笹倉明、直木賞を受賞してから10数年で経済的に行きづまり、タイに移住する。
「直木賞、海を越える」。……テーマそのものがブレまくっています。とりあえず直木賞の受賞者や候補者たちが、日本を囲む海を越えて外に行ったとか帰ってきたとか、そういうハナシをいろいろ調べてきたんですけど、ちょっと待ってください。直木賞80余年の無駄に長い歴史のなかで、このテーマに最もフィットする作家を、もしやお忘れではありませんか。すみません、ワタクシは正直忘れていました。
平成が始まってすぐに開かれた第100回(昭和63年/1988年・下半期)、『漂流裁判』ではじめて直木賞の候補に挙がり、つづけて半年後、第101回(平成1年/1989年・上半期)では『遠い国からの殺人者』で2期連続の候補に選ばれ、文句なしの高評価で受賞が決まった、という例のアノ人。笹倉明さんです。
戦後の昭和23年/1948年に生まれた笹倉さんは、受賞当時ちょうど40歳を迎えた頃でした。
直木賞といえば、受賞すればいくらでも仕事が舞い込み、商業的な小説をたくさん書く機会に恵まれるうちに、誰と誰がどういう経緯で候補になったのかまったく不透明な、時代に逆行する仕組みを絶対に変えようとしない、名前だけはそれらしい文学賞に選ばれたりしながら、プロの作家としてキャリアを積んでいくのが受賞者の王道だ、と言われます。もしくは、多作濫作できるタイプでなくても、都市や田舎にとどまりながら、「直木賞を受賞した作家先生」としての看板で、ぽつぽつと入ってくる仕事を引き受けながら、自分なりの文学を突き詰めて尊敬されるような人もいます。あるいは、若くしてとるような賞でもないので、受賞後そんなに作品を発表せず、やがて死んでいく作家もいます。まったく人それぞれです。
そのなかでも笹倉さんが異色なのは、それまで曲りなりにもコピーライターとか雑誌記者とか、いわば文章を書くことで糊口をしのぎ、40歳の働きざかりで直木賞を受賞したというのに、その後とくに本が売れるわけでもなく、人気も出ず、文学賞にも引っかからず、次第に発表作が減っていき、マジで「消えた作家」の領域に達してしまったことです。とくに商業出版が産業として成熟した昭和後期から平成以降、ここまでキレイさっぱり落ちぶれた受賞者というのは珍しく、直木賞なんてとったって大成しない作家ばかりだ、と強固に信じている向きには、ぜひこの笹倉さんの動向に注目してほしいと思います。ちなみに令和1年/2019年11月で71歳を迎えた笹倉さんは、いまもご存命。タイ・チェンマイのワット・パンオンという寺院で僧として暮らしているそうです。
ということで、その生誕71年を記念して(というわけではないでしょうけど)、令和1年/2019年11月、久しぶりに笹倉さんの新刊が出版されました。『出家への道――苦の果てに出逢ったタイ仏教』(幻冬舎/幻冬舎新書)という、渾身のエッセイというか、自分の後半生を素材にしたノンフィクションです。著者名は「プラ・アキラ・アマロー(笹倉明)」となっています。
語られているのは、平成28年/2016年3月、長年過ごしたタイ・バンコクを離れ、チェンマイで出家するまでに至る、笹倉さんの悔恨まじりの来し方です。ざっくり言ってしまうと、40歳で直木賞を受賞してから、自分の軸となるテーマや題材を探しあぐね、出す本、出す本ことごとく売れずに、注文は徐々に減少。『新・雪国』(平成11年/1999年8月・廣済堂出版刊)の映画化にどっぷりと力をそそぎ込んだことで借金をつくり、その間、家庭的にも順風満帆だったわけではなく、長く別居状態にあった妻との離婚とか、関係をもち子供をもうけた女性との、籍を入れないままの生活とか、腰の定まらない状況が描かれます。貧窮の道を一直線に突き進む笹倉さん自身、平成12年/2000年に入った前後からかなりフトコロ事情が厳しくなって、やがて住む場所にも困るようになり、たどり着いたのがバンコクの住まいでした。
「私がタイへの移住(二〇〇五年暮れ)に踏み切ったのは、経済的に行きづまったことが主な原因でした。
(引用者中略)
(引用者注:タイの)生活費の安さは確かに助かるものでした。が、そこに安住していたかというと、そうでもなく、一方では現状に不満や焦りもあって、故国へ返り咲く夢もみていたし、経済的な問題がなくなることも望んでいました。誰の反対もない独りの移住は期間を定めないものでしたが、できれば一時的なものにして、故国への正常な復帰を望んでもいたのです。」(『出家への道――苦の果てに出逢ったタイ仏教』「第三章 華と没落を招いた日々」より)
しかし残念ながら、土地を変えただけで事態が好転するほど甘くはありません。いろいろと商売にも手を出しますが、金まわりは糞詰まりです。早川書房に拾ってもらった刑事モノのミステリー『愛闇殺』(平成18年/2006年6月)『彼に言えなかった哀しみ』(平成19年/2007年9月)は、話題にもならなきゃ売れ行きも悪く、版元から打ち切りを宣告される始末。もはや物書きとして続けるのは無理だろうと思っていたところ、平成22年/2010年ごろから縁あって出家を考えはじめ、その6年後についに決行することになった、というおハナシです。
それで煩悩から脱却して、静かに余生を送るのだろう。と思ったら、わざわざその過程を書き記して日本の出版社から刊行する、というのはいったいどんな複雑な論理が発動したんでしょうか。これを受け入れた幻冬舎がスゴいのか。あるいは「直木賞受賞者」という肩書の力がスゴいのか。いずれにしても、直木賞を受賞した人が生活に困窮して海を渡り、いよいよ物書きとしての注文もなくなって、海外で出家する、というのは笹倉さんだけがなし得たサプライジングな人生です。これが一冊になることに、何の不思議もありません。
○
ところで、笹倉さんといえば、やはり海外です。
早稲田大学の文芸科で、恩師の暉峻康隆さんに10年書きつづけろと言われ、じっさい10年後の昭和55年/1980年にすばる文学賞に投じた作品が佳作に入ったことで、ぎりぎりデビューを果たしますが、このときの小説のタイトルが「海を越えた者たち」。大学3年が終わったあと、1年間休学してユーラシア大陸放浪の旅に出たことが、このデビュー作にも反映しているらしく、日本の外に出るという行動が、笹倉さんの作家人生の原点になったことは間違いありません。
笹倉さんには直木賞を受賞した直後に『オール讀物』平成1年/1989年9月号に寄稿した「ねばり腰で二つの賞」という自伝エッセイがあります。
大学時代のユーラシア大陸旅行を「私のいわば幼児体験」といい、また卒業後に入った広告業界では3つの会社を渡り歩きますが、その業界をやめるきっかけも海外旅行だったそうです。「学生時代の放浪以来、いわば業のようなものがとりついてしまったらしく」ということで、パプア・ニューギニアを旅するために、昭和52年/1977年の夏、1か月の有給休暇をとっただけでなく、さらに1か月期間を延ばして帰国したことが、会社の上層部の逆鱗に触れて退職させられたのだ、と告白しています。そりゃそうだろうなと思います。
それからは世界各国を股にかけ、颯爽と各地を旅するフリーの物書きに……と聞くと、自由で楽しそうな職業です。しかし、たいていの人間は生きていくだけで、いろいろな問題なぶち当たりますから、一概に楽しそう、などと言ってはいけませんね、失礼しました。笹倉さんも例に洩れず、取材で海外に行く、遊びで他の国に渡る。しかしけっきょく、それが生活費を潤すまでには至らない、という苦しみを味わいます。
以前、うちのブログで取り上げた三田誠広さん、岳真也さんとの共著『大鼎談(Dai-Tei-Dan) W大学文芸科創作教室番外篇』(平成10年/1998年5月・朝日ソノラマ刊)を読んでも、とにかく笹倉さんはカネがない、貧乏だ、そんなものは直木賞をとったぐらいじゃ変わらない、とそればっかり言っていた印象があります。この本が出たあとも、やはりその状況に改善は見られず、海外への移住、そして出家の道まで付いてまわった、ということのようですが、まあ、なにしろ直木三十五の名を冠した文学賞です。浪費と借金のエピソードには事欠かない貧乏の権化、直木三十五。この賞をとって金持ちになるよりも、常に貧乏な作家のほうが、あるいは受賞者の姿としてはふさわしいのかもしれません。
自伝エッセイを寄せた『オール讀物』の号には、さらに笹倉さんの「直木賞 賞前賞後ダイアリー」と称する、平成1年/1989年7月13日~7月30日までの日記が併載されています。そこに、受賞当日に記者会見で答えた言葉も出てくるのですが、これを読んで思わずドキリとしてしまいました。
「ぼくにとって、直木賞というのはいつかは欲しいと思っていた賞でして、できることならマラソンでいうところの折り返し点あたりでもらえたらいいなと思っていたんです。その通りになって、非常に嬉しいです。二十年という修業期間は、まさにその折り返しまでの距離に相当するわけでありまして、やっとそこに辿りついたという気がします。これからは後半の残り二十キロをどうやって走るか、そのことを考えていかなきゃいけないと思っています。」(『オール讀物』平成1年/1989年9月号 笹倉明「直木賞 賞前賞後ダイアリー 受賞はマラソンの折り返し点。残り二十キロをどう走るか」より)
受賞の言葉としては平凡ですし、多分に優等生的です。おそらくリアルタイムでこのコメントを聞いても、何の面白さも感じなかったと思います。
しかし、直木賞受賞から平成22年/2010年にタイで出家を決意するまでの約20年、その笹倉さんの歩みを目のまえにしてしまったいま読むと、一気に胸にせまるものがあります。後半20キロ、小説家としてはおそらく思い通りにいかない行程だったと思いますが、それでも途中でくたばることなく、いま『出家への道』という回顧録を残すことができたのですから、それだけで十分といえば十分です。
ちなみにこの「賞前賞後ダイアリー」は、最終日の7月30日、カンボジア国境やラオスを訪れるためにタイ航空741便でバンコクへ渡る、というところで終わっています。つくづく海を渡ることに縁の深い直木賞受賞者です。
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