篠田節子、ウイルス感染のパニック小説で、インドネシア・バンダ諸島に目を向ける。
インドネシア東部、バンダ諸島の最南端に浮かぶ火山島ブンギ。およそ400人ほどの島民が暮らしていましたが、ひとりまたひとりと死んでいき、ついには全島全滅してしまったそうです。それから約4年ほどたった平成5年/1993年、日本の首都にほど近い埼玉県のベッドタウンで、「新型の日本脳炎」と思われるウイルス感染症が突如発生。市民たちは一気に不安におびえ、市の保健センター職員や医師たちは硬直した対応しかできない行政組織のなかで懸命に出口を見出そうと奮闘します。
と、未知のウイルスが蔓延する現代社会の問題にするどく切り込んだのが、平成7年/1995年に毎日新聞社から書き下ろしで出版された篠田節子さんの長篇『夏の災厄』です。デビューしてから約5年。篠田さんが第113回(平成7年/1995年・上半期)、はじめて直木賞の候補に挙げられた記念すべき作品でもあります。
つい先日『朝日新聞』に載った「(新型コロナ)脅威と向き合うために 読むべき一冊、6人が寄稿」(令和2年/2020年3月25日)という記事でも、藤田香織さんがこの小説を紹介していました。読むべきかどうかまでは、さすがに保証できませんけど、発表されてからずいぶん経ったいま読んでも作品の魅力が失なわていないことを、ワタクシも再確認したところです。
いわゆる「パニック小説」というのは、洋の東西問わず昔から数々書かれてきた伝統的な小説形態のひとつです。直木賞の長ったらしい歴史のなかでも、そのいくつかが候補に挙がっては、読者を震え上がらせたり、はたまた「そんなことあるかよ」とあきれさせてきました。つくりごととリアリティのあいだに果敢に攻め込むパニック物は、守りに入ってなかなか冒険の手を打てない直木賞のような賞では、候補になったとしても本選で高く評価されることは少なく、たいていが「候補作どまり」で終わります。『夏の災厄』もそうです。
しかしその後、篠田さんは次々に、つくりごととリアリティの間隙を突く小説を世に問います。第115回(平成8年/1996年・上半期)で『カノン』、第116回(平成8年/1996年・下半期)で『ゴサインタン 神の座』が候補になり、とくに後者のほうは出来もバツグン、気合も十分という感じの濃密な小説だったので、受賞まずまちがいなし、とか何とか周囲からもいろいろと煽られたらしいですが、結果的にこれではとれず、その半年後、第117回(平成9年/1997年・上半期)の『女たちのジハード』でようやく受賞が決まりました。
どうですか。篠田さんを受賞者に迎えるにあたってよりによって『女たちのジハード』を選ぶという、この直木賞のハズしっぷり。手を伸ばせば届くぐらいの狭い世界のリアリズムじゃないと、ほんと直木賞ってOKサイン出さないよねー、と思わず微笑んでしまいますが、それはそれとして、これら候補作の並びだけ見ても、篠田さんの海外志向が如実に現われています。まあ海外志向といいましょうか、舞台を日本にとどめておかずに、ゆったりとした広がりをもつのが、篠田作品の真骨頂です。
『ゴサインタン』では嫁不足に悩む日本の田舎のハナシから遠くネパールにまで世界が広がり、『女たちのジハード』では、大人の女性たちの向かう先としてネパールやアメリカが自然なかたちで入り込んでいます。『夏の災厄』は、〈埼玉県昭川市〉という架空の一地方都市で起きるウイルス感染が基本的な設定にありますが、冒頭に挙げたように、これとまったく同じ症状の感染がインドネシアの離島で起きていた、というのが悲劇のカギを握っています。
海外というと、おおむね自分の身には関係のないヨソサマの出来事、というのがだいたい昔から現在まで社会認識の基本ラインにある感覚でしょう。そういう感覚が誤っていることに、するりと気づかせてくれるのが、あるいは篠田作品の特徴なのかもしれません。……いや、特徴じゃないかもしれません。無理やり「海を超えた直木賞」のテーマにこじつけようという論法がみえみえですね。すみません。
だけど、東京にほど近いどこか架空の街で、住民たちの生命をおびやかす目にみえない病原と、そこで巻き起こるさまざまな事態を描くにあたって、どうしてわざわざインドネシアのエピソードが必要なのか。といえば、これは作者の篠田さんが必要だと思ったからだ、と言うしかありません。人類の社会から完全に疫病が消えたわけではなく、とくに衛生、医療環境の整っていない地域では、治療薬もワクチンもないウイルスが、ぞくぞくと発生しているかもしれない。たしかにそのとおりです。その現状を見れば、日本の一地方のハナシに終始させるより、海の外にも目を向けたほうがリアリティが生まれるような気がします。
もはや小説のなかのリアリティは、海の向こうを取り入れたところでつくられる、ということなんでしょうけど、「もはや」もクソもありません。『夏の災厄』が書かれたのは20年以上もまえの、かなり昔のことです。しかし、当時の各選考委員の選評を読んでみると、これがまったくの酷評といいますか、新しいものに食いつく気ゼロの雰囲気がありありと出ていて、相変わらずこの賞の頑迷ぶりが露呈しています。この段階でもまだパニック物が直木賞で理解されるには早すぎたようです。
賞をとろうがとるまいが、パニック物と篠田節子といえば、切っても切れない(?)相性のよさは否定できないところですが、もう少し昔の文献を追ってみると、デビューする前に篠田さんが体験した大きな出来事として、あるひとりの作家の、あるひとつの小説との出会いがあった、というハナシにぶち当たります。西村寿行さんの『滅びの笛』(昭和51年/1976年9月・光文社刊)です。
『夏の災厄』よりさらに20年ほど前に刊行された、これもまた、どこからどう読んでも正真正銘のパニック小説です。そして、やはり直木賞の候補作に選ばれ、選考委員たちからさんざんに言われて落とされた、という点が共通しています。直木賞のことばかり書いていたいうちのブログとしては、見過ごすわけにはいきません。
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