けっこう遅めです。その後、刊行点数だけがやたらと多い読み物エンターテインメントの分野で活躍を始め、第96回(昭和61年/1986年・下半期)のたった一度の直木賞候補を除いては、文学賞という文学賞から無視されつづけます。しかし、そんなことはまるで意に介さず精力的に小説を発表している矢先に、突然という感じで肝硬変で亡くなったのが平成9年/1997年1月。享年59。わずか20年足らずの作家人生を終えました。
以来すでに20年以上が経ち、名前を聞くこともほとんどありません。赤羽堯。あまねくすべての作家の、すべての小説は、べつに読もうが読むまいが問題なく生きていける類いのものなので、赤羽さんの遺した作品も、いまさら読まなくてもだいじょうぶです。
だいじょうぶなんですけど、そういう作家のほうがよけいに気になって知りたくなります。……というのも毎週のように書いていることで芸がありませんが、とりあえず赤羽さんといえばその海外渡航歴は尋常じゃありません。そして、ベルリンの壁が崩壊する平成1年/1989年のほんの少し前に、海外事情マニアのような作家によるスパイ物が、こうして直木賞の候補に挙がったことは、敗戦後の日本人たちが外の世界に対していかに好奇心を爆発させたかがわかる、ささいだけど見逃せない現象のひとつ、と言っていいでしょう。
直木賞の歴代候補作リストを見てみますと、昭和50年/1975年ごろから、題材に現代の世界情勢、外国風土を求めたものが増えはじめたことがわかります。楢山芙二夫さんや醍醐麻沙夫さんなど、若くして海外に滞在した人たちが自分の実感のなかから外国物を発表しはじめ、それを『オール讀物』などの中間小説誌が積極的に誌面に反映させていた頃です。
その後に訪れるのが、仕事の関係で海外との交流が多い職種の人たちが、その体験から想像力を働かせて商業小説に結実させた候補作の登場です。航海士だった谷恒生さんやテレビマンの平田敬さんについては、すでにうちのブログでも取り上げました。新聞記者の三浦浩さん、航空会社に勤める深田祐介・中村正䡄のお二人、外務省に籍をおいた高柳芳夫さんなども、そこに含めていいかもしれません。まったく海外モノ百花繚乱の態です。
こういった直木賞における海外モノの大噴火が起きているあいだに、冒険スパイ小説でデビューしたのが赤羽さんだった。ということになるんですけど、昭和12年/1937年、ほぼ戦時下に足のかかった時代に青森県の弘前市で生まれた赤羽さんは、少年時代に終戦を迎えます。弘前高校に通ったあとは東京の明治大学文学部仏文学科に進学しますが、卒業後うずうずと外に飛び出したい気持ちが強くなったものか、そこから海外を転々とすること8年間。これが20代(ないしは文献によっては20代前半)ということですから、昭和30年代、西暦でいうと1950年代から60年代ごろです。
のちに東西冷戦の象徴になっていく〈ベルリンの壁〉が築かれたのが、ちょうどその時期、昭和36年/1961年のことです。赤羽さんが実際に現地でその状況を体験したのかどうか、それはわかりませんけど、20代に過ごした海外というのは具体的には、エジプト、地中海、そしてヨーロッパと、このあたりの地域をフラフラしていたらしく、薄ぎたない服で貧乏旅行をつづける冴えない(?)日本人青年が、刻々と変わるヨーロッパの情勢を肌で感じながら毎日を生きていた姿は、容易に想像できるところです。
当時の回想を引いておきます。
「(引用者注:酒を)よく飲んだのは、雪とは無縁のエジプト滞在中で、昼間、灼熱地獄を歩きまわった後は、毎晩ナイトクラブでエキゾチックなサウンドをシャワーのように浴びた。(引用者中略)そんな日が数ヵ月続いて、ふと気がつけば、無一文。浦島太郎ならここで浜へ帰るところだが、カメラやトランジスタ・ラジオなど売り払って、地中海のむこうへ河岸を換えることにした。
(引用者中略)
乞食みたいな格好でヨーロッパをほっつき歩き、酒場ではグラスすら出してもらえない有様。これが妙な復讐心となって、帰国してからは、いい酒を安く飲ませる場所を捜し当てる習性となった。」(『オール讀物』昭和60年/1985年8月号 赤羽堯「酒との出逢い 鉄をも腐らせるとは」より)
20代前半の体験とは書いていないので、もっと後のことかもしれませんけど、いかにも「海外放浪」と呼ぶにふさわしい、計画性のない旅行風景です。
日本に帰ってきたあと、赤羽さんは出版社に勤務、あるいは週刊誌記者、フリーのライターとしてまた各地を飛び回った、ということになっています。それは当然間違いないんでしょうが、しかしこの時期の赤羽さんにはもうひとつ、ある肩書が付けられていました。「音楽評論家」です。
○
赤羽さんの直木賞候補作『脱出のパスポート』は、まだ東西に分かれていたころの東ドイツを舞台にして、機密書類に関与していた日本人商社マンをめぐる諜報機関による情報合戦を描いたものですが、重要な背景として音楽やシンセサイザーが使われています。文春文庫(平成6年/1994年11月)の解説を担当しているのも、音楽プロデューサーの飯塚恒雄さんです。
「これからさきの展開は、解説から読みはじめた読者のために残して、ここでは赤羽作品の楽しみの一つである音楽のプロットに移ることにする。」(同解説)と言って、ジャズのスタンダード「YOU'D BE SO NICE TO COME HOME TO」の紹介や、シンセサイザーの歴史が語られているのは、国際諜報小説の解説としてはちょっと異様な感じがします。しかし、そこも赤羽さんの小説の大切な魅力だということもわかります。
赤羽さんは、まだ「赤羽堯」でなかった20代、30代のころ、本名の庄司英樹として音楽業界に関わっていたらしいです。評論家と名乗って文章を書くだけではなく、自分でも曲をつくって歌をうたうシンガーソングライターだったのだ、ということが以下の略歴などからもうかがえます。
「著者紹介
弘前市生まれ。明治大学文学部仏文学科在学中よりNHKなどで自作(作詩(原文ママ)・作曲)を歌う。現在、ラジオ・テレビ、労音の公演などで活躍。師は淡谷のり子。」(『高1コース』昭和41年/1966年10月号 庄司英樹「歌の社会学 タカに向かって歌うハト フォークの女王・ジョーンバエズの素顔」より)
淡谷のり子さんを師にもつ国際スパイ作家、というのもなかなかの意外性があって、赤羽さんが直木賞を受賞していたらきっとそういう方面の人となりも記事になっていただろうと思うと、落選してしまったことが残念でなりません。
『脱出のパスポート』が候補になった第96回(昭和61年/1986年・下半期)は、他に逢坂剛さんの『カディスの赤い星』という、いっそう強力な対抗作があったために、ほとんど勝負になりませんでした。日本人がヨーロッパの諜報戦に巻き込まれるかたちのエンタメ小説は、赤羽さん以外にも書く人はいましたし、ひとりの作家が独自の存在感を示すのが大変なジャンルだったことはたしかです。
そもそも、どうしてこの作品が直木賞の候補に選ばれたのか。もはやよくわかりませんけど、唯一赤羽さんの仕事に光を当てようとした文学賞が直木賞だったのも何かの縁です。日本の経済パワーが世界のあちこちで幅を利かせるようになった1980年代、国際諜報という枠組みのなかでその時流を写し取ろうとした赤羽さんの、ハンパない行動力と積極性には、さしもの直木賞の予選委員たちもタジタジとなって本選に残す決断をくだしたのだ、と見ておきたいと思います。
後世にまで読まれるかどうかは、正直どうだっていい。その時代にしか通用しない設定の小説を、あえて候補作に残す。文学賞としては大事なことです。
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