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2020年3月 8日 (日)

摂津茂和、大学時代にパリやロンドンで生活、アメリカ経由で帰国したことが、のちのち活きる。

 昭和14年/1939年、と言いますからいまから80年ほど前のことです。全編ヨーロッパ(ローマ)を舞台に設定、そこに公演で訪れた女性アイドルグループのてんやわんやの舞台裏を描いて直木賞の候補に挙がった、画期的な小説がありました。それが摂津茂和さんの「ローマ日本晴」です!

 ……というのは、紹介の仕方として少し間違っていますけど、10年以上も前にうちのブログでこの小説を紹介したことがあります。いまや獅子文六さんが復活し、源氏鶏太さんに光が当てられるという驚きの出版状況を見ていると、そのうち摂津さんが再評価されることも、あり得なくはありません。

 ともかく摂津さんのことを小説家として世に送り出したのは『新青年』という雑誌ですが、読み物小説の世界において同誌が海外との窓口役を果たしていたことは明らかです。外国の翻訳物はもちろんのこと、海外の風俗・文化事情などに過敏に反応した読み物をガシガシと載せて、鼻水垂らしたドンくさい日本の青少年たちに、行ったことも見たこともない異国に対する憧れをかき立てる。そのなかの一部の人は、ほんとうに海外に行ったり洋書に親しんだりするなかで、やがてみずからも物を書き、海外文化を紹介する新たな担い手となっていきます。

 よくよく考えれば、『新青年』は大衆文芸の雑誌とは言い難く、範疇の中核からは外れたところにありました。もしも直木賞が、大衆文芸サークルの中だけで完結する目論見でやっている賞だったら、べつにこの雑誌のことを黙殺したっておかしくありません。ところが、大佛次郎さんをはじめ、そんな狭苦しいことを言っていたら読物小説に未来なんかないぞ、と考える選考委員がいたおかげで、直木賞は『新青年』も自分たちのテリトリーにあると認識し、そこに載ったものを候補作として拾い集めてしまいます。

 たとえば、川口松太郎、鷲尾雨工、海音寺潮五郎……と第1回から続くこの受賞者の並びだけを見て、げっ、古くさい旧来の読物小説だけに目を向けた、何のチャレンジ精神もない文学賞だな、と辟易する人は多いと思います(多いのか?)。そう考えると、ここで獅子文六さんの作品が議論されてけっこう高評価を受けたり、木々高太郎さんの『人生の阿呆』を受賞作に選んだりしたことが、直木賞の歴史ではかなり重要になってきます。

 文芸の本領とされてきたガッチガチの文芸誌や同人雑誌ではなく、もっとクダけて世間一般に売られている読み捨ての軽雑誌。そういうところからも「大衆文芸」の観点で顕彰できる作品や作家を見つけ出してきたい、という思いが歴然と現われていると同時に、そのとき直木賞が選択したのが、作風や作品の内容が「海を越えている」ものだった、というのが特徴的です。直木賞にとって外国の風は、けっして否定的なものでも何でもなく、路線が固まりがちな選考の空気を払拭する、大切な視点として受け入れられていたことが見て取れるでしょう。

 なんだかハナシがズレてきたので戻します。『新青年』が発掘した逸材、摂津茂和さんのことです。この人こそ、異国情緒を身にまとっていた代表的な作家と言うしかありません。

 摂津さん、本名近藤高男さんは、明治32年/1899年東京に生まれました。家は多少裕福な部類に属する家庭だったらしく、少年時代にはロンドンからラジオ・セットを取り寄せたり、写真機に凝って家に暗室を設けたり、なかなかの道楽息子だったようです。ちなみに処女小説の「のぶ子刀自の太っ腹」の中心人物は、来日したドイツの青少年団(ヒトラーユーゲント)をもてなす大富豪の女主人ですが、これは当時大富豪だったという摂津さんの伯母がモデルだそうです(『出版ニュース』昭和29年/1954年4月中旬号「私の処女作と自信作 「のぶ子刀自の太っ腹」のこと」)。

 子供のころから書物にもたくさん触れ、とくに中学時代には薄田泣菫と永井荷風をよく読んでいたといいます。ほんとうは大学も文科に行きたかったところ、実業の世界ではそんなもの何も役に立たないぞ、と父親に猛反対され、しぶしぶ慶應義塾の法学部政治科に進みます。在学中の大正12年/1923年、これも父親のすすめで約1年ほどパリおよびロンドンに外遊。摂津さん25歳のときでした。

 この海外体験が摂津さんに何をもたらしたのか。あるいは本場イギリスのゴルフコースに立ったことで、むくむくとゴルフ熱に冒されたのかもしれません。どこで何を見て、どう感じたのかは、あまり自分のことを語りたがらない摂津さんの文章からはほとんど読み取れませんが、少なくともこのときの経験が小説を書くようになったときの、題材の礎になっているのだ、と書いています。

「父は、私が文弱に流れるのを嫌って、私が二十五才の時、ヨーロッパに連れていってくれた。多分、泰西の文明に触れさしたら、もっと気宇が大きくなって、将来有能な実業家になるかもしれないと思ったのであろう。私は一年ほど、もっぱら巴里とロンドンに滞在しつつ、出来るだけ各国を遍歴しているうち、東京震災の飛報をうけて、急遽アメリカ経由で帰って来たが、計らざりき、この旅行が、後年私の小説に、最も潤沢なネタを提供しようとは、父も地下でさぞ苦笑したことであろう。」(昭和28年/1953年・駿河台書房刊『現代ユーモア文学全集 摂津茂和集』所収「年譜にかえて」より)

 すみません、礎になっている、とは書いていませんね。失礼しました。

 ただ摂津さんが、昭和10年代中盤に登場した『新青年』きっての国際派作家、という貴重なポジションに座ったのは(座らされたのは)、大正後期に経験した1年ほどの外遊が、のちになって花開いたものと見ていいと思います。

 帰国後の大正13年/1924年5月、慶應を卒業した摂津さんは、それから10数年、実業の道で悪戦苦闘の日々を送ります。いや、悪戦も苦闘もしていなかったかもしれませんが、この間、まだ日本でそれほど競技人口も多くなかったゴルフを趣味にして、そちら方面での交遊を広げていき、その結果としてゴルフ雑誌に手すさびで随筆を書いていたところ、それを読んだアマチュアゴルファーのひとり水谷準さんから原稿の依頼を受けて、新人作家として『新青年』に颯爽と登場する、という流れになります。

          ○

 時代の流れに従順そうでありながら、しかし常に視線は日本にとどまらず海の外にも向いている。……そういう書き手は、昭和14年/1939年以降の読み物出版の世界でも求められていたんでしょう、摂津さんはいろいろと重宝されます。

 本人いわく、デビュー1年後の昭和15年/1940年のなかばに第3回新青年賞をもらったことがきっかけで、他の雑誌からも注文が入ってくるようになった、と言いますから、直木賞はさておいても、他の文学賞(と「新青年賞」のことを言っていいのかどうなのか)もけっこうあなどれません。

 直木賞のほうはといえば、デビューまもない昭和14年/1939年と、それから戦後の昭和26年/1951年下半期(第26回)にもう一度、摂津さんを候補に選びましたが、選考会で推す声はほとんどなく、授賞には至りませんでした。

 これを見るかぎり、予選のなかでこの作家に注目した直木賞は素晴らしいけど、最終的に授賞しなかった判断は賞としての汚点、と言っていいと思いますが、摂津さんと直木賞の関係で印象ぶかいのが、菊池寛さんが「話の屑籠」に残した言葉です。

 第14回(昭和16年/1941年・下半期)、直木賞は該当作なしに決まりました。菊池さんはそのことを振り返って、小島政二郎が長谷川幸延を推したがおれは反対した、しかし終わったあとで去年候補になっていた長谷川の作品を読んでみたらすげえよかった、これを読んでたら受賞に賛成したかもしれないな……と長谷川幸延さんの悲劇を煽るようなことを書いた「話の屑籠」(『文藝春秋』昭和17年/1942年3月号)があります。これに合わせて菊池さんが、「直木賞委員会の手落ちだった」として挙げたのが、摂津茂和さんの作品集『三代目』です。どうしてこんないい作家を直木賞の候補に挙げなかったのだ、とまで言って褒めています。

 これに対する摂津さんの反応が、以下の文章です。

「(引用者注:昭和)十七年には、私の第二作品集の「三代目」に対して、第五回新潮社文芸賞が授賞され、同時に、私の作品について、文芸春秋「話の屑籠」で、菊池寛氏より、過褒の賞辞をうけた。こういうことを書くと、いかにも自慢話に見えるかもしれないが、事実、私の作家生活において、菊池氏に褒められた時ほど嬉しかったことはない。(引用者中略)十九年の春、私は菊池氏の推薦により、毎日新聞朝刊に連載小説「道は近し」を執筆した。これが私の最初の新聞小説であった。」(前掲『現代ユーモア文学全集 摂津茂和集』所収「年譜にかえて」より)

 当時の新潮社文芸賞なんて、いまや注目する人はいないんじゃないか、というのが悲しいところですが、昭和17年/1942年春に決まった第5回新潮社文芸賞(第二部)の受賞は、摂津さんの『三代目』と長谷川幸延さんの『冠婚葬祭』の二つです。なるほど、これって菊池さんが、しまったー、直木賞あげときゃよかったー、とこの二人をうっかり見過ごしたことを反省して、こっちの賞で補完した結果だったんですね。

 新潮社文芸賞があってよかったです。直木賞の失敗を救ってくれて、ありがとう、新潮社。

 それで国際派の摂津さんのことですが、欧米の風を読物界に吹かせるだけじゃなく、別の意味で海を越えた作家としての一面があったことも忘れてはいけません。昭和16年/1941年に陸軍報道部嘱託として中支前線へ、昭和18年/1943年に海軍報道班員としてマニラへ派遣されたことです。相変らずだらだら書いていたら、長くなってしまいました。『新青年』の国際派作家たちが軍部によって海の外に連れていかれたハナシは、獅子文六さんとか久生十蘭さんとかを取り上げるときにでも触れたいと思います。

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