木山捷平、昭和17年/1942年と昭和19年/1944年、二度にわたる満洲行きが人生を変える。
どうして井伏鱒二が直木賞なんだ。檀一雄は。梅崎春生は。みんな純文学の作家なのに、直木賞なんておかしいじゃないか。……というハナシは、もう反吐が出るぐらい聞いてきました。いまだにそういうことを鬼の首でもとった感じで言われると、口から出せる反吐もなく、カラ笑いでごまかすしかありません。だいたい純文学(と見なされる作品)を書く作家に、大衆文芸エリアの直木賞が、賞をあげて何が悪いんでしょうか。そんなことを問題視するほうがおかしいです。
ただ、そういうことを言い出すと、おまえに大衆文芸や純文学の何がわかるんだ、と下手にカラまれかねません。やめておきます。
文学賞のことに絞ります。ともかく直木賞が「もはや芥川賞をとるには筆歴を重ねすぎた純文学出身の人びと」に、あらためて顕彰の機会を提供する性格をもつようになったのはたしかです。やがてそのうち、両賞の思惑や対象となる作家群がドロドロッと溶けて交わり出し、二つの賞の候補を行き来する作家、みたいな存在が現われたことで、事態は混沌としていきます。ともに直木賞における純文学作家跋扈の例ではありますが、基本的には分けて考えたいところです。
第30回(昭和28年/1953年下半期)と第36回(昭和31年/1956年下半期)の2度、直木賞の候補になった木山捷平さんは、確実に前者の代表例でしょう。「もはや芥川賞をとるには筆歴を重ねすぎた純文学出身」のひとりです。
戦前に同人雑誌グループから出てきた木山さんは、何度か芥川賞の候補になりながらも受賞には及びませんでした。仲間たちは、賞をもらって脚光を浴びたり、続かなくて別の道を模索したり、あるいは不慮の事故、戦争に駆り出されたことが原因で命を落としたり、とそういうなかで筆一本の職業作家をつづける古株の作家に、何か浮かび上がってもらうチャンスはないものか。そんな思いをめぐらせて予選を通過させた文藝春秋の人たちの判断は、けっこういいものだったと思います。
しかし、木山さんが芥川賞の候補になってから直木賞で議論されるまでの年月、10数年。さまざまなことが起こりましたが、ここでは木山さんが体験した重要な出来事をひとつ挙げておかなければいけません。言わずもがな、海を越えたことです。
昭和17年/1942年6月7日から8月3日にかけての約2か月間、木山さんは生まれてはじめて海を渡り、中国北部、東北部、満洲あたりを旅します。日本がアメリカとの交戦状態に入ってほぼ半年、国内の出版界では徐々に統制という名の公的な制限、世間一般の雰囲気の変化があった時代ですが、なぜここで木山さんは外国旅行を思い立ったんでしょうか。
このあたりの背景は後年、木山さん自身が小説化もしていますし、いろいろと評伝、評論も書かれているので、そちらにまかせます。ただ、ひとつ言うと、当時の木山さんは妻子を養う立場にいた38歳の男性です。うちのブログで触れてきたなかにも、何人かそんな人たちがいました。私生活や仕事に倦みを感じ、何かを変えたくて単身、日本を飛び出す……みたいな心理はあったんじゃないか、とは容易に想像できます。
あるいは、「一生に一度は海を渡っておきたかった」という木山さん自身の述懐が、けっこう単純ですけど正直なところかもしれません。とにかく女房の反対を押し切ってまで、海の上を船で行くことに執着したというのですから、「海を渡る」ことに対する、余人には計り知れない欲求をひしひしと感じます。
「海を渡つたのは、生れて初めてのことであつた。私は日本の本州生れなので、まだ九州にも四国にも渡つたことがない。にもかかはらず、そんな私が一躍外国の支那などへ旅行できたのは、時勢のおかげとでも言ふの外はない。
(引用者中略)
私の女房など不断は気のきかぬ癖に、この時ばかりは良妻ぶりを発揮して、しきりに陸路をすすめたが、私は頑として応じなかつた。また、私と同行することになつてゐた或る婦人など、自分はどうでもいいが万一の時は子供が可哀さうだからと陸路に変更したが、私は海路に固執した。子供のやうに一図に、海が渡つて見たかつたのである。」(『海運報国』昭和18年/1943年4月号 木山捷平「海の旅」より)
このときはまったくの自費だったそうですが、満鉄の鉄道総局で働いていた日向伸夫さんを通じて「全満旅行パス」なるものを提供され、黒河あたりから、大連、天津と大きく満洲を旅あるき、何もなければ一生に一度になるはずの外国旅行を満喫(……?)した模様です。あくせく働かずに済み、満洲のメディアに紀行文などを書いて小遣いを稼いでは、日本の支配下にあった外地を見て歩く、という行程ですから、そりゃあ満喫しなけりゃおかしいです。
ところが、人生、何も起こらないなんてことは、まずありません。帰国して約2年、たった2年のあいだに社会の状況がみるみる変わり、40歳に達していた木山さんのもとにも国民徴用の出頭命令が届きます。結果は、持病の座骨神経痛のため選考には通らなかったそうですけど、そのころ再び木山さんは満洲に渡ることを決意。今度は「農地開発公社」の嘱託社員という身分をもって、昭和19年/1944年12月、だれから命じられたわけでもなく木山さんは日本を離れ、満洲に渡ります。
その決断が人生を変えた……と断言してしまいましょう。それは結果論以外の何モノでもありませんけど、結果としてそうなってしまったのですから仕方ありません。と同時に、この二度目の渡満が、直木賞候補者としての道に通じることにもなります。
○
昭和20年/1945年8月、木山さんは満洲で終戦を迎えます。それから国に帰ることもできず、死と隣り合わせのような難民生活を送ること約1年。昭和21年/1946年8月にようやく引き揚げを果たします。妻のみさをさんが言うには、帰国後の木山さんは「難民生活一年は百年を生きた苦しみであったと、一言を私にいってその他は何も語りませんでした。」(昭和50年/1975年8月・講談社刊『酔いざめ日記』 木山みさを「あとがき」)だそうです。
その後は徐々に職業作家としての仕事も復活していきますが、戦後まもない文芸界でお世辞にも華々しい復活を遂げたとは言いがたく、何となく昔から書いているけど、何となく文壇の片隅にいつづけている人ですよね、というところに落ち着きます。飄々とした筆致、独特の作風、などと言われながら、要するに地味で吹けば飛ぶような小作家……ぐらいに扱われていたと見るのが適切でしょう。
その木山さんの評価といいますか、商業出版界のなかでの風向きが変わるのが、満洲での体験を私小説ふうに描いた一連の大陸もの、とくに『大陸の細道』(昭和37年/1962年7月・新潮社刊)とか『長春五馬路』(昭和43年/1968年10月・筑摩書房刊)とかの作品によってだった、というのは間違いないところだと思います。
いや、もっと言うと、昭和31年/1956年に「耳学問」の一作があります。これも昭和20年/1945年、敗戦の報を外地満洲で聞いた現地召集兵の「木山捷平」がそのときの体験を、肩をいからせず自然に描くという、もう木山さんの真骨頂みたいな小説です。発表されるや平野謙さんに高く評価されるは、直木賞の候補になるはで、大きく潮目が変わったらしい、ということは何年かまえにうちのブログで触れました。じっさいこれに付け加えることはありません。
「耳学問」が掲載されたのは、もはや文芸雑誌の皮を脱ぎ捨てた総合誌の『文藝春秋』でした。ここに載せた作家歴20年を超える人の短篇を、さらっと直木賞のほうの候補にしようと思う文春編集者の感覚もエラいと思いますが、悲しみをたたえながらそれでも軽みのある木山さんの筆が直木賞向きだった、というだけでなく、そもそもこういう作家の一短篇を顕彰できるような制度が、当時は直木賞しかなかったということでもあります。
そこでスカさず候補に挙げた直木賞に対して、文句を言うほうがどうかしています。まあ、直木賞もけっきょく賞を送れなかったんですから、イバるほどでもありませんけど。
(この部分、コメント欄でのご指摘により、重複していた段落を削除・修正)
ともかく小説が世間でどう評価されるかは、どのような表現・文章で書かれているか、だけではなく、何を書いているか、ということもセットで大事です。この場合はひとつ「素材」と言い換えておきますが、木山さんが戦中、日本にとどまっていたら昭和30年代以降の数々の小説は生まれていなかったでしょう。
生活を変えてみたい。気分を転換したい。社会に息苦しさを感じて逃げ出したい。何でもいいんですけど、ひとつの決断をもって海を渡ったことで活路を開いた直木賞候補者。木山さんも明らかにそのひとりです。
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コメント
後ろから3段落目あたりが重複しています。
投稿: D | 2020年3月 2日 (月) 02時16分
Dさん、
ご指摘いただきありがとうございます。
全然読み返しもせず、書きっぱなしで上げているのがバレバレで、お恥ずかしいかぎりです。
該当箇所、修正させてもらいました。
投稿: P.L.B. | 2020年3月 2日 (月) 02時59分