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2020年4月 5日 (日)

若尾徳平、ニューギニアで経験した不幸、見た不幸を、小説で表現する。

 昭和53年/1978年1月に白川書院から刊行された『若尾徳平シナリオ集』という本があります。

 若尾さんは大正7年/1918年生まれですから、太平洋戦争が終結したときは27歳。働き盛りのやり盛り、映画の世界からラジオ、テレビのほうまでシナリオライターとして猛烈に働き、その世界で名を残しました。惜しまれながら昭和51年/1976年に他界して、まだ日も浅いうちに、こういうタイトルの本が出るのは、おそらく自然な展開だったでしょう。しかし「シナリオ集」と銘打ちながら、だいたい3分の1ぐらいを小説が占めているのは、いったいなぜなのか。若尾さんの小説に向けた情熱が、おそらくまわりの人たちにも伝わっていたからだと思います。

 回想をたどってみると、昭和14年/1939年、日本全土が戦争の風に吹かれて不穏な世情に包まれるなか、慶應義塾の本科生だった若尾さんは夏休みを利用して上海、南京あたりを旅します。帰国後にこのときの紀行文を書いて、奥野信太郎さんに読んでもらったところ、ふうむキミなかなかスジがいいね、と褒められ、そのまま『三田文学』への掲載が決定。これが同誌昭和15年/1940年2月号に載った随筆「蘇州の一日」だった、ということのようです。外国に行ったことが若尾さんの文章が世に出るきっかけになった、ということでもあります。

 このころからすでに若尾さんは随筆よりも創作に意欲を燃やしていたらしく、いつか小説を書いて発表したい、と思っていたようなんですが、昭和16年/1941年に大学を卒業、日本鋼管に入社した時分に書いた小説を、『三田文学』の編集部にいた和木清三郎さんに宛てて送ります。それが採用されるかどうか結果を知らないまま、昭和17年/1942年に現役兵として入隊、日本を離れたあとで、自分の書いた「盆地」という小説が『三田文学』昭和18年/1943年4月号に載ったので、若尾さん大喜び。その後もひまを見つけては小説や戯曲をいくつか書きますが、それらは発表するあてもないまま、世に出す機会を逸したそうです。

 そりゃ機会も逸するでしょう。世の中それどころではありません。若尾さんも、お国のためだ、おれもまじめに戦わなければと、生来の生真面目気質を存分に発揮して、幹部候補生を志願すると、立派な軍人になるべくがむしゃらに突き進み、新京の経理学校に学んだあとは、北満、そして南洋へと戦場を渡り、忠実に軍務に励みます。要するに、敵とみなしたよその国の人たちをぶっ殺すことに全身全霊をささげたわけです。

 じっさいにぶっ殺したかどうかはわかりませんが、ともかく若尾さんは中尉にまで昇進して南洋戦線の渦中にあったニューギニアに送られます。東部ニューギニア北岸のウェワクに展開された第十八軍所属です。本部からの補給がまるで絶たれたなか、現地で食糧を調達し、現地で敵軍とぶつからなければいけない、死闘というか犬死というか、凄惨極まりない戦線でどうにかしのいでいるうちに、あんたたちいつまで戦っているの、日本政府、降伏したんですってよ、と現地の部族の人にサラッと教えられて、うそだろ、と顔面まっさおになったのが昭和20年/1945年の9月に入ってからのこと。

 当然徹底抗戦しかないはずだ、と思っていた矢先、第十八軍の司令部はオーストラリア(豪州)軍にスパッと投降の意を示し、日本軍はみんな俘虜となってウェワク沖20海里のところに浮かぶ無人島ムッシュ島に収容されることになります。

 若尾さんが復員後に『三田文学』に書いた、いわゆる戦争・戦地モノの一篇「俘虜五〇七号」は、このムッシュ島での俘虜生活に材をとったものです。

 主人公の望月中尉は、杉山隊所属の主計将校で、週に一回、豪州軍から支給される糧秣を受け取り、隊員たち全員に確実に手渡すという役目を担っていました。しかし、あるとき全員に配ったところ、ブリキ罐の携帯口糧がひとつだけ余ってしまいます。すぐに正直に返さなくては、あるいは上官に報告しなければ、と思いながら背嚢に入れておきますが、その間にも空腹感は抑えがたいものがあり、ここでパクッたりしては主計の恥だ、いや、もっと悪いことをしている奴は将校にもたくさんいるじゃないか、とか何とか、天使と悪魔の囁き合いが脳内で繰り返されたあと、ついに望月はみなに隠れて、ブリキ罐に手を伸ばしてしまいます。

 ……といったような導入から、いったいこのブリキ罐と望月はどんな運命をたどるのか、そしてムッシュ島からの移動命令がくだって、11月23日、ついに日本の巡洋艦に乗せられて島を離れるまでの状況が描かれた短い小説です。俘虜生活のなかで「現地自活の励行」という、要はいつ帰れるかわからないから自発的に畑をつくったり魚をとったりしろ、という命令がくだったりするお先真っ暗な状況ですから、明るいハナシなわけがありません。しかしそれでもこの小説を読んで、思わずフフッと笑えてしまうのは、ひとえに望月中尉のクソまじめで律儀な心理が共感できるからでしょう。

 さすがに面白い小説とまでは言えませんが、現場を経験した人によるリアリティが光ります。

          ○

 「望月中尉」にどれだけ若尾さんの姿が投影されているのか、そんなことは小説のキモではないので、どうでもいいのかもしれません。

 それを言いはじめると、こんなブログを書いていること自体どうでもいいことの集積です。構わずに続けますと、若尾徳平の特徴といえば何なのか。それは律儀さだ。と言ったのが先輩映画人だった八木保太郎さんです。追悼するにあたって「若尾について忘れられないのは、彼の律儀な心情だった。」(『シナリオ』昭和52年/1977年2月号「若尾徳平のこと」より)と書いています。

 律儀といっても、おそらくさまざまな種類があるでしょう。小説作品から見える若尾さんの律儀さは、清廉潔白だとか、非の打ちどころのない人格だとか、そういう種類のものではありません。人は状況によって往々にして間違える。悪いことを考える。ぶれたり、怠けたりする。そこで他人にいいカッコしたいから、言い訳したりゴマかしたり、あるいは装ったりする人も、なかにはいるかと思います。だけど、若尾さんは違います。そうなったときでも虚栄心にかられて気取ってみせる、という姿勢に向かわない律儀さを感じさせます。

 たとえば若尾さんは言います。自分は軍人として生きると決め、戦時中は常に軍務に忠実であることを心がけていた。だから戦争に負けた瞬間から手のひらを返して、自分は反戦論者だったという顔はどうしてもできない。じゃあ、なんで戦争モノの小説ばかり書くのか。こう言っています。

「三十年の私の半生に今度の戦争程いろいろな意味で大きな体験はなく、又考へさせられた問題はなかつたので、それを今の中に書いておかないと、外のことには全然手がつけられないといふ止むに止まれぬ欲求の然らしむるところなのだ。(引用者中略)もつとも陰惨だつたといはれるニューギニヤの戦場にあつて、言葉に尽せない不幸を経験し、他人の不幸を見て来た。私は自ら戦争を否定したり、批判したりはしない。戦争が生んだ不幸を描くことによつて、読む人に批判して貰へばそれでいゝと思つてゐる。」(『三田文学』昭和22年/1947年8月号 若尾徳平「私は新人である」より)

 かくべつ面白い感慨というわけではないでしょう。たぶんこう言うしかないだろうな、という正直な心を書いたものだと推察できますが、それができる人は十分に律儀なのだと思います。

 それで全然、直木賞のハナシには結びつかないんですけど、最後に少しだけ触れておきます。若尾さんの「俘虜五〇七号」は日比谷出版社が運営した最後の第22回(昭和24年/1949年・下半期)に直木賞候補になり、選考委員のだれひとりとして選評で触れない、つまり黙殺のかたちで落選しました。若尾さん自身、のちになって『三田文学』に小説を書いたことがあるのは自分の誇りだと回想していますが、直木賞のことには触れていないので、果たして候補者としての自覚があったのかどうかもよくわかりません。

 ともかく「三田文学と私」(『三田文学』昭和35年/1960年11月号)によると、学生時代からずっと映画の道に憧れていたらしく、戦後、京都の撮影所に行ったりするうちに、どんどんシナリオの仕事が増えてきて、「苦労して売れるかどうか判らない小説を書くより、すぐ金になる映画やラジオの仕事をした方が利口だというのが正直な気持だった。」ということです。この書きかた、ほんと律儀ですよね、と言うほかありませんが、その後もいつか小説を書きたい書きたいと頭にありながら、けっきょく小説に手をつけることはありませんでした。この世で文学賞や小説だけが特別に価値があるもの、というわけでもないので、それはそれで問題ないと思います。

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