服部真澄、編プロ時代に知った、返還まえの香港にまつわる怪しい情報をネタに、小説を書き下ろす。
長いあいだイギリスの統治下にあった香港が、平成9年/1997年7月、中国に返還されました。
「されました」と書きましたが、これがまだ近い将来に起こる未来の出来事だった平成7年/1995年夏。発売されたとたんに、主にミステリーや冒険小説好きたちのあいだで評判が過熱、一気に10数万部のベストセラーになったのが服部真澄さんのデビュー小説『龍の契り』です。
じつは香港返還に関わる密約が、各国のあいだでひそかに交わされている。という、表立った報道の上には出てこないマユツバな噂レベルの話を大きな軸に据え、イギリス、中国、アメリカ、そして日本の政治ないしは経済のからんだ緊迫の情報戦を、サスペンスフルに描いた弩級のエンターテイメントです。
……と、そういうあらすじだけ聞くと、これが直木賞の候補になったところで絶対にとれやしないだろう、とおおかたの人が感じると思います。じっさいにとれなかったので、おおかたの人の直木賞観は合っていたということになりますが、いかにも直木賞っぽくないことがわかっている小説を、わざわざ直木賞の候補に挙げた文藝春秋の編集者たちの感覚が光っていた、とも言えます。
この作品をひっさげて登場した服部さんは、その後10数年たったころには「国際情報小説の女王」とか呼ばれるようになっていたらしく(『週刊大衆』平成17年/2005年12月15日号)、いっとき服部真澄といえば国際モノという印象があったのは、たしかでしょう。直木賞の候補になったのはいちばん最初の一回こっきり、それ以降はまったく系統のちがう作品を次々と書きながら、ついぞ直木賞と交わる機会はなくなってしまいましたが、物語の舞台を海外のあちこちに移しての国際謀略小説、というのは、なかなか受賞までは至らないという前提のなかで、確実に直木賞の歴史を華やかに彩ってきました。そういう意味でも服部さんが、90年代中盤の直木賞に大きな足跡を残してくれたのは明らかです。
何がどう明らかなのか。ワタクシもよくわかりませんけど(おいおい)、とくに海外と縁のある家庭に生まれたわけでもなく、日本の骨董や職人の世界に心を惹かれながら、有能な編集者兼ライターとしてバリバリ仕事をしていた方が、とにかく自分で面白いと思う小説を書いてみよう、と考えて最初に手がけたのが、たまたま国際的な内容だった。という、そこのところが特徴的です。
「たまたま」と言っても、服部さんが海外とまるで縁がなかったわけではありません。大学卒業後に入った「東京ホットライン」という編集プロダクションで、さまざまな受注の仕事を手がけるなか、ガイドブックを制作するために1か月ほどシンガポールで暮らしたことがあり、そこで華僑という存在やそのネットワークに関心をもったといいます。
他に『龍の契り』成功伝説のなかで語られているのが、JETROのPR誌の制作を請け負ったときに、シンガポールが香港の映画産業を誘致する、という内容のコラムを目にしたとか、香港のガイドブックを読んでいたとき、返還にまつわる密約があるらしいという噂に触れた記述を見つけたとか、そういうことがあったそうです。
編プロの仕事は、基本、発注先の求めに応じてモノをつくる作業です。無理難題をふっかけられたり、自分を殺して文章を書いたりしなければならないことも、なくはありません。ああ自分は、こんなことをいつまで続けるんだろう……と、30代、40代ぐらいの大人になると、どんな職業に就いていてもついつい思い悩む状態に、服部さんも陥ったらしく、自分で好きなものを書けたらいいなと思って、いろいろと小説になりそうな話題を調べたりしはじめます。そのなかの一つが、香港返還に関するアヤしくて誰も真実のわからない「密約」の噂だったのだ、ということです。
「調べていくなかで香港返還をめぐる密約の噂を知った。
「これはネタになると思って、初めて小説を書く気になったんです。だから最初からサスペンスものが書きたくて書いたわけじゃない。ハーレクインのような恋愛小説でも何でもよかった。ただ面白い小説を書ければと……。たまたま見つけた材料がそういう類いのものだったので、結果としてこういう小説に仕上がったということなんです」」(『SPA!』平成7年/1995年11月8日号「いい材料(ルビ:ネタ)が見つかれば、ハーレクイン調の恋愛小説でもよかったんです」より)
いかにも題材は何でもよかった、というように読めるインタビュー記事ですが、しかし密約に関する噂を知っても、それが小説執筆の衝動にいたらない人間はたくさんいると思います。これを知った服部真澄という人間が「小説になりそうないいネタだ」と感じたことが重要で、昭和36年/1961年に一般企業(というか電電公社)に勤める親のもとで東京に生まれた女性が、すくすくと成長するなかで、おのずとこの素材に面白さを見出せる感覚をもつようになった、ということでもあります。
ことさら「海を越えること」への特殊性が見えません。当たり前というか、自然な流れというか。直木賞の選考ののぼる小説もしくは、その作家たちが、海を越えたとかどうだとか、そういうことを特別視するほうがおかしく見えてきます。第114回(平成7年/1995年・下半期)というのは、時代からいうとインターネットが一般的に普及していく途上、前夜ぐらいですけど、もはや直木賞も日本が舞台だからどうだ、外国だからどうだと言っている場合じゃなくなった時期に当たる、と言ってもいいです。
直木賞もそろそろ文芸ヅラした仮面を脱ぎ捨てて、国際諜報の話題をエンタメにフル活用した『龍の契り』のような小説に与えてもよさそうな頃合いでした。しかしこのときも、全然授賞にはほど遠い結果を出してしまいました。なかなか頑固です。直木賞。
○
『龍の契り』の衝撃(?)は平成7年/1995年のことです。それほど最近ではなく、もう25年もまえのハナシです。
直木賞の内情や、選び取る作品作風もその後、多少は変わってきているとは思いますが、とりあえず誉田哲也さんの『背中の蜘蛛』(第163回候補)あたりの絵空事感は受け入れられないようなので、おそらく『龍の契り』がいま、直木賞の候補になってもやっぱり授賞には遠いでしょう。残念なことです。
……というところで、「海を越えた直木賞」をテーマにして服部真澄さんをダシにした今日のエントリーは、だいたい書くこともなくなりました。「小説のネタとして面白い」ということのほかに、もう少し作者と香港のあいだに濃密なつながりがあれば、と思ったんですが、ご本人いわく、どうもそうでもないようです。
「処女作で香港を題材にしたがために、読んでくださった方々が、いまだに、作者との話題にと、香港を選んでくださる。香港通の情報を期待して。いわんや、出版後すぐであれば、題材について聞かれるのは当然だっただろう。ところが、処女作が脱稿した途端に、私はもう、香港について識ったすべてを、すっかり忘れ去っていたのである。」(『小説TRIPPER』平成12年/2000年春季号[3月] 服部真澄「〈私が小説を書き始めた頃〉まさか、この私が……」より)
ここら辺がいかにも、他人の事情でこき使われてきたライター出身作家の限界だ、面白そうなネタだと見ると即座に飛びついて、必死の努力で勉強してうまい原稿はつくれるかもしれないがそれまでのこと、のちのちの読者の心に残るような深い味わいの文芸作品を生み出せないものなんだ……といったような切り口で服部さんの小説を批判した文章を、むかし読んだような記憶があります。どこで誰が書いた批判だったか、上手に典拠を探せなかったんですが、まあ仮にもしそうだとしても、別にそれでいいじゃないか、という気もします。
現地に足しげく取材に訪れるわけでもなく、周辺のディテールをかためるために人に会って話を聞き、本や資料をさがして細部を組み立てて、どうやったら面白い小説になるか、その一点を見据えて全神経を叩き込む。そのために、キャリアを積んでいた会社員の立場を放棄し、どういう結果になるか先の見えないなかでコツコツと小説を書きつづける。作者の覚悟や対象に対する熱意がそそぎ込まれた一作であることは間違いありませんし、それで十分すぎるほどに、十分です。
私見によれば、たとえ直木賞の受賞作に選ばれたとしても、その小説や作家が「深い味わい文芸作品で、のちのちの読者の心にまで残る」とは限りません。とりあえず、服部さんのデビュー当時の小説が、香港も返還され、国際情勢もさまざまに移っていく現在や将来にいたるまで、読み継がれるものかどうかわかりませんけど、直木賞という文学賞と比べるかぎりは、五十歩百歩のいい勝負かと思います。
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