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2020年4月12日 (日)

武田芳一、上海でたまたま仲間になった小泉譲の縁で、丹羽文雄門下に加わる。

 10数年ブログを書いてきているのに、まだ一回もまともに取り上げたことのない直木賞候補者がいます。これが絶望するほど、たくさんいます。

 直木賞について知りたくなると、おのずと候補者たちのことも知りたくなるものです。知ったところで、こっちの生活には何ひとつ役立ちません。世のなかの誰の役にも立ちません。無意味・無意義の極みではあるんですが、とにかく知りたい衝動だけは抑えることができません。

 昭和30年/1955年7月に決まった第33回(昭和30年/1955年・上半期)の直木賞。もはや遠い昔の出来事と言ってもいいでしょう。次の第34回(昭和30年/1955年・下半期)では新田次郎さんと邱永漢さんが受賞者に選ばれた……と言うよりも芥川賞に石原慎太郎さんが選ばれたことで、芥川賞ビッグバンが爆発してしまい、二つの賞のあいだに横たわるイメージ格差がよりいっそう鮮明になったという、例のアノ回ですが、その半年まえに行われた第33回。直木賞では7つの作品が予選を通過して、ああだこうだと議論が交わされた挙句、けっきょく受賞作なしに決まりました。要するに、直木賞の歴史のなかでもまず注目されることの少ない無風の回です。

 7人の候補者のうち、多少なりとも世間で名が知られるのは、当時「三ノ瀬溪男」というペンネームでオール新人杯の佳作に入った伊藤桂一さんぐらいのものでしょう。他に何となく文学史に名前の出てくる九州文壇の雄、劉寒吉さんとか、山岳小説で名を馳せることになる瓜生卓造さん、歴史物を何冊も残した谷崎照久(谷崎旭寿)さんなどが候補にいますが、正直いって地味だし小粒。読者がテンションあげて飛びつくような作風でもありません。それ以外の候補者となると、もはや、その名を知っているほうが奇異な目で見られるという、まあ無名作家の部類です。

 ということで、無名なんだよね、別に無視したっていいよね、とスッパリ切り捨てられる性格に生まれていたら、きっと人生幸せだったんだろうなあ、と思うんですが、逆にワタクシはそういう作家が気になって仕方ありません。いったい何者なのか。どこでどうやって小説と出会い、たまさか直木賞の場に登場してしまったのか。それを知らなきゃ、とうてい直木賞を知っていることにはならないじゃないか。……と考えてしまうところが、たぶん異常者の論理なんでしょう。

 また前置きが長くなりました。第33回直木賞の候補に挙がった無名に属する作家のうち、鬼頭恭而さんや鬼生田貞雄さんには以前触れたこともあるんですけど、いまひとり、よくわからない人が混じっています。「鉄の肺」を書いた武田芳一さんです。

 明治43年/1910年兵庫県神戸市出身。ということですから、当時最年少委員だった村上元三さんとだいたい同世代です。生まれてから直木賞の候補に挙がる44歳まで、武田さんはどうやって生きてきたのでしょう。候補に挙がったことで、どんな生活を送ることになったんでしょう。

 断片的な資料をつなぎ合わせてみると、やはり武田さんも日本の外に出た海外での体験が、転機のひとつになったようです。

 この世に生まれてまだ日も浅い2か月ほどの段階で、実の父母が離婚。母が武田家から離縁されたというかっこうですから、芳一坊やは父のもとに引き取られます(『季刊・歴史と神戸』昭和40年/1965年8月「祖父のことなど」)。……もうこの始まりからして苦難の人生を匂わせるところですが、武田さんが2歳のときに祖母が死に、4歳のときには当時30歳だった父親まで他界してしまったため、身柄は祖父の手に預けられます。

 しかしこの祖父という人が、どうも人生うまいこといかなかったらしく、新しい仕事を始めては失敗し、別の土地に移って心機一転、職にありついては失敗し、ということを繰り返したそうで、武田さんも転校につぐ転校で、せわしない子供時代を送ります。孫のなかで最も期待をかけていた、という武田さんの成長を見ることなく、祖父は74歳で死去。武田さんがまだ14歳のころでした。

 庇護者がみんないなくなり、亡父の兄、神戸にいた伯父のところで暮らすことになりますが、この伯父も別に裕福なわけではなく、兵庫駅の裏にあった貧民街に住む、いわゆる下層な階級にいた人です。大正終わりから昭和のはじめごろ、ああ、こうなりゃおれは勉強して手に職をつけるしかないぞ! と奮起したのかどうなのか、空腹に耐え、勉学に身をそそぎ、苦学生を地でいく生活を送りながら歯科医師を目指しはじめます。

 そのころには「文学」に対する憧れを持ち、一生文学と添い遂げたいという、近代(および現代)社会には一定の割合で発生してしまうオソロしい文学病に罹ったらしいんですけど、優雅に文学書を読んで同人誌に参加するようなブルジョアな生活が許されるはずがありません。医師免許をとるために歯をくいしばって必死に勉強に集中。まるで文学から遠ざかった青春時代だったそうです。

 その成果があったのか、25歳で歯科医師検定に見事に合格を果たしたのが昭和10年/1935年ごろ、さらには結婚して自身で医院を開きます。そして、海を渡って中国の上海へ。……ということになるんですが、どうして行き先が上海だったのか、事情はよくわかりません。生活のため、生きていくため、といえばきっとそういうことなんでしょう。昭和10年代のとくに前半、日本にいる人が生活のために上海に転居する、というハナシはさほど珍しいことではなかった。と断言していいのかどうなのか、しかし居住地を上海に求めたことが、武田さんの文学人生を大きく変えることになります。

 歯科医院を開業したことで困窮の底から浮かび上がった武田さんは、いよいよ、ようやく、心に温めていた文学への情熱を発散させます。上海の邦人社会で結成されていた長江文学会(昭和15年/1940年創設)に参加してまもなく、ゾルゲ事件の影響で『長江文学』がつぶれると、今度は上海芸文会という別の団体が合流するかたちで上海文学研究会(昭和18年/1943年創設)ができ、武田さんがその機関誌『上海文学』の編集を担うことになるのです。当時は「猛田章」という筆名を使っていたそうです。

 『上海文学』というと、内山完造、池田克己、黒木清次といった同人の他に、やはり小泉譲さんの存在を挙げないわけにはいきません。直木賞候補者の、あの小泉さんです。「直木賞、海を越える」のテーマでも一週分取り上げました。上海の地で「文学に対する情熱」というたったひとつの共通点しか持たない二人の男、武田芳一と小泉譲。二人の出会いが、やがて武田さんの前に直木賞候補にいたる道すじをつけることになるのですから、思わず身を乗り出してしまうところです。

          ○

 趙夢雲さんの「「上海文学」とその同人たち――戦時上海邦人文学活動研究へのアプローチ――」(『中国文化研究』27号[平成23年/2011年3月])によりますと、『上海文学』は昭和20年/1945年5月刊行の「春作品 小説特輯」まで全部で5号出されたそうですが、武田さんが参加したのは第3号「冬春作品」(昭和19年/1944年4月)まで、ということになっています。自身、病気に罹ってしまったために、昭和19年/1944年に内地に引き揚げたからです。

 本土に戻った武田さんは、少なくとも戦後一、二年目の頃までには神戸市大倉山電停前で「武田歯科」を開院します。そこで生活の糧を稼ぐと同時に、丹羽文雄さんを中心とする同人グループ「文学者」の神戸支部のひとりとして文学のペンを取りました。ここで、どうして武田さんが丹羽グループに属したのか。なぜ『文学者』同人になったのか。というと、武田さんがいっとき、小泉譲さんとお仲間だったからです。

 こんな回想があります。

「私は戦中、上海にいたので、そこの文学団体に加わった。その同人の一人に丹羽文雄を師事している人がいた。私が何かで帰国した時、東京へ行く用があり、序でに誰か作家を訪ねたいと思い、紹介してもらったのが丹羽文雄だった。昭和十六年だったと思う。東京はまだ焼野原ではなく、下落合の丹羽家を訪ねた。それで丹羽門を叩いたのはわたくしが二番目になる。私の次がNだった。KもNもみなそれぞれプロとして文章で生計をたてている。私は五十年近くも文学に噛りつきながらいまだアマである。恥しい話だが力がないので仕方がない。」(『神戸っ子』昭和61年/1986年8月号 武田芳一「追悼エッセイ 武田繁太郎をしのんで」より)

 丹羽門を叩いた三番目の「N」というのはおそらく中村八朗さんのことだと思われますが、一番目の「K」が小泉譲さんなのは間違いありません。

 上海で知り合った小泉さんの縁で、丹羽さんに師事するようになって『文学者』に参加。そこで文学修業に励みながら書いた「鉄の肺」が『文学者』に載ったことで文藝春秋の編集者に目をつけられ、昭和30年/1955年直木賞の候補に挙がった……という流れです。

 「鉄の肺」そのものは、危篤に陥った病児をまえに最新の医療器具を使うか使うまいか思い悩む医師のハナシで、上海とか海外とはとくに関係がありません。その後、武田さんは、おれはアマ作家だ、だけど文学と付き合っていくんだ文句あるか、とひそやかに書きつづけましたが、さほど数多いとは言えない作品を見ても、戦中の上海体験が盛り込まれたものは見当たりません。ワタクシが単に見落としているだけかもしれません。

 ともかく、武田芳一と上海のつながりに注目したくても、そもそも武田さん自身のことが忘れられ、消え失せてしまいそうになっている今の状況は、いかんともしがたいものがあります。武田さんが「私だって、曽孫や鶴孫の時代になると、全然消えてしまうと思っている。」(前掲「祖父のことなど」)と言っているのは、たぶん当たっているはずです。しかし、いったい武田芳一って何者だったんだろうと興味をもつ人間がいるかぎり、ギリギリ消えたとまでは言い切れない。とそんなふうに考えると、武田さんが一回きりでも直木賞の候補に挙がって、その候補リストに刻印されたことは、けっこう馬鹿にしたものでもありません。きっと、また後世の直木賞オタクがこの作家に興味をもってくれることでしょう。

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