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2020年3月22日 (日)

丸元淑生、寝る間も惜しむ『女性自身』編集部時代、毎週のようにラスベガスのカジノに行く。

 令和2年/2020年3月13日、アメリカの大統領が国家非常事態を宣言するなど、国内・国外問わずに事態は深刻化しています。今日3月22日には、日本の外務省がアメリカ全土への不要不急の渡航自粛を求める、と判断したそうです。封じ込め、水ぎわ作戦など、いろいろなことが言われています。だけど、たいていのものは、かるがると海を越えてしまいます。

 まったく、そんなときに昔の直木賞がどうしたこうしたと、のんきにほざいている場合か。……と、一瞬たりとも思わないワタクシの脳は、たぶんイカれ切っているのかもしれません。今週もいつもと変わらず、海を越えた直木賞(の候補者)のことだけを考えていくことにします。

 丸元淑生さんです。純文学方面で注目を浴びた作家たちの例にもれず、丸元さんの場合も、芥川賞のほうで何度も候補に挙がり、受賞直前まで評価されながら惜しくも落選した人、として語られるいっぽうで、直木賞の候補に挙がった逸話はほとんど見かけません。おお、美しいまでに直木賞のことが黙殺される世の中よ。「両賞にまたがった候補者」の履歴には、だいたいありがちな展開です。

 ありがちではありますが、人間はみな一人ひとり違います。そうあっさりと見過ごすわけにはいきません。たった一度でも候補に挙がった、直木賞にとっては大切な作家。いったい丸元さんはどういう履歴の人で、どういう関係で海を越えたんでしょう。少し追ってみます。

 昭和9年/1934年に大分県で生まれた丸元さんは、大人になるまでの成長期に悲しみや苦しみを伴う重大な体験に見舞われます。日本が突き進んだ戦争および敗戦の道。戦時中、佐田岬での守備隊長を命じられていた父親は、復員後にもとから勤めていた電力会社に復職しますが、栄養不足のうえ、たび重なる出張も祟り、47歳の若さでこの世を去ります。丸元さんが大学1年生のときでした。

 その大学ですが、東京大学の文学部仏文科を選んだ、というところから見て、もとより文学に対する丸元さんの関心は高かったのでしょう。しかし、丸元さんが若くして注目(?)されたのは、創作者としてではありません。編集・出版に対する卓抜した感覚と実行力の持ち主としてです。

 在学中に『東京大学学生新聞』の編集委員を務めるかたわらで、昭和31年/1956年には出版社「パトリア書店」を設立。一瀬直行さんの『浅草物語』(昭和32年/1957年)をはじめ、いろんな本をつくったらしいですが、一発大きなヒットをかっ飛ばします。土門拳さんの『筑豊のこどもたち』(昭和35年/1960年)です。このザラ紙でできた写真集を一冊100円で販売したところ、話題につぐ話題を呼んで売れに売れ、最終的には10万部を超えてしまったと言います。

 ベストセラーを出せばその出版社に莫大な利益が入り、ウッハウッハの安泰経営。というほど簡単じゃないのは今も昔も変わりません。採算的に厳しいやりくりのなかで、丸元さんは25歳のときに大学を卒業しますが、まもなくパトリア書店は倒産を余儀なくされます。しかし男一匹、丸元淑生、そんなことでへこたれるわけもなく、出版界を見渡せば全体的に出版物が増えつづける成長産業、ひとりでも多くの書き手や編集者が求められていました。丸元さんもフリーのライターとして週刊誌とかそこら辺の、泥水を呑んで原稿を書く世界で動きまわり、徐々に頭角を現わします。『週刊新潮』の「黒い報告書」シリーズに「村上進」という名前で書いていたライターは、じつは丸元さんだそうです。

 いっぽうで昭和33年/1958年に光文社が創刊した女性週刊誌『女性自身』には、最初からライターとして参加、やがて1960年代なかばには同誌の編集長に就くのですから、そうとうなヤリ手だったんでしょう。このころには光文社に籍を置いていたらしく、当時経営の実権を一手に握っていた神吉晴夫さんのもとで、つくる雑誌がぞくぞくと売れ、お金もガッポリ入ってきます。

 いまを生きる世代からすれば、コノヤロうまいことやりやがって、と思わないでもありませんが、高度経済成長の波にのってアッパラパーで浮かれ切った仮面を装いながらも、腹の底ではその風潮に違和感を覚えずにはいられない、昭和ヒトケタ世代の複雑な心理を、丸元さんもずっと抱えていたようです。

 転がり込んだあぶく銭……と言っては語弊があるかもしれません。とにかく、どうやったら雑誌が売れるか考え抜き、徹夜徹夜で儲けたお金を手にしたとき、丸元さんは海を渡ります。

 ひんぱんに外国に飛び出します。その行き先のひとつが、アメリカ・ラスベガス。ギャンブルという享楽のゲームを一大リゾートにまで仕立ててしまった、魅惑の街です。虚飾というか欲望というか、ギャンブルの世界に入り込んでしまう心理状況も、人間がたしかにもつ一面であることは言うまでもありません。丸元さんも、週刊誌勤務時代にかなりカジノにハマったそうです。

「十年あまり前の何年間か、私は(引用者中略)ひどいときは毎週のようにラスヴェガス通いをした。当時の私は週刊誌の編集者だったのだが、金曜の夕刻に東京を発ち、月曜の夜には東京に着いていたのだから、仕事にはさしつかえなかったのである。

(引用者中略)

因習、土着、桎梏の外にいて、澄みきった空気を吸っていると、すべて風通しがよくなる。(引用者中略)私が倦きずラスヴェガス行きをくり返したことも、おそらく、この空気と無縁ではなかった。むろん一個のギャンブル狂に間違いなかった。それにしても行くたびに元気づいて帰ってきた。だから、また行けたのだろうと思う。」(『文藝春秋』昭和55年/1980年2月号 丸元淑生「わが町、ラスヴェガス」より)

 と、丸元さんと海外の縁、といって賭博の街ラスベカスのことを持ち出すのは、果たして適切なんでしょうか。息子さんがアメリカに留学したこととか、栄養学の研究を求めて世界各国を飛びまわったとか、そちらのほうを語るべきかもしれません。しかし、ここでは丸元淑生といえばラスベガスだ、と断言しておきたいと思います。なぜなら、それが直木賞に、丸元さんとの縁をもたらしたからです。

          ○

 ちょうど光文社の労働組合がストライキでゴタゴタしていた昭和48年/1973年頃、神吉晴夫さんから新雑誌の企画を命じられた丸元さんは、健康雑誌をつくってみたらいいじゃないかと考えます。結果「自然館」という別会社をつくって『ヘルス』を創刊したのが昭和49年/1974年。丸元さんが40歳を迎えようとするころです。

 しかし、神吉さんが出してくれるはずだった運転資金が止められ、丸元さんが身ぐるみ一切合切の負債を抱えるかたちで『ヘルス』は廃刊してしまいます。ここでいよいよ丸元さんは小説家としてデビューするわけですが、昭和53年/1978年『海』10月号に発表した「秋月へ」で、いきなりの芥川賞候補に。その熱もまだ冷めないうちに『文學界』に寄せた初の作品が「鳥はうたって残る」(昭和54年/1979年6月号)です。丸元さんが毎週のように海を渡って訪れていた昭和44年/1969年当時のラスベガスを舞台に、賭博にハマった日本人雑誌ライターを主人公とする、静謐で落ち着きのある短篇なんですが、これがなぜか、第81回直木賞(昭和54年/1979年・上半期)の候補に選ばれます。

 ちょっとクールでキリリとイカした短篇小説が、そのたった一篇で直木賞の候補に挙がることは、いまではもう考えづらい事態ですが、昭和50年代の直木賞はそういうところにもけっこう目を配っていましたので、あまり不思議ではない予選通過だった、と言っておきましょう。予選は通りましたが本選ではやはり厳しく、この作家は「秋月へ」みたいな純文学のほうを突き詰めたほうがいいんじゃないか、とか余計なお世話な選評が繰り出されたりして、丸元さんの海外モノはあっさりと落選します。

 その後は、「羽ばたき」「遠い朝」と、かなり丸元さん自身の経験や実体験を下敷きにした小説が『文學界』に載り、芥川賞受賞まであとわずか、というぐらいに期待されながら、丸元さんいわく、純文学なんか書いていても本は売れずに収入はカツカツだったということで、『ヘルス』編集時代の借金はまるで減っていきません。何とか売れる本を書かなきゃいけない。そういうなかから文庫書下ろしの『丸元淑生のシステム料理学 男と女のクッキング8章』(昭和57年/1982年6月・文藝春秋/文春文庫)が生まれたのだそうです。

 それまで編集者として積み重ねてきたものが、直木賞とか芥川賞とか、そういった小説の方面ではなく、別のかたちの作品になって丸元さんの後半生の名刺となっていった、ということです。アメリカに渡ったことや、ギャンブラーの生態を身近に見聞したことは、(おそらく)人間と健康と食事というテーマを深めるうえでも、めぐりめぐって丸元さんの料理学に生かされていったんでしょう。それはそれで直木賞の出る幕は、もうありません。

 ということで、今日のエントリーの、とくに丸元さんの履歴に関する部分は『AERA』平成10年/1998年11月30日号「現代の肖像 「老戦士」癒しの食卓。丸元淑生」の記述を、かなり参考にしました。この記事をまとめた佐山一郎さん、ありがとうございました。

 ちなみに文芸誌に小説を書いていたころの丸元さんを、佐山さんはこんなふうに紹介しています。

「地下鉄の切符代にも困るどん底生活のなかで、身辺に材をとるのたうちまわるような小説作品を書きつづけ七九年の第八十回、八〇年度の上半期、下半期の芥川賞候補に三度連続ノミネートされた。(引用者中略)二度目のノミネートで、ほぼ受賞が決まりかけたとき、強硬に反対したのは、開高健だった。起死回生の賞獲りレースにおいても丸元は一敗地にまみれる。

「芥川賞を三回も落ちると、借金取りも黙っていない。返せ返せとうるさく言い出しました。」」(『AERA』平成10年/1998年11月30日号より ―文・佐山一郎)

 事実を言いますと、丸元さんが候補に挙がったのは「三度連続」ではなく、第80回芥川賞(昭和53年/1978年下期)、第81回直木賞(昭和54年/1979年上期)、第83回芥川賞(昭和55年/1980年上期)、第84回芥川賞(昭和55年/1980年下期)という順番です。あいだに直木賞が入っているのです。

 悲しいことに、この『AERA』の記事には直木賞のナの字も出てきません。美しいまでに直木賞のことが黙殺されるこの世の中。……こちらは今日も何ごともなく、平穏無事な一日でした。

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