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2020年4月の4件の記事

2020年4月26日 (日)

笹倉明、直木賞を受賞してから10数年で経済的に行きづまり、タイに移住する。

 「直木賞、海を越える」。……テーマそのものがブレまくっています。とりあえず直木賞の受賞者や候補者たちが、日本を囲む海を越えて外に行ったとか帰ってきたとか、そういうハナシをいろいろ調べてきたんですけど、ちょっと待ってください。直木賞80余年の無駄に長い歴史のなかで、このテーマに最もフィットする作家を、もしやお忘れではありませんか。すみません、ワタクシは正直忘れていました。

 平成が始まってすぐに開かれた第100回(昭和63年/1988年・下半期)、『漂流裁判』ではじめて直木賞の候補に挙がり、つづけて半年後、第101回(平成1年/1989年・上半期)では『遠い国からの殺人者』で2期連続の候補に選ばれ、文句なしの高評価で受賞が決まった、という例のアノ人。笹倉明さんです。

 戦後の昭和23年/1948年に生まれた笹倉さんは、受賞当時ちょうど40歳を迎えた頃でした。

 直木賞といえば、受賞すればいくらでも仕事が舞い込み、商業的な小説をたくさん書く機会に恵まれるうちに、誰と誰がどういう経緯で候補になったのかまったく不透明な、時代に逆行する仕組みを絶対に変えようとしない、名前だけはそれらしい文学賞に選ばれたりしながら、プロの作家としてキャリアを積んでいくのが受賞者の王道だ、と言われます。もしくは、多作濫作できるタイプでなくても、都市や田舎にとどまりながら、「直木賞を受賞した作家先生」としての看板で、ぽつぽつと入ってくる仕事を引き受けながら、自分なりの文学を突き詰めて尊敬されるような人もいます。あるいは、若くしてとるような賞でもないので、受賞後そんなに作品を発表せず、やがて死んでいく作家もいます。まったく人それぞれです。

 そのなかでも笹倉さんが異色なのは、それまで曲りなりにもコピーライターとか雑誌記者とか、いわば文章を書くことで糊口をしのぎ、40歳の働きざかりで直木賞を受賞したというのに、その後とくに本が売れるわけでもなく、人気も出ず、文学賞にも引っかからず、次第に発表作が減っていき、マジで「消えた作家」の領域に達してしまったことです。とくに商業出版が産業として成熟した昭和後期から平成以降、ここまでキレイさっぱり落ちぶれた受賞者というのは珍しく、直木賞なんてとったって大成しない作家ばかりだ、と強固に信じている向きには、ぜひこの笹倉さんの動向に注目してほしいと思います。ちなみに令和1年/2019年11月で71歳を迎えた笹倉さんは、いまもご存命。タイ・チェンマイのワット・パンオンという寺院で僧として暮らしているそうです。

 ということで、その生誕71年を記念して(というわけではないでしょうけど)、令和1年/2019年11月、久しぶりに笹倉さんの新刊が出版されました。『出家への道――苦の果てに出逢ったタイ仏教』(幻冬舎/幻冬舎新書)という、渾身のエッセイというか、自分の後半生を素材にしたノンフィクションです。著者名は「プラ・アキラ・アマロー(笹倉明)」となっています。

 語られているのは、平成28年/2016年3月、長年過ごしたタイ・バンコクを離れ、チェンマイで出家するまでに至る、笹倉さんの悔恨まじりの来し方です。ざっくり言ってしまうと、40歳で直木賞を受賞してから、自分の軸となるテーマや題材を探しあぐね、出す本、出す本ことごとく売れずに、注文は徐々に減少。『新・雪国』(平成11年/1999年8月・廣済堂出版刊)の映画化にどっぷりと力をそそぎ込んだことで借金をつくり、その間、家庭的にも順風満帆だったわけではなく、長く別居状態にあった妻との離婚とか、関係をもち子供をもうけた女性との、籍を入れないままの生活とか、腰の定まらない状況が描かれます。貧窮の道を一直線に突き進む笹倉さん自身、平成12年/2000年に入った前後からかなりフトコロ事情が厳しくなって、やがて住む場所にも困るようになり、たどり着いたのがバンコクの住まいでした。

「私がタイへの移住(二〇〇五年暮れ)に踏み切ったのは、経済的に行きづまったことが主な原因でした。

(引用者中略)

(引用者注:タイの)生活費の安さは確かに助かるものでした。が、そこに安住していたかというと、そうでもなく、一方では現状に不満や焦りもあって、故国へ返り咲く夢もみていたし、経済的な問題がなくなることも望んでいました。誰の反対もない独りの移住は期間を定めないものでしたが、できれば一時的なものにして、故国への正常な復帰を望んでもいたのです。」(『出家への道――苦の果てに出逢ったタイ仏教』「第三章 華と没落を招いた日々」より)

 しかし残念ながら、土地を変えただけで事態が好転するほど甘くはありません。いろいろと商売にも手を出しますが、金まわりは糞詰まりです。早川書房に拾ってもらった刑事モノのミステリー『愛闇殺』(平成18年/2006年6月)『彼に言えなかった哀しみ』(平成19年/2007年9月)は、話題にもならなきゃ売れ行きも悪く、版元から打ち切りを宣告される始末。もはや物書きとして続けるのは無理だろうと思っていたところ、平成22年/2010年ごろから縁あって出家を考えはじめ、その6年後についに決行することになった、というおハナシです。

 それで煩悩から脱却して、静かに余生を送るのだろう。と思ったら、わざわざその過程を書き記して日本の出版社から刊行する、というのはいったいどんな複雑な論理が発動したんでしょうか。これを受け入れた幻冬舎がスゴいのか。あるいは「直木賞受賞者」という肩書の力がスゴいのか。いずれにしても、直木賞を受賞した人が生活に困窮して海を渡り、いよいよ物書きとしての注文もなくなって、海外で出家する、というのは笹倉さんだけがなし得たサプライジングな人生です。これが一冊になることに、何の不思議もありません。

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2020年4月19日 (日)

赤羽堯、20代前半に安宿を渡りあるいて海外を放浪、のちに国際スパイ小説を書きはじめる。

 明治や大正に生まれた人たちが戦時中にどうしたこうした。と、最近うちのブログではそんなハナシばかりしています。戦争によって海の外に渡った日本人たちが、のちに直木賞に影響を与え、直木賞を変えることになったのは事実でしょう(いや、直木賞に限ったことではないでしょう)。だけど今週は気分を変えて、昭和10年代に東北の片田舎で生まれた国際派作家の話題でいきたいと思います。

 赤羽堯さんです。作家としてデビューしたのが昭和54年/1979年8月、『スパイ特急』(光文社刊)を書下ろしで出したのが42歳になった頃と言いますから、けっこう遅めです。その後、刊行点数だけがやたらと多い読み物エンターテインメントの分野で活躍を始め、第96回(昭和61年/1986年・下半期)のたった一度の直木賞候補を除いては、文学賞という文学賞から無視されつづけます。しかし、そんなことはまるで意に介さず精力的に小説を発表している矢先に、突然という感じで肝硬変で亡くなったのが平成9年/1997年1月。享年59。わずか20年足らずの作家人生を終えました。

 以来すでに20年以上が経ち、名前を聞くこともほとんどありません。赤羽堯。あまねくすべての作家の、すべての小説は、べつに読もうが読むまいが問題なく生きていける類いのものなので、赤羽さんの遺した作品も、いまさら読まなくてもだいじょうぶです。

 だいじょうぶなんですけど、そういう作家のほうがよけいに気になって知りたくなります。……というのも毎週のように書いていることで芸がありませんが、とりあえず赤羽さんといえばその海外渡航歴は尋常じゃありません。そして、ベルリンの壁が崩壊する平成1年/1989年のほんの少し前に、海外事情マニアのような作家によるスパイ物が、こうして直木賞の候補に挙がったことは、敗戦後の日本人たちが外の世界に対していかに好奇心を爆発させたかがわかる、ささいだけど見逃せない現象のひとつ、と言っていいでしょう。

 直木賞の歴代候補作リストを見てみますと、昭和50年/1975年ごろから、題材に現代の世界情勢、外国風土を求めたものが増えはじめたことがわかります。楢山芙二夫さんや醍醐麻沙夫さんなど、若くして海外に滞在した人たちが自分の実感のなかから外国物を発表しはじめ、それを『オール讀物』などの中間小説誌が積極的に誌面に反映させていた頃です。

 その後に訪れるのが、仕事の関係で海外との交流が多い職種の人たちが、その体験から想像力を働かせて商業小説に結実させた候補作の登場です。航海士だった谷恒生さんやテレビマンの平田敬さんについては、すでにうちのブログでも取り上げました。新聞記者の三浦浩さん、航空会社に勤める深田祐介・中村正䡄のお二人、外務省に籍をおいた高柳芳夫さんなども、そこに含めていいかもしれません。まったく海外モノ百花繚乱の態です。

 こういった直木賞における海外モノの大噴火が起きているあいだに、冒険スパイ小説でデビューしたのが赤羽さんだった。ということになるんですけど、昭和12年/1937年、ほぼ戦時下に足のかかった時代に青森県の弘前市で生まれた赤羽さんは、少年時代に終戦を迎えます。弘前高校に通ったあとは東京の明治大学文学部仏文学科に進学しますが、卒業後うずうずと外に飛び出したい気持ちが強くなったものか、そこから海外を転々とすること8年間。これが20代(ないしは文献によっては20代前半)ということですから、昭和30年代、西暦でいうと1950年代から60年代ごろです。

 のちに東西冷戦の象徴になっていく〈ベルリンの壁〉が築かれたのが、ちょうどその時期、昭和36年/1961年のことです。赤羽さんが実際に現地でその状況を体験したのかどうか、それはわかりませんけど、20代に過ごした海外というのは具体的には、エジプト、地中海、そしてヨーロッパと、このあたりの地域をフラフラしていたらしく、薄ぎたない服で貧乏旅行をつづける冴えない(?)日本人青年が、刻々と変わるヨーロッパの情勢を肌で感じながら毎日を生きていた姿は、容易に想像できるところです。

 当時の回想を引いておきます。

(引用者注:酒を)よく飲んだのは、雪とは無縁のエジプト滞在中で、昼間、灼熱地獄を歩きまわった後は、毎晩ナイトクラブでエキゾチックなサウンドをシャワーのように浴びた。(引用者中略)そんな日が数ヵ月続いて、ふと気がつけば、無一文。浦島太郎ならここで浜へ帰るところだが、カメラやトランジスタ・ラジオなど売り払って、地中海のむこうへ河岸を換えることにした。

(引用者中略)

乞食みたいな格好でヨーロッパをほっつき歩き、酒場ではグラスすら出してもらえない有様。これが妙な復讐心となって、帰国してからは、いい酒を安く飲ませる場所を捜し当てる習性となった。」(『オール讀物』昭和60年/1985年8月号 赤羽堯「酒との出逢い 鉄をも腐らせるとは」より)

 20代前半の体験とは書いていないので、もっと後のことかもしれませんけど、いかにも「海外放浪」と呼ぶにふさわしい、計画性のない旅行風景です。

 日本に帰ってきたあと、赤羽さんは出版社に勤務、あるいは週刊誌記者、フリーのライターとしてまた各地を飛び回った、ということになっています。それは当然間違いないんでしょうが、しかしこの時期の赤羽さんにはもうひとつ、ある肩書が付けられていました。「音楽評論家」です。

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2020年4月12日 (日)

武田芳一、上海でたまたま仲間になった小泉譲の縁で、丹羽文雄門下に加わる。

 10数年ブログを書いてきているのに、まだ一回もまともに取り上げたことのない直木賞候補者がいます。これが絶望するほど、たくさんいます。

 直木賞について知りたくなると、おのずと候補者たちのことも知りたくなるものです。知ったところで、こっちの生活には何ひとつ役立ちません。世のなかの誰の役にも立ちません。無意味・無意義の極みではあるんですが、とにかく知りたい衝動だけは抑えることができません。

 昭和30年/1955年7月に決まった第33回(昭和30年/1955年・上半期)の直木賞。もはや遠い昔の出来事と言ってもいいでしょう。次の第34回(昭和30年/1955年・下半期)では新田次郎さんと邱永漢さんが受賞者に選ばれた……と言うよりも芥川賞に石原慎太郎さんが選ばれたことで、芥川賞ビッグバンが爆発してしまい、二つの賞のあいだに横たわるイメージ格差がよりいっそう鮮明になったという、例のアノ回ですが、その半年まえに行われた第33回。直木賞では7つの作品が予選を通過して、ああだこうだと議論が交わされた挙句、けっきょく受賞作なしに決まりました。要するに、直木賞の歴史のなかでもまず注目されることの少ない無風の回です。

 7人の候補者のうち、多少なりとも世間で名が知られるのは、当時「三ノ瀬溪男」というペンネームでオール新人杯の佳作に入った伊藤桂一さんぐらいのものでしょう。他に何となく文学史に名前の出てくる九州文壇の雄、劉寒吉さんとか、山岳小説で名を馳せることになる瓜生卓造さん、歴史物を何冊も残した谷崎照久(谷崎旭寿)さんなどが候補にいますが、正直いって地味だし小粒。読者がテンションあげて飛びつくような作風でもありません。それ以外の候補者となると、もはや、その名を知っているほうが奇異な目で見られるという、まあ無名作家の部類です。

 ということで、無名なんだよね、別に無視したっていいよね、とスッパリ切り捨てられる性格に生まれていたら、きっと人生幸せだったんだろうなあ、と思うんですが、逆にワタクシはそういう作家が気になって仕方ありません。いったい何者なのか。どこでどうやって小説と出会い、たまさか直木賞の場に登場してしまったのか。それを知らなきゃ、とうてい直木賞を知っていることにはならないじゃないか。……と考えてしまうところが、たぶん異常者の論理なんでしょう。

 また前置きが長くなりました。第33回直木賞の候補に挙がった無名に属する作家のうち、鬼頭恭而さんや鬼生田貞雄さんには以前触れたこともあるんですけど、いまひとり、よくわからない人が混じっています。「鉄の肺」を書いた武田芳一さんです。

 明治43年/1910年兵庫県神戸市出身。ということですから、当時最年少委員だった村上元三さんとだいたい同世代です。生まれてから直木賞の候補に挙がる44歳まで、武田さんはどうやって生きてきたのでしょう。候補に挙がったことで、どんな生活を送ることになったんでしょう。

 断片的な資料をつなぎ合わせてみると、やはり武田さんも日本の外に出た海外での体験が、転機のひとつになったようです。

 この世に生まれてまだ日も浅い2か月ほどの段階で、実の父母が離婚。母が武田家から離縁されたというかっこうですから、芳一坊やは父のもとに引き取られます(『季刊・歴史と神戸』昭和40年/1965年8月「祖父のことなど」)。……もうこの始まりからして苦難の人生を匂わせるところですが、武田さんが2歳のときに祖母が死に、4歳のときには当時30歳だった父親まで他界してしまったため、身柄は祖父の手に預けられます。

 しかしこの祖父という人が、どうも人生うまいこといかなかったらしく、新しい仕事を始めては失敗し、別の土地に移って心機一転、職にありついては失敗し、ということを繰り返したそうで、武田さんも転校につぐ転校で、せわしない子供時代を送ります。孫のなかで最も期待をかけていた、という武田さんの成長を見ることなく、祖父は74歳で死去。武田さんがまだ14歳のころでした。

 庇護者がみんないなくなり、亡父の兄、神戸にいた伯父のところで暮らすことになりますが、この伯父も別に裕福なわけではなく、兵庫駅の裏にあった貧民街に住む、いわゆる下層な階級にいた人です。大正終わりから昭和のはじめごろ、ああ、こうなりゃおれは勉強して手に職をつけるしかないぞ! と奮起したのかどうなのか、空腹に耐え、勉学に身をそそぎ、苦学生を地でいく生活を送りながら歯科医師を目指しはじめます。

 そのころには「文学」に対する憧れを持ち、一生文学と添い遂げたいという、近代(および現代)社会には一定の割合で発生してしまうオソロしい文学病に罹ったらしいんですけど、優雅に文学書を読んで同人誌に参加するようなブルジョアな生活が許されるはずがありません。医師免許をとるために歯をくいしばって必死に勉強に集中。まるで文学から遠ざかった青春時代だったそうです。

 その成果があったのか、25歳で歯科医師検定に見事に合格を果たしたのが昭和10年/1935年ごろ、さらには結婚して自身で医院を開きます。そして、海を渡って中国の上海へ。……ということになるんですが、どうして行き先が上海だったのか、事情はよくわかりません。生活のため、生きていくため、といえばきっとそういうことなんでしょう。昭和10年代のとくに前半、日本にいる人が生活のために上海に転居する、というハナシはさほど珍しいことではなかった。と断言していいのかどうなのか、しかし居住地を上海に求めたことが、武田さんの文学人生を大きく変えることになります。

 歯科医院を開業したことで困窮の底から浮かび上がった武田さんは、いよいよ、ようやく、心に温めていた文学への情熱を発散させます。上海の邦人社会で結成されていた長江文学会(昭和15年/1940年創設)に参加してまもなく、ゾルゲ事件の影響で『長江文学』がつぶれると、今度は上海芸文会という別の団体が合流するかたちで上海文学研究会(昭和18年/1943年創設)ができ、武田さんがその機関誌『上海文学』の編集を担うことになるのです。当時は「猛田章」という筆名を使っていたそうです。

 『上海文学』というと、内山完造、池田克己、黒木清次といった同人の他に、やはり小泉譲さんの存在を挙げないわけにはいきません。直木賞候補者の、あの小泉さんです。「直木賞、海を越える」のテーマでも一週分取り上げました。上海の地で「文学に対する情熱」というたったひとつの共通点しか持たない二人の男、武田芳一と小泉譲。二人の出会いが、やがて武田さんの前に直木賞候補にいたる道すじをつけることになるのですから、思わず身を乗り出してしまうところです。

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2020年4月 5日 (日)

若尾徳平、ニューギニアで経験した不幸、見た不幸を、小説で表現する。

 昭和53年/1978年1月に白川書院から刊行された『若尾徳平シナリオ集』という本があります。

 若尾さんは大正7年/1918年生まれですから、太平洋戦争が終結したときは27歳。働き盛りのやり盛り、映画の世界からラジオ、テレビのほうまでシナリオライターとして猛烈に働き、その世界で名を残しました。惜しまれながら昭和51年/1976年に他界して、まだ日も浅いうちに、こういうタイトルの本が出るのは、おそらく自然な展開だったでしょう。しかし「シナリオ集」と銘打ちながら、だいたい3分の1ぐらいを小説が占めているのは、いったいなぜなのか。若尾さんの小説に向けた情熱が、おそらくまわりの人たちにも伝わっていたからだと思います。

 回想をたどってみると、昭和14年/1939年、日本全土が戦争の風に吹かれて不穏な世情に包まれるなか、慶應義塾の本科生だった若尾さんは夏休みを利用して上海、南京あたりを旅します。帰国後にこのときの紀行文を書いて、奥野信太郎さんに読んでもらったところ、ふうむキミなかなかスジがいいね、と褒められ、そのまま『三田文学』への掲載が決定。これが同誌昭和15年/1940年2月号に載った随筆「蘇州の一日」だった、ということのようです。外国に行ったことが若尾さんの文章が世に出るきっかけになった、ということでもあります。

 このころからすでに若尾さんは随筆よりも創作に意欲を燃やしていたらしく、いつか小説を書いて発表したい、と思っていたようなんですが、昭和16年/1941年に大学を卒業、日本鋼管に入社した時分に書いた小説を、『三田文学』の編集部にいた和木清三郎さんに宛てて送ります。それが採用されるかどうか結果を知らないまま、昭和17年/1942年に現役兵として入隊、日本を離れたあとで、自分の書いた「盆地」という小説が『三田文学』昭和18年/1943年4月号に載ったので、若尾さん大喜び。その後もひまを見つけては小説や戯曲をいくつか書きますが、それらは発表するあてもないまま、世に出す機会を逸したそうです。

 そりゃ機会も逸するでしょう。世の中それどころではありません。若尾さんも、お国のためだ、おれもまじめに戦わなければと、生来の生真面目気質を存分に発揮して、幹部候補生を志願すると、立派な軍人になるべくがむしゃらに突き進み、新京の経理学校に学んだあとは、北満、そして南洋へと戦場を渡り、忠実に軍務に励みます。要するに、敵とみなしたよその国の人たちをぶっ殺すことに全身全霊をささげたわけです。

 じっさいにぶっ殺したかどうかはわかりませんが、ともかく若尾さんは中尉にまで昇進して南洋戦線の渦中にあったニューギニアに送られます。東部ニューギニア北岸のウェワクに展開された第十八軍所属です。本部からの補給がまるで絶たれたなか、現地で食糧を調達し、現地で敵軍とぶつからなければいけない、死闘というか犬死というか、凄惨極まりない戦線でどうにかしのいでいるうちに、あんたたちいつまで戦っているの、日本政府、降伏したんですってよ、と現地の部族の人にサラッと教えられて、うそだろ、と顔面まっさおになったのが昭和20年/1945年の9月に入ってからのこと。

 当然徹底抗戦しかないはずだ、と思っていた矢先、第十八軍の司令部はオーストラリア(豪州)軍にスパッと投降の意を示し、日本軍はみんな俘虜となってウェワク沖20海里のところに浮かぶ無人島ムッシュ島に収容されることになります。

 若尾さんが復員後に『三田文学』に書いた、いわゆる戦争・戦地モノの一篇「俘虜五〇七号」は、このムッシュ島での俘虜生活に材をとったものです。

 主人公の望月中尉は、杉山隊所属の主計将校で、週に一回、豪州軍から支給される糧秣を受け取り、隊員たち全員に確実に手渡すという役目を担っていました。しかし、あるとき全員に配ったところ、ブリキ罐の携帯口糧がひとつだけ余ってしまいます。すぐに正直に返さなくては、あるいは上官に報告しなければ、と思いながら背嚢に入れておきますが、その間にも空腹感は抑えがたいものがあり、ここでパクッたりしては主計の恥だ、いや、もっと悪いことをしている奴は将校にもたくさんいるじゃないか、とか何とか、天使と悪魔の囁き合いが脳内で繰り返されたあと、ついに望月はみなに隠れて、ブリキ罐に手を伸ばしてしまいます。

 ……といったような導入から、いったいこのブリキ罐と望月はどんな運命をたどるのか、そしてムッシュ島からの移動命令がくだって、11月23日、ついに日本の巡洋艦に乗せられて島を離れるまでの状況が描かれた短い小説です。俘虜生活のなかで「現地自活の励行」という、要はいつ帰れるかわからないから自発的に畑をつくったり魚をとったりしろ、という命令がくだったりするお先真っ暗な状況ですから、明るいハナシなわけがありません。しかしそれでもこの小説を読んで、思わずフフッと笑えてしまうのは、ひとえに望月中尉のクソまじめで律儀な心理が共感できるからでしょう。

 さすがに面白い小説とまでは言えませんが、現場を経験した人によるリアリティが光ります。

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